第十三章 蜥蜴の夢(2)
僕は、誰だろう。
どこから来たのだろう。
全てが分からなかった。
気が付くと僕は岩の上にへばりついた蜥蜴だった。頭の上には大きな月が輝いていて、遠く虫の声が聞こえていた。
羽虫が一匹飛んできて、僕は特にお腹がすいていた訳ではないけれど、目の前を横切ったそれに飛び掛かって食べた。
草の影に隠れながら、僕は這って進んだ。四つ足はしっかりと地面を掴んで、足場が多少良くなくても困ることはなかった。
とにかく身を隠せる安全な場所を探そう。鳥や獣に見つかると食べられてしまうかもしれない。
でもどこへ行けばいいのだろう。
どっちに行ったら何があるのかも分からないし、僕がどこへ行こうとしていたのも分からない。ただ少しでも安全なところを探して、僕は草の間を縫って進んだ。
安全な場所、と一言で言っても、身を隠せそうな隙間がある大きな岩なんかなかなかなくて、たまに見つけても、ダンゴ虫とか、そういった先客がいて、
「ここは満員だよ」
と追い返された。満員じゃ仕方がない。ダンゴ虫は固くて美味しくなかった。一度口に入れてから呑み込みにくいので吐き出した。
「吐き出すなんて失礼な奴だ」
ダンゴ虫はぶりぶり怒って岩の下の方に隠れてしまった。
僕はまた歩き出した。草の間をさまよっていると、ふわっと夜風が僕の後ろから吹き抜けていった。
「あら」
頭上から声がした。頭上から聞こえる声はたいてい危険なものだ。僕は走って逃げた。けれど空を飛ぶ相手から逃げるのは容易でなくて、頭上の誰かは笑いながら僕の上を飛び越えて、僕の前に降りてきた。
僕の全身の倍くらいもある生き物が、僕を見下ろした。秋晴れの空の色をした目がきれいだった。
「怖がらないで。あなたはどなた? どこから来たの?」
紅葉した葉の色の蝶の羽。足は二本で、前肢の代わりに、腕という、ものを持つことができるものを持っている不思議な姿の生き物。
この姿は知っている。妖精だ。
この辺りには沢山いる。僕たちを食べないし、優しいひとたちだ。僕は怖い鳥や獣でなかったことに安心した。
僕たちみたいな鱗はなくて、獣や鳥のような体毛はなくて、頭部のあたりにだけ茶色っぽい毛が生えている。月の光みたいに輝いて見えた。闇夜の色の毛に包まれているけれど、彼女には体毛はなくて、着脱可能な、布と呼ばれる草糸でできたものを体に付けているとかのはずだ。胸部に授乳のための膨らみがある。多分女の子だ。うろ覚えだけど確かそれで妖精の雌雄は見分けられるはずだ。
「頭の上から声を掛けないで。鳥か何かに食べられてしまうのかと思ったよ」
僕は少女に文句を言った。僕は虫を捕まえて食べ、鳥や獣は僕を捕まえて食べる。だから僕は、地面は怖くないけれど、頭上が怖いのだ。
「あら。わたしたちは蜥蜴を取って食べたりしないわ。たまに上から乗ったら潰れるのかなって思うことはあるけど」
くすくす笑う女の子の言葉に、僕は身震いした。
「潰すのもやめてほしいな」
僕は周囲を窺って、ほかに怖い生き物がいないかを見回した。舌を出して匂いを確かめてみる。怖いものの匂いはしなかった。
「僕、こんなところにいたら鳥とか獣とか蛇とかに食べられてしまうかもしれないんだ。もう行かなければ」
「どこへ行くの? 一緒にお散歩してもいいかしら?」
妖精の女の子が尋ねてくる。
僕は答えに困った。すこし悩んでから、僕は正直に答えた。
「目的地はないんだ。僕は自分がだれで、何でここにいるのかも分からない。今は身を隠せそうな場所を探しているんだ」
「まあ」
妖精の女の子は驚いた声を上げた。前肢を口のあたりに持っていって。それにしても腕という前肢はとてもよく動くのだなと感心した。あんなに回して取れたりしないのだろうか。
「すこしあなたのお顔見せてもらってもいいかしら? すこしだけでいいわ」
「うん」
僕は答えた。
妖精には不思議な力がある。きっと僕の身の上を見てくれるのだ。やっぱり妖精は優しい。
僕を見つめる妖精の女の子の目が真剣で、僕はなるべく動かないようにじっとしていた。しばらく僕を見ていた彼女が、
「なにこれ、すごい。あなたのこと、わたしじゃ全然見えない。でもあなた困ってるのよね。私と一緒に来て。安全なところに案内してあげる。あなたをこのままにしておいちゃいけない気がするの。それだけ分かったわ」
そう言って手を伸ばしてきた。
「運んであげる。私が運んでいる間は、怖いものに襲われないから、大丈夫よ」
「ありがとう」
何故だか、僕も彼女に任せた方がいいような気がしたから、お願いした。
「わたしはミミリ。ムーンシャードのミミリ。よろしくね、蜥蜴さん」
両手で僕を包み込むように抱きかかえて、女の子は飛び始めた。運んでもらって飛んだ草の上はとても広くて、やっぱり月が大きく輝いていた。僕の頭の下で、さっきまで見上げていた草がたくさん並んで風に揺れていた。
「安全な場所ってどういう場所?」
僕がミミリの顔を見上げて聞くと、彼女は笑って教えてくれた。月の光に照らされて、首に下げたネックレスが輝いていた。
「ルナの村っていうの。わたしたちの村よ。わたしじゃあなたのことが見えなかったけれど、村で一番の長生きのおじいさんならきっと大丈夫」
それから、彼女は大事なことだからよく覚えておいてほしいことがある、と僕には少し難しい話をした。
「あなたはきっと外から来たひとだと思うの。ここは外とは違う、夜と影だけの世界だから、外から迷い込んだひとが自分の記憶と姿を忘れてしまうって、よくあることなの。そういうひとはたいてい虫とか、カエルとか、鳥とか、そういう小さな生き物の姿をしてるわ。そのまま元の記憶と姿を思い出せないひともいて、そういうひとは、ここでずっとその姿で過ごすことになるって言われてるの。だからあなたは、あなたの記憶と姿を思い出すまで、わたしたちと一緒に暮らしましょう。中にはそのまま思い出さない選択をするひともいるけど、一人で彷徨ってるよりは、思い出せないってことはすくないはずだから。だからわたしたちと一緒にいましょう?」
その話は蜥蜴のちっぽけな頭で理解するには難しくて。僕には半分もどういうことか理解できなかった。僕は蜥蜴で、ミミリよりもずっと小さくて、僕の足では、見渡す限りの草原の、果てまで歩くのも無理だろうという気がした。その外なんて想像もつかなかった。
ミミリの話は理解できなかったけれど、そんな僕にも、たったひとつだけ理解できたことがあった。
「何か心配事があるの?」
ルナの村に誘ってくれるミミリの目が、ほんの少し迷ったように揺れていて、僕はそう感じた。
「え?」
ミミリは驚きの声を上げて、ちょっとためらった様子を見せた後、頷いた。
「うん、ちょっと。でもあなたは気にしないで大丈夫よ。わたしたちの悩み事で、あなたに迷惑をかけたりしないから……たぶん」
「よかったら教えてほしい。僕はちっぽけな蜥蜴だけど、僕にもできることがあるかもしれない」
僕は真剣だった。ただの蜥蜴にだってできることはある。根拠はなかったけれどそんな感覚があった。
「もし君が望むなら、僕も助けてあげたい」
「……あ」
ミミリが少し口元をゆがませた。泣きそうな顔というのは、こういう顔を言うのだろう。
「ううん、いいの。蜥蜴さん、ありがとう。言葉だけでもうれしい。でも大丈夫、蜥蜴さんには迷惑はかけないわ」
「迷惑じゃない。僕が助けたいんだ。僕は君たちから見たら踏めば死んでしまう蜥蜴だろうけれど、僕だって何もできないわけじゃないよ」
僕は本気でそう思った。できることは必ず何かあるはずだ。
「でもあなたは蜥蜴よ。ひょっとしたら外ではすごいひとだったのかもしれないけど。わたしもちょっとそんな気がしちゃって、相談したい気持ちになりかけたのもそうだけど。でもあなたは蜥蜴なの、蜥蜴さん。だから大丈夫。あなたは、わたしたちの大事なお客さんなんだから」
ミミリは僕に心配させまいとする顔で笑った。彼女から見た僕は頼りない蜥蜴に過ぎないのだ。
今は話してもらえないのなら。僕は彼女に頼ってもらえるように信頼を得よう。僕はそう決めた。