第十三章 蜥蜴の夢(6)
老人の家の中は、ミミリの家とは正反対のように雑多なものがあった。木の実の入った籠や干された薬草、草を編んだ織物など生活感に溢れている。おそらくはこれが標準的なルナの村の生活なのだろう。ベッドはふかふかそうで、床はミミリの家とは違い木組みの床で、客をもてなすクッションまであった。
「率直に言おう。おぬしの記憶と正体についてだが、ワシにも見えん。おぬしはあまりに強大すぎる何かに関りがあるようじゃ。そのせいで、おぬしの身の上は、ワシらが見ることができる許容量を超えてしまっておるのじゃ。これほどまでに強大な気配はワシも初めてじゃ。そうさな、例えるなら、まるで神の目を覗いたようだ、とでも表現しようか」
老人は、僕たちをクッションに座らせると、そう話し始めた。僕はミミリに抱きかかえられたまま、その話を聞いた。ミミリは僕を離すとその瞬間、煙のように消えてしまうのではないかと怖がっているかように、僕をがっちりと抱えて離そうとしなかった。
老人はそんなミミリの様子を気にした素振りもなく、名前を名乗った。
「名乗るのが遅れた。ワシはバムノーという。無駄に長生きしておるだけじゃが、ルナの村の皆からはバムじいと呼ばれて長老扱いされておる。まあ、おぬしの身の上ひとつろくに確かめられぬ老いぼれよ」
「ありがとうございます。それでは僕も、皆に倣ってバムじいと呼ばせてもらいます」
僕は天井を見上げながら答えた。別にそうしたいわけではないけれど、ミミリに抱きかかえられているから、天井しか見えないのだ。降ろしてほしいのはやまやまだったけれど、バムじいとの会話の腰を折りたくなかったから、ミミリの気の済むようにさせておくことにした。
「僕自身、あなたが言う強大ななにかに心当たりがあるような気がします。ただ、思い出せないというより、思い出したくないといった感じで、思い出すことを拒んでいるような感覚があります」
「そうじゃろう。迷い人となって流れ着く者は皆そうじゃ。思い出したくない心の傷がある者ばかりじゃよ。じゃが、解せんこともある。お前さんがこの村での休息を必要としているようには見えんのじゃ。確かに、お前さんの言う通り、お前さんにも心の傷はあるのじゃろう。しかしの、ワシにはお前さんが心の傷に負け、挫けてしまったようには見えんのじゃ」
バムじいは相当不思議がっている様子で、腕を組んで唸った。僕が黙っていると、バムじいはそもそもルナの村について、僕が何も知らされていないのだと気が付いてくれたように、説明しだした。
「このルナの村はの、別名を、忘却の村、世捨ての村とも呼ばれておってな、俗世に疲れ、深く心が傷ついた者が心を癒すために求めてくる場所なのじゃ。ワシらはそういった、外から流れ着いた者を迷い人と呼んでおる。迷い人たちは俗世の一切を忘れ、心の傷を癒す休息の時をこの村で過ごすのじゃ。そして心の傷が癒えるころ、俗世を思い出し日常に帰っていく。じゃが、ワシが見た限り、お前さんは休息を求めておらん。おぬしの目は活力に満ちておる。己の内なる世界ではなく、広く外の世界を見る目じゃ。まるで、おぬしが求めてやってきたというより、おぬしの旅の途中で、村のほうがお前さんを呼び寄せたようじゃ。不思議な宿命よの」
「もしそうだとして、この村に何か問題はあるんですか?」
僕が聞くと、
「あるともさ。現におぬしは今既に大問題に抱かれとるではないか。村の皆誰もが一番の問題はミミリだと言うじゃろうよ」
バムじいは大きな笑い声を上げた。想像以上にミミリは村の皆に心配されているようだ。バムじいの言葉に狼狽えたのか、ミミリの腕にさらに力が入った。
「問題なのは疑いようもないけれど」
僕はそのまま抱かれているとミミリのためにならない気がしてきたので、いい加減ミミリの腕の中から降りることにした。ミミリは彼女が言うとおり非力だった。抜け出すのは難しくなかった。
「ミミリの事情が分からない限り、僕にもどうにもならないですよ。そんなすごい期待をされても、僕は蜥蜴にすぎません。彼女を抱き返すことも、頭を撫でて慰めてあげることもできない蜥蜴です」
「そうじゃなあ。おぬしはおそらく外ではひとかどの人物だとは思うのじゃが、ルナの村では蜥蜴にすぎん。期待されすぎても迷惑じゃろうて。しかし話せば話すほど、本当に分からんのう。何故おぬしは蜥蜴なんぞに」
バムじいはしきりに首をひねった。それは僕に聞かれても困る。むしろ僕が聞きたいくらいだ。
「どちらにせよ、僕は人間でも妖精でもない。僕にできることは、一緒にいて話を聞いてあげるくらいだと思う」
僕はミミリを見上げて言った。彼女は僕が腕の中から逃げ出したことが、相当ショックだったのか目を見開いて放心していた。
「ミミリはここまで自虐的になる理由があるはずだ。失敗するのは自分が駄目だからだと考えるようになったきっかけが何かあったはずだと思う」
臆病というには、ミミリの怖がり様は度を越している。自然にこうなったと考えるには違和感があった。生まれつきそういう気質があったとしても、これは日常生活にも支障が出かねない状態だ。
「何かそういうきっかけになりそうなことに、心当たりはありませんか?」
「そうじゃのう……ないことはないが、ミミリ本人が話してよいと言うのでなければ、他人がほいほい話して良いことではないから、本人からできれば聞いてくれるかの」
バムじいの言い淀み方に、僕は何となく察した。これは相当深刻な話に違いない。とすれば無理に聞き出すのは危険かもしれない。僕は、今はその話を穿り返すべきでないと思った。
「まずはそれを話してもらえるようにするところからだな。それはそうと」
確認しなければいけないこともある。ミミリからルナの村のことを詳しく聞くことは望めない気がするし、ちょうどいい機会なので僕はバムじいに村のことをいろいろ聞いてみることにした。
「すこし村のことを聞いてもいいですか?」
「もちろんじゃとも。なんでも聞いてくれ」
バムじいさんが頷く。
僕は何から聞こうかを頭の中で整理してから、口を開いた。
「ミミリは自分のことをムーンシャードのミミリと名乗りました。ムーンシャードというのは、種族名ですか?」
「うむ。ワシらは月の光から生まれたムーンシャードという妖精種族じゃ。ワシらは月の光の魔力がなければ体を保てんのじゃ。だから、ワシらはこのムーンディープにしかおらん。外の者にはワシらの存在は知られておらんじゃろう」
バムじいさんの言葉に僕は考え込んだ。ムーンディープ。どこかで聞いたことがある気がする。どこだったか思い出せないけれど、僕がムーンディープという言葉を知っているのは間違いないように思えた。
「ムーンディープ……聞き覚えがある気がします」
僕は頼りない感覚にすぎないそれを、確信のように信じた。
「ムーンディープは古きフェイと古きデモンがまだ同一の存在であったころの故郷じゃ。ワシら、月の精ムーンシャードや、闇の精スプライトといった種族が今なお住まう夜の国じゃ。ここには昼もなければ陽光が差すこともない。あるのは夜の闇と月の満ち欠けだけじゃ」
バムじいが、僕の記憶を呼び起こす助けになるかもしれないのなら、と詳しく教えてくれた。
「スプライトの種族名には馴染みがある気がします。けれど、駄目だ、何故なのかは思い出せない。思い出せないものは、仕方ないか。……闇の獣とは何なのですか? 昔からあのような存在が襲ってきていたのですか?」
「見たのかね?」
バムじいに聞かれたので、
「見たというより、戦いました。撃退はできましたけれど、月の光が弱い日に繰り返し襲ってくるようだと、あまりに危険だなと感じました」
僕は正直に答えた。
バムじいは一瞬驚いたような顔をして、それから僕をまじまじと見た。
「光か。そうか。おぬしは光か。しかし闇でもある。なるほど、それでルナの村が呼び寄せた訳じゃな」
「どういうことですか?」
僕にはどういうことなのかまるで分らない。説明してくれるものかと期待したけれど、バムじいは、
「今はまだ早いかもしれん。もう少し村の生活に慣れたらまた来なされ。村の者とまずは親交を深めるとよいじゃろう」
そう告げただけだった。それから、バムじいに、今日は疲れたと言われて。
僕とミミリは家から追い出されてしまった。