第十一章 モンスター(8)
奥の部屋に入る。
ベッドのある部屋には誰もいなかった。
さらに奥に進む。厨房兼食堂だ。
シーヌはいた。食事をするときの、いつもの椅子に座っている。けれど彼女は僕が部屋に入ってもこちらを見なかった。ただ椅子に座って何かを口の中でつぶやいていた。
「シーヌ?」
声を掛ける。外傷はない。僕を見ることなく、シーヌは突然話し始めた。
「サリアが、いつもの訓練用の空間に逃がしてくれたの。サリアが、とてつもない危険が迫っているって言って。正体が分からない何かが迫っているって言って。自分だけ残って。必ず追い返すからって。命に代えても守るからって。サリア……サリア、死んだの? 怖くて確かめられなくて。サリアは?」
僕は彼女の問いに答えられなかった。サリアは確かに死んだ。けれど、それをシーヌにどう伝えたらいいのか分からなかった。でも伝えなければならない。いつまでもここにはいられないし、外へ出るにはサリアだった泥が溜まっているあの場所を通らなければいけないのだ。
ごまかすことはできない。
「サリアは、死んだよ」
震える声で、僕は伝えた。
サリアでも太刀打ちがきかなかった、サリアでも正体が分からなかった、そんな脅威がどこかに潜んでいる。何が起こっているのか、それだけでも知りたかった。それすら分からければ、サリアに安らかにと、言ってあげることもできない気がした。
《ラルフ、まだ時間はあるわ。でも、気を付けて、そこで起ころうとしている決戦は、私たちの次元宇宙の危機の前哨戦のようなものだから》
声が届いた。セラフィーナの声だ。
《サリアのことはごめんなさい。私たち間に合わなかった。ラルフさん、ごめんなさい》
続いてロッタの声。ドネが精霊の祈り子と呼んだ二人。
《あなたがこれから経験する戦いは、これから起こる次元宇宙の危機の予兆。これを乗り切れないようであれば、私たちの次元宇宙には未来はないわ。ラルフ、あなたが戦うの。あなたが戦えば、その足跡があなたと世界を助けてくれる》
《サリアさんのように消えてしまう命もあるし、ラルフさんが助けられないひともいるけど。でもラルフさんには歩いてほしいの》
「一つだけ教えてくれ。サリアを襲ったものは、君たちが精霊の祈り子として、立ち向かおうとしている次元宇宙の危機の一端の仕業なんだね?」
僕は二人に聞いた。それ以外は些細なことだ。サリアを無残に殺めたものを、僕は知らなくてはいけない。彼女の無念を忘れないために。
《そう。人類でもモンスターでもないもの》
《うん。精霊たちはデブリスって呼んでる》
二人の話は断片的で、けれど、どこか核心を感じるものだった。
《神出鬼没で恐ろしい異形とだけ聞いたわ》
《正体は知らないの。精霊はまだ早いって》
「そうか。ありがとう。気を付けるよ。話を聞く限り、気を付けようがない気もするけれど」
なんとなくサリアを殺めたものの手が借りは掴んだ。雲をつかむような話ではあるけれど、なぜサリアが襲われなければいけなかったのかは分からないけれど、報いはいずれ受けさせなければいけない。
「デブリスか。うん。覚えておこう。サリアを殺した何者かの名前だからね」
「それは、殺せるんですか? 攻撃したら傷つけられる敵ですか?」
シーヌにも二人の声が届いているらしい。シーヌが二人にそう問いかけた。
《殺すことは可能だと聞いているわ》
《デブリスを撃退したひとはいるって》
二人の答えが返ってくる。シーヌはそれを聞いて、椅子から立ち上がった。そして、言った。
「サリアは優しかった。サリアはずっと私を気遣ってくれた。私は何のお礼もできていなくて、でも、彼女はそんな私を最期まで守ってくれた。許さない。サリアを殺したデブリスを、私は許さない。ラルフ、私は、サリアの仇を討ちたい。手伝ってもらえる?」
「サリアの命を奪ったやつには、僕も報いを受けさせなければならないと思っている」
と、僕たちが頷きあった時だった。
《ラルフ》
セラフィーナでも、ロッタでもない声が響き渡った。
《ボクの声がもし聞こえたら、ボクのお願いを聞いてほしい》
それはサリアが残した言葉だった。僕とシーヌはそれを黙って聞いた。
《ボクの声が聞こえたら、君の弓を、僕の泥に浸してほしい。僕の泥が乾いてしまう前に。キミが弓を浸してくれたら、ボクは残ったボクのひとかけらを移せるから。危機が迫っている話を聞いておきながら、何もできずに、誰の力にもなれずに、何の助けにもなれずに、消えていくのはやっぱり悔しいよ。お願い、この声が聞こえたら、ボクの残ったひとかけら、どうかキミたちに残させて》
僕は急いで秘密基地に戻ると、腰の弓を外してサリアの泥に浸した。泥はまだ乾いていない。どうか間に合っていてほしいと祈るように、周りの泥も掬って掛けた。
弓がぐりゃりとひしゃげて泥に飲み込まれた。咀嚼音はしなかったけれど、確かに泥は僕の弓をのみこんでいった。そして僕の弓が見えなくなると、泥も一緒に虚空へ飲み込まれてなくなった。
そして泥が完全になくなると、今度は逆に虚空から、ゆっくりと、生えてくるように、弓が戻って来た。金色の見事な装飾が入った弓で、ベースの色は暗い焦げ茶色。弦は見事な透き通った白で、手に取ると驚くほどに軽かった。
弦を引いてみる。
手に取った軽さとは裏腹に、しっかりした手応えがあった。魔力の光は放っていなくても、はっきりと神聖な力が宿っていることがはっきり感じ取れた。手に持っていると、この弓の使い方は自然に頭に知識として流れ込んできた。
矢を番えずに、念じながら弦を引くと、魔法が装填される弓らしい。間違いなく国宝級クラスの弓だ。それでもサリアの命が失われてしまったのだと考えると、ほんのわずかなひとかけらだったのだろうと思えた。僕は弓を腰の後ろに吊るした。
「サリアも手伝ってくれる。必ずガリアスを止めよう」
シーヌに言うと、彼女も力強く頷いた。
シーヌが鎧を着こみ、グレイブを手にするのを、僕は眺めた、
サリアの死にシーヌが打ちひしがれてしまうことを僕は心配したけれど、シーヌはむしろその死に憤り、立ち向かう理由を得たようだった。
「行こう、シーヌ。レデウにガリアスが迫っている。行って僕たちも戦おう」
僕はシーヌに手を伸ばして。
シーヌが握り返そうとするのを待たずに、僕は慌てて彼女を突き飛ばした。ギリギリのタイミング。
僕とシーヌの間の空間を、結晶が貫く。
紫がかった結晶のような体の獣が、僕に飛び掛かってくる。大きさは僕より少し大きいくらい。僕は剣を抜き、その前肢を払って獣が進む軌道を変えた。その隙に盾も手にする。
「これがデブリスか」
《何故か分からない。出現を止められない》
セラフィーナから声が届く。理由はともかく、ここにこうして立っているのだから、泣きごとを言っても始まらない。
《まだ来る。どうなってるの? ラルフさん気を付けて》
ロッタの悲鳴のような声も届いてきた。相当イレギュラーの状況のようだ。
結晶の獣の両脇に、更に二体のデブリスが出現する。ぬるり、と虚空から湧き出してくる姿は、あまりに気味が悪かった。目もない。口もない。出来損ないの獣型の像のように、そいつらは立っていた。
「僕の後ろへ」
シーヌに声を掛けると、彼女は慌てて僕の影に隠れた。
結晶が背後から飛んで来る。虚空から突然出現するそれは予兆もなくて、予測もできない死角から突然襲ってきた。
体を捻って直撃は避けたけれど、床に血が舞った。背後に隠していてもこれではシーヌが危ない。僕は踏み込み、獣に斬りかかった。
三体の獣はぬるりと出現した時と同じように消え、僕の背後に現れた。
これではシーヌが狙われる。僕は夢中で体当たりを仕掛けた。また消えようとする獣の一体を掴み、僕は獣と一緒に転がった。手が離れて獣だけが消える。
僕は慌てて起き上がると、獣の気配を探した。僕の動きが獣よりも素早いと警戒したのか、秘密基地の入り口で、警戒したように立っている。
二体が消える。続いて残りの一体が。徹底的に奇襲に徹するつもりだ。僕はシーヌを庇うように立ちあがり、襲ってくる気配を待った。二体はなかなか現れない。僕はシーヌに壁を背にして立つように促し、そのすぐ前にへばりついて庇うように自分が立った。
来た。この状況ならコースは限られる。左右から襲ってきた二体を躱し、僕は二体を剣で打った。二体の体は粉々に砕けて飛び散った。
そして、頭の上から。
結晶が降ってくる。僕はそれを転がって躱し、続けて僕の脇に出現した獣本体を両手で受け止めた。もつれこんで壁に激突しそうになる僕を、慌てて駆け込んできたシーヌが受け止めてくれた。獣が僕の腕から逃れ、また消えようとする。僕はそれに飛びついた。シーヌも僕の腰に手を回して手伝ってくれる。
そして。
僕とシーヌは、獣と一緒に、全く未知の空間に引きずり込まれた。