第十三章 蜥蜴の夢(1)
何があったのだろう。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
僕は気が付くと剣を手に立っていた。
そこは銀色に輝く草木が揺れる草原で、宝石の花が咲いていた。ここがムーンディープだということは覚えている。レインカースからゲートを潜ってやって来たのも覚えている。それからの記憶が深い霧の中で、全く思い出せなかった。
周囲にはデブリスたちが取り囲んでいる。数は半獣半人が一体。結晶の獣が五体。初めて見る、結晶でできた蛇のような異形が二体。周りには仲間は誰もいない。仲間? 仲間とは誰だったろうか。
蛇のようなデブリスは砕けたように壊れていて動かない。どうやら僕が斬ったらしいことは何となく覚えていた。
僕は半歩前に出て、剣を振り抜きながら、さらに半歩踏み込んだ。振り抜いた剣が、跳び込んできた半獣半人を真一文字に斬り裂く。まるであの時の彼のようにたやすく半獣半人を下すと、残った獣が飛ばした結晶を剣で跳ね返し、さらにもう一度、剣を僕は振り抜いた。結晶を避けて消えた獣のうち二体が、その軌道上に吸い込まれるように現れて砕け散った。
僕は残り三体を手早く片付け、剣を鞘に戻した。見覚えのない花畑だ。もっとも、ムーンディープに来たのは初めてだし、当然だ。
そう言えば、ムーンディープに来る前に、彼女に一年間は慣らさなければムーンディープでは満足に動けないと聞いたのではなかったか。
彼女? 彼女とは誰だったろう。
僕は判然としない記憶の中から、ムーンディープに来るまでのことを思い出そうとした。
レインカースで戦い、勝利し、そうだ、彼女の不調の原因を取り除くために。僕の仲間に不調を訴えていた子がいたのだ。
名前は……名前は。
彼女の種族は……スプライトだ。思考が混乱している。まとまらない。まず自分のことを確認しよう。
僕は、コボルドだ。それは大丈夫だ。
そして、僕は聖騎士だ。それも思い出せる。
僕の名前は……名前は。
「蜥蜴さん」
そう呼ばれて振り返る。
体調三〇センチくらいの、紅葉した樹木のような色の蝶の翅をもった、秋色の髪の女の子がいた。肌は月の光のように白く、瞳は秋晴れの空の色をしていた。月の色のペンダントを首に下げていて、夜の空の色の可愛らしいワンピースの衣装を着ていた。
「あなたは、どっち?」
もう一度少女が聞いた。どこかで見覚えがある気がする。そうだ、この妖精の少女には見覚えがある。確かに見た覚えがある。でもどこで? それに、どっち、というのは?
そうだ。僕はフェリアの体調を戻すため、そして、次元華を探すため、ムーンディープに来たのだった。フェリアと、シエルと、ボガア・ナガア、そして、アルフレッドと一緒に。ムイムは後から追いついてくるはずだ。彼等はどこだろう。近くにはいないようだ。
「ええと、君は」
我に返り、少女を見た。僕の仲間にはいなかったはずだ。
けれどなぜか知っている気がする。そもそも僕は、ゲートを潜ってから、今までどうしていたのか、全く覚えていない気がする。ゲートを潜ってから、どのくらい時間が過ぎたのだろう。
「もうあなたは蜥蜴さんじゃないのね?」
少女は悲しそうに首を傾げた。確かに僕はコボルドで、蜥蜴型のモンスターだけれど、自分が名前を教えずに蜥蜴と名乗るとは思えなかった。
「確かに僕の種族は蜥蜴と言えば蜥蜴だけど」
僕の名前。思い出した。
「僕はラルフ・P・H・レイダーク。コボルドという生き物だ」
僕がそう答えると、女の子はぱっと笑顔になった。その笑顔にはやはり見覚えがある。
気のせいではないはずだ。
「そう、それがあなたなのね」
「ええと」
思い出せない。なんて言ったら悲しむだろうか。何故か胸が締め付けられるように痛む。この子の泣き顔は見たくない、何故か以前にそう感じる。何故だろう。けれど思い出せなかった。
「僕は仲間を探しているんだ。黒い鳥の羽をしたスプライトの子と、彼女と同じくらいの大きさの人形みたいな子、それから、ひょっとすると、黒い靄みたいな人型もいるかもしれない。あとは僕と同じ種族のひとと、人間のひと。誰か見かけたりはしていないかな?」
「え……? わたしのこと、分からないの? わたしよ?」
彼女は僕を知っているようだ。やはり気のせいではない。僕は彼女を知っているはずだ。ムーンディープに来てから、僕は何をしていた? そうだ、ブロッサムドロップ窟を探さなければ。ムーンメイズの森の奥。行かなくては。
僕は頭を振って歩きだした。何故か行くべき方向は分かる。
「確か、西だったな」
僕はそうつぶやいて歩いた。西に何があるのかは思い出せない。そもそも、こんな情報をどこで覚えたのだろう。
「待ってよ!」
女の子が叫んで追いかけてきた。
「ちゃんと答えてよ!」
「……」
僕は足を止めた。ずきりと胸が痛む。
このまま行ってはいけない気がする。
やはり思い出さなくてはいけない。こんなに声を掛けてくれる子を、このまま放置して行ってはいけない。
「覚えていないんだ。ムーンディープに来たことまでは覚えている。けれど、そのあとは、気が付いたらここに立っていたんだ」
たとえ悲しませるとしても。嘘をつくよりずっといい。僕は彼女に正直に話した。
「まあ。それならそうと早く言ってよ」
妖精の女の子は腰に手を当てて怒った表情をした。
「ムーンディープに迷い込んで、元の姿と記憶を取り戻した時に、今までのことを代わりに忘れちゃうなんて、ここじゃ良くあることなんだから」
「そうなんだ。僕は君を知っている気はするんだ。だから名前をもう一度教えてもらえれば思い出せるかもしれない。教えてもらっていいかな?」
僕は申し訳ない気持ちになりながら、彼女の名前を聞いてみた。女の子は僕の前まで来ると。
「わたしはミミリ。あなたとは、一年間も一緒に暮らしたのよ」
少し翳りのある笑顔でそう教えてくれた。
それを聞いて、僕は何かを思い出しかける。覚えがある。そうだ、ルナの村だ。思い出してきた。
「ああ、そうだ」
僕は頷いた。
「僕は君に拾われたんだ。君に助けてもらって、それで一緒に住んでいたんだ。思い出してきたよ。そうだ。思い出せてきたよ、ミミリ。ルナの村だ。そうだ。記憶もなくて、名前も分からなくて、行き場もなかった僕を、受け入れてくれた村だ。うん、それで僕は彼等のためにここまで来たんだ。思い出してきたよ、ミミリ」
「完全に忘れたわけじゃなくてよかったわ」
ミミリは笑った。いつものように。僕はそれを見て切なくなった。
「でも、僕は行かなければならない。でも、ああ、そうだ。僕は君に見つかってはいけなかったんだった」
全部思い出した。
ムーンディープに着いてから、これまでのこと。ムーンディープの汚染を取り除くために、ここまで旅を続けてきたこと。そして、僕はミミリを連れては来なかったこと。彼女にそのまま見つからないようにしたかったこと。
「どうして?」
ミミリが、理由が分かっているように、怒った顔で、けれど、寂しそうに言う。その理由も、僕は思い出した。
「だって、君が、ムーンメイズの森の入口を、一族の秘術を使ってすぐに開くというから。僕はそんなことをしてほしくなかったんだ。だって」
僕は思い出した。僕はそれをミミリにさせたくなかったのだ。
「そんなことをしたら、君は月の光に溶けてしまう。君が言ったんじゃないか」
「でもだからって」
ミミリは言った。それも分かっていた。それが、僕たちが旅をしてきた目的だったから。
「聖地の汚染をあと二年も野放しにしたらみんな死んじゃうじゃないの」
そう。そうなのだ。
だから、僕はほかの方法を探したかった。
全てを思い出した。だから、ムーンディープに着いてから何があったのかを、順番に綴っておこうと思う。