第十三章 蜥蜴の夢(4)
「何か来る」
僕は文句を言う代わりに告げて、ミミリに、
「ベッドの上へ。できるだけ壁を背にして」
声を掛けた。ミミリは青ざめた顔で頷いて、ベッドの上にすぐに避難した。僕はベッドの前に四肢をいっぱいに踏ん張って立った。
黒い塊が床から盛り上がるように這い上がる。僕の倍くらいある、真っ黒な狼のようなもの。真っ赤な目が僕たちを睨んだ。
「これが」
僕はそれが現れるなり、走り込んで飛び掛かった。身が軽い。自分でもびっくりするほど跳んだ。少し跳びすぎて相手を飛び越しそうになり、僕は慌てて闇の獣の尾に食らいつき、反動で闇の獣の背に向かって逆戻りした。
闇の獣が動き出す。ミミリを狙っている。
僕は闇の獣の背を走り、闇の獣の頭の上で宙がえりをする。そして、自分の尻尾を闇の獣の頭に叩きつけた。
ぐらりと揺れ、闇の獣が倒れる。
床に飛び降りて、僕が倒れた獣の横っ面をもう一度尻尾で打つと、闇の獣は煙の塊になって消え去った。
着地。まだ次が来そうだ。僕は身構える。
自分の身体能力の程度は把握した。今度はさっきのような失敗は避けられるだろう。
闇の獣が二体。大きさは僕と同じくらい。ネズミのような姿をしている。
僕は、それが出現する一瞬前に、気配を掴んでいた。僕にはそういうことができるようだった。二体の闇が真っ赤な目を輝かせた瞬間に、僕の尾は二体の獣を消え去らせていた。
まだ来る。
次は。
ベッドの上だ。
「怖いかもしれないけどごめん」
僕はミミリの肩に飛びついて、そこからベッドの上に現れた影に向かってダイブした。
「ひっ」
短くミミリが悲鳴を上げる。
現れたのは猫のような獣だ。僕はその頭に嚙みついて、体を一杯に使って壁に放り投げた。闇の獣からはほとんど重さは感じられなかった。
ミミリはベッドの上で震えている。泣きそうな顔で震えている。
「火、火を、火、つ、つけなきゃ」
指の上に火を出そうとしているけれどうまくいかないようだ。歯がガチガチ鳴っている。恐怖で魔法に集中できないのだ。
「落ち着いて」
僕は走りながら言った。
「僕が君を守る。闇の獣は」
また現れる。テーブルの上。鳥の形を作ろうとしている。飛ばれると厄介だ。けれどそこに何かが現れることは分かっていた。僕はテーブルの足をすでによじ登り切っていた。
勢いのまま跳び上がり、闇の鳥の頭の上から尻尾を叩きつけて消し飛ばす。
「僕が全部倒すから、心配しないで。化け物は、僕に任せて」
「う、うん。うん」
ミミリが頷く。
彼女が落ち着くまでまだ時間はかかるかもしれない。僕は長期戦を覚悟した。
次。
壁の中からぬるりと黒い影が出てくる。僕はまた尻尾を振りかぶって横薙ぎに打ち付けた。
けれど、
受け止まられた。腕?
「味方だ」
と一言だけ言って、現れたものは僕の尻尾を離した。妖精だった。
銀色の髪。銀色の目。翼は夜空の色で、星のような点がまだらにいくつもあった。ミミリより少しだけ年上に見える。男のひとだった。
「ロンザス」
名乗って。テーブルの上の聖蝋花の蜜にミミリの代わりに火をつけてくれた。
「これで獣が出現することはない。安心してくれ」
ロンザスと名乗った男のひとに言われて、僕は警戒を解いた。
ベッドの上のミミリを見る。可哀想にまだ震えている。固く目を閉じてガタガタ震えている。僕はテーブルを這い降りて床の上を走った。ベッドの脇から彼女を見上げて、告げた。
「大丈夫、もう大丈夫だよ。他のひとが来てくれて、火をつけてくれたよ。もう怖いものはこないよ」
「ほんとう?」
恐る恐る目を開けて、部屋が明るいことに気づくと、ミミリはやっと安心したように脱力した。そして、あまりに怖かったのだろう、安堵のあまり泣き出してしまった。
「怖かったよね。大丈夫、僕もいるし、ロンザスさんって人が来てくれたからもう大丈夫。怖かった分、うんとお泣き。泣いて怖い思いを流してしまって。もう大丈夫だから」
僕はミミリに言って、ベッドの上に這い上がった。ミミリの隣で顔を見上げて、僕はしばらく彼女に寄り添っていようと思った。
ロンザスが僕たちのそばまで飛んできた。
「それで、君はどこの誰なんだ?」
彼が僕を見下ろしている。腕を組んで、こんな蜥蜴は村にいないはずだと訝しむように。
「今日草原でミミリに会ったばかりなんだ。名前は思い出せない。どこから来たのかも」
ロンザスの警戒するような物言いに、若干僕は剣呑な空気を感じて身構えた。いきなり襲ってくるということはないだろうけれど、歓迎されないようなら身を守らなければいけない。
「迷い人か。なるほど、理解した。ミミリを守ってくれてありがとう。……五体か。異変を感じて俺が来るまでの短時間に。ミミリにも全く怪我がない。君はすごいな」
「倒した数が分かるのも十分すごいと思う」
ロンザスは僕の答えを聞くと、そう言って警戒を解いた。僕もほっとしながら全身の緊張を解いた。
「僕はこの辺りのことを何も分からない。覚えていないのか、知らないのかは分からないけれど、どちらでもあまり変わりはないと思っている。ミミリはそんな僕に一緒に暮らそうと言ってくれたんだ。だから、彼女が危ない時には僕はいくらでも助けるよ」
「そうか。自分のことも分からないで不安だろうに、そこまで言い切れるとはますますたいしたものだ。俺が倒した数が分かったのは、わずかに闇の残滓がまだ残っているのが俺達には見えるからだ。種族的なことで、特にすごいことじゃない」
ロンザスはそう言って。
「なんにせよ、ミミリが無事でよかった」
と、ミミリを見た。同時に僕も。ミミリはまだ泣いていて、僕たちの会話は全く耳に入っていない様子だった。
「ミミリを慰めてあげたいけれど、僕には腕がない。ロンザスさん、と言ったかな。彼女に胸を貸してあげてもらってもいいかな」
僕がミミリを見上げながら言うと。
「いや、ミミリは俺達村の者にはそこまで心を開いてはくれない。俺にはその役目はできない」
ロンザスは困ったように首を振った。彼が言うにはこういうことのようだった。
「彼女は村の皆と分かち合えるものがないと思い込んでいる。村の皆をなかなか頼ってくれないのだ。その結果がこの暮らしだ。俺達は彼女に頼まれればいくらでも手を貸すのに、返せるものが何もないからと言って拒んでいるのは、ミミリ自身なのだ」
なるほど。要するにミミリが真面目すぎるのか、気にしすぎるのか、自分自身で救いの手を拒んでしまう、自分を過小評価しがちな子というわけか。
「僕にできることはこの村にあるかな」
ロンザスに聞いてみた。何かあるのではないかと思う。
「あるとも。君ほど手早く闇の獣を撃退できる者はこの村にはいない。君の身のこなしを超えるものはこの村にはいないだろう。それだけの身体能力があれば引く手数多だろう」
ロンザスは僕が考えていることが分かっているように頷いた。僕もそれを聞いて安心した。
「居候だからね。その分頑張ってミミリにお返しをするよ。とにかく、壁の穴と家の煤払い分は働かないとな。こんな環境じゃ、いずれ病気になってしまうよ」
「俺もそう思う。ミミリのこと、よろしく頼むよ。ミミリが拾ってきたのが、君のような性根の者で良かった」
はじめてロンザスが笑顔を見せた。はじめてしっかり見た顔は、表情は豊かでないけれど、冷静さの中に深い思いやりを感じさせる目元が印象的な、きれいな顔をした男性だった。
「僕も君に話を聞けて良かった。彼女はなかなか自分の抱えている問題を僕に話してくれないものだから、よけい心配になるんだ。できる限り、僕がミミリを助けるよ。任された」
僕はミミリにぴったりと寄り添って、彼女の顔を見上げた。
「大丈夫? まだ落ち着かないようだったら、僕に縋りついてくれても大丈夫。しっかり全部吐き出したほうがいいよ。怖い思いを、抱えたままにしてはだめだ」
そう声を掛けて。それからもう一度ロンザスを見た。そして、心に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「この子は救われなきゃいけない」
「そうだな」
ロンザスも、頷いた。
「明日また様子を見に来よう。もしミミリが無理なようだったら、俺が村の案内しよう。君に適しているだろう問題事がある場所も紹介しよう」
そう言って、ロンザスは帰って行った。
ミミリも彼が帰っていくのを見ていた。そして、ロンザスが出て行くと、彼が帰るのを、まるで待っていたかのように、ミミリは僕に縋りついて大声を上げて泣き始めた。
そのあと、ミミリは僕に抱き着いて眠った。僕は彼女が安心できるように、ずっと彼女の隣についていた。