第十二章 失意の勝利(1)
僕は抱えた獣に剣を突き立ててとどめを刺した。僕を振りほどこうとした獣はバラバラに砕け、僕とシーヌは起き上がって周囲を見回した。
真っ黒な空に赤い染みのような靄が広がっている。地面は赤茶けていて、まるで不毛の大地を具現化したようだった。どこまでもまっ平らな地面が続いていて、暗く澱んだ空気はうすら寒かった。
「ここはどこだ?」
周囲を見渡す。レインカースでないことだけは確かだ。今のところ結晶の獣の姿は見えないけれど、神出鬼没な敵に、油断はできない。
「シーヌ、突き飛ばしたりしてごめん。大丈夫だった?」
シーヌを振り返ると、
「私は平気。でも、あなたの方が」
サリアがくれた鎧の横腹がぱっくりと割れ、血が出ている。僕は癒しの光を当て、傷を治療した。驚いたことに、鎧も一緒に直った。
「手ひどくやられたな。攻撃の出どころが気配で読めないというのは厄介だ」
けれど、とも思う。
「あの程度の敵にサリアが負けるとは思えない。あれ以上に手ごわい相手がいると見たほうがいいな」
僕は困り果てた。このまま立っていても仕方がないけれど、この場所には文字通り何もない。やみくもに歩いて良いものか決めあぐねた。これならば敵襲でもあったほうがまだましかもしれない。
「シーヌが武装を終えていたのが不幸中の幸いかな。戦えそう?」
「正直、自信ない。私の武器はグレイブだから、出たり消えたりする敵を的確に狙うのは難しいかも」
シーヌは首を振った。確かにそうかもしれない。グレイブは一撃当たれば大きいけれど、無用な攻撃は死角を増やす。
「なるべく身の安全を優先してくれ。敵を倒すのは僕がやる」
僕はサリアから学び取った霊的波長の感知を試してみた。波長はあって、一方から流れてきていることが分かった。どうもそちらに誰かがいる気がする。僕はシーヌを連れてそちらに向かって歩き出した。
しばらくは何も起こらなかった。敵襲もなく、誰かの姿も見えてこない。視界は暗く、尋常な闇でないことはすぐに気が付いた。
暗闇を見通せる僕の目でも、視界がひどく狭い。普通の闇ではありえないことだった。これは視界が暗いのではなく、視界が黒いのだ。
「気配はある。確実に近づいているはずだ」
心配をさせないように、僕はシーヌに声を掛けながら進んだ。シーヌは僕の左を歩いている。彼女は一歩下がってついて来ようとしたけれど、突然死角から現れる可能性がある敵のことを考えると、僕から直接見えない位置は危険だ。
「いる」
僕は足を止めた。前方の黒い空気の中に、誰かがいる。こちらに向かって歩いてきているようだった。
「やあ、難儀しているようだね」
歩いてきたのは、コボルドだった。さして警戒もしていないように歩いてきた彼は、僕たちの姿を見て足を止めた。僕より少しだけ背が高くて、虹色の光を放つ、銀に似た材質の鎧を着て、同じ材質だろう凧盾を持っていた。盾にはちらちらと祈りを捧げる女性を象った飾りが見えた。鎧と同じ材質の兜も着けているせいで顔はよく見えなかった。
「君たちが来ることは分かっていた」
彼が、僕を見て、それから、シーヌを見る。彼はなぜか口元に優しい笑みを浮かべていた。
「この場所は君たちにはまだ少々危険だ。ついてくるといい。君たちが行くべき場所に案内してあげよう」
彼は、そう言うと踵を返して歩き出した。
「こっちだ。あまり離れるとはぐれるから気を付けてくれ」
僕とシーヌは顔を見合わせ、彼に続いた。理由は分からないけれど、彼は信用できると思った。彼は無警戒に僕たちの前を歩いた。
しばらく歩いた時、突然僕たちの後ろから結晶の獣が襲ってきた。出現と同時に複数の結晶が飛んで来る。
けれど、それは僕たちに当たることはなかった。いつの間にか、前を歩いていたはずの彼が僕たちの後ろにいて、すべての結晶を斬り裂き、そのまま獣を斬り捨てていた。獣は五体もいたというのに、消える間もなくすべて彼に切り伏せられた。
彼の動きは全く見えなくて、逆に彼にはすべてが見えているように迷いがなかった。立て続けにさらに獣が五体出現する。けれど、彼にはそれがすべて分かっていることのように、出現と同時に獣をまとめて斬り捨てた。しばらく獣の出現は続いたけれど、それが止むまで彼は止まることがなく、また、獣を、一体も逃がすことはなかった。
戦闘が終わると、彼は剣を仕舞った。剣の鎧や盾と同じ色をしていて、柄には竜を象ったレリーフがついていた。
「大丈夫かな? 怪我はないと思うのだが」
確信しているように、まるで知っているように、彼は言った。
「はい、すごい腕前だ」
僕自身もたいがいコボルド離れしてきている自覚はあるけれど、彼はそれ以上だ。もはや規格外と言っていい。僕が感嘆の声を上げると、彼はすこしだけ笑った。
「何、君にもやろうと思えばできる。コボルドにだって、やってやれないことはないさ。そうだろう?」
僕のような言い回し。けれど彼の言葉はずっと落ち着いていて。けれど何故だろう。名前を聞くのがはばかられた。意味もなく、僕の中で、何かが、名前は知りたくないという感覚が渦巻いていた。
「見えるかな?」
彼が前方を指さした。何か建物がある。どうやってこの何もない空間で建てたのかというほど大きな宮殿だった。いや、どこかで見たことがある。
「離宮」
僕の横で、シーヌがつぶやいた。
「そうだ、君が暮らしていた場所。君が囚われていた場所。君達にとっては過酷な場所になるかもしれない。それでも君達は進まなければいけない。私には私の使命があり、君達と一緒には行けない。君達は君達の力と運、信念をもって立ち向かわなければならない。君達がここから出るためには、どんなことがあっても、行くしかないんだ。そしてガーデンに帰還しなければならない。何としてでもだ。君達がぐずぐずしていれば、ガーデンに被害が出る。時間は待ってはくれない。さあ、急ぎたまえ」
彼はそう言うと、僕たちから離れて行った。僕はその背中に言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼は振り返らずに歩いていく。まるで彼には彼の責任があると言っているような背中に、僕は何故だか急に泣きたくなった。彼の背中はひどく寂しそうで、それでいて、大きな想いを背負っているようで。とても切なかった。
「行こう」
シーヌに告げる。シーヌは僕の呼びかけには答えず、去って行く彼の背中を見つめていた。
「待って」
シーヌが彼に声を掛けた。そして、彼女は彼に駆け寄っていった。
「顔を見せてくれませんか?」
「見ても面白いものではないよ。どうしてもと見せなければ君が満足しないということであれば致し方ないが、そのようなことで時間を浪費するのは感心しないな。君達が遅れれば遅れるほど、沢山のひとたちが死ぬのだと、私は言ったはずだが」
彼は足を止めた。シーヌを振り返りはしない。
「その沢山のひとたちは、たった一人の私を助けてはくれなかった。もしあなたが、私が思っている通りのひとならば、あなたはそれを知っているはず」
シーヌが食い下がると。
彼は大きなため息をついて兜を脱いだ。そして、僕たちを振り返った。
その顔は、僕よりずっと大人びた、けれど、僕だった。
「君には敵わないな、シーヌ。降参だ」
「やっぱり。私はどうしている? 一緒ではないのね」
「一緒ではないよ。君はここにいるだけだ」
そして、彼はシーヌのそばに寄り、彼女だけに何かを耳打ちした。シーヌの目が、丸くなり、彼女は訳が分からない、けれど、とてもびっくりしたような顔になった。彼はシーヌに頷くと、兜を被りなおして去って行った。
「行きましょう」
シーヌが複雑そうな顔で言った。
彼から何を聞いたのか、僕はひどく気になった。