第十一章 モンスター(6)
シーヌは僕と一緒に来ると告げたけれど、まだ元気に歩き回れるほどの気力があるようには見えなかった。僕たちはさらに一〇日をサリアの秘密基地で過ごした。早いもので、サリアの秘密基地で過ごし始めてからすでに五〇日以上が経過している。
ルーサの宣言通り、レデウにはルーサの信奉者たちが皆の会議の三日後に到着していたことも分かった。一方オールドガイアに向かったボガア・ナガアのほうは、
「すぐには無理だ」
という返事を持ち帰ったようだ。検討はしてみてくれるらしい。
僕とサリアは毎日のように、僕が体得した『勝たない流儀』の研鑽を行った。やはり先は長そうで、一朝一夕にはその真髄を覗くことはできそうになかった。サリアは日に日に理解を深めていて、最初はぎこちなかったものの、数日もするとお互いの攻め手はどちらも当たらなくなった。途中からは少し元気を取り戻してきたシーヌも加わった。最初はまったく理解できないでいた彼女も、偶然一度だけきれいに避けられたことで、どういうものなのかを掴み始めるようになった。少し理解を深めれば、彼女にもできるようになるだろう。
シーヌとの会話の時間も続いている。このところ、シーヌはサリアの目も見るようになってきた。サリアは無理にシーヌの心の傷には触れようとせず、ただ、可能な限りシーヌが不自由なく過ごせ、気が休まるような環境を提供することだけを続けてきていたように見えた。
僕はできるだけシーヌが話したいときに、彼女が話したい内容を聞いてあげることに気を付けていた。自分の話については、彼女が聞きたがった時だけ、僕がこれまでに辿って来た旅の話を聞かせた。
シーヌが最も興味を示したのは、僕がまだ聖騎士見習いとして大聖堂での訓練も始めていない頃、エルナス父さんの家で暮らしていた日々の話だった。
ただのコボルドのポグ・ホグが、聖騎士を目指すラルフになっていった頃の話。彼女は特に、その頃に僕の内面に起こった変化について、詳しく聞きたがった。
実のところ、それほど話すことはたくさんはなかったのだけれど、僕はシーヌにできるだけを話した。シーヌは僕の夢の話にとても関心を持った。
「実は私も不思議な夢を見たことがあるの」
シーヌはそう言って僕に彼女が見た夢の話を聞かせてくれた。
「私がまだ孤児で、エレサリア様に出会う前の話だけど。私は知らない花園にいる夢を見たの。そこにはたくさんの綺麗な花が揺れていて、私の夢ではおじいさんではなかったけれど、とてもきれいな女の人がそこにいた。種族はニューティアンでもヌークでもなかった。女の人の前で、何故だか知らないけれど、私は泣いていた。私は独りぼっちで世界に見放されたような気分でいっぱいだった。私はどういう訳だか煤と埃と何だか分からないゴミにまみれていて、自分がひどくみすぼらしかったのを覚えているよ。とにかく私は汚らしかった」
シーヌは思い出しながらのように、途中で言葉を切りながら、話してくれた。僕はそれを黙って聞いた。
「女の人が私に教えてくれた。世界は光だけではできていないと。世界には闇もあって、光の中に生まれながら闇に触れるひともたくさんいると。芽吹くことなく枯れてしまう草や、蕾が開くことなく枯れてしまう花もたくさんあるのだと。けれどそれは自分の不幸のせいではなくて、自分を憎むことだけはしなくていいのだと、女の人は言った。雨の降る庭には、私の人生にとって苦しいこと、つらいことがきっとたくさんあるけれど、そういったことすべてが、私が庭を出て歩き出す日に続いているのだと教えてくれた。私には難しかったけれど、女の人がこう言ったから、信じようと思った。大丈夫、きっとあなたの前にも必ず手を差し伸べてくれる人は現れると」
それは間違いない話ではないかと、僕は思う。シーヌが困っていれば手を差し伸べるひとはきっと少なくないだろう。けれど、シーヌがその手を信じて握り返せるのかは別の問題だ。シーヌが安心させてあげることができなければ、結局救われないことには変わりがないのだから。
「ずっと手を差し伸べてくれるひとというのは、エレサリア様のことだったのだろうと思って生きたけれど、エレサリア様は、弱り切った私の、助けを求める手に気づくには、多くの手を握りすぎていた。まさかそんな私に延ばされた手が、こんな小さくてかわいらしい蜥蜴の手だとは思わなかった」
シーヌはそして、申し訳なさそうな視線を、サリアに向けた。
「僕も自分よりも倍もある女の人を守ってあげたいと思う日が来るとは思っていなかったよ」
僕もシーヌに笑ってみせた。そもそもコボルドの身で、誰かを守り抜くような覚悟が今までの僕にあっただろうか。
「思えば今まで、僕は誰かを助けたいと告げる時も、非力な僕、という言葉が口癖になっていた気がする。それはもう卒業しよう。君に誓うよ、シーヌ。僕は非力でない僕になろう。君を救うために必要なことだから」
「ありがとう」
シーヌは頷いた。まだ表情には不安が残るけれど、僕が手を引いてあげれば、シーヌは歩けるだろう。僕と並んで歩くには、まだ時間が必要だけれど。
「でも、それはもうちょっと後かな。キミはまだもう一回ここを出て行かなきゃいけないところがあるよ」
と、サリアが口を挟んだ。泥の腕で、僕の装備一式を抱えている。僕はサリアから鎧を受け取って着こむと、剣を腰の横に、弓を腰の後ろに帯びると、背負い袋と盾を背負った。
「キミはボクと一緒に過ごしていたから、すこしは分かるようになっていると思うから大きなお世話かもしれないけれど、場所は都の神殿跡だ」
「分かった。ありがとう。そこまで正確な場所はまだ僕にはつかめないな」
僕がサリアから貰ったものは戦闘技術と鎧だけではなかった。自然と身についていたのは僕も気付いていた。ある程度漠然と、霊的波長を掴めるようになっている。
だから僕も、ここ数日になって分かるようになっていた。レダジオスグルムの影はまだレインカースから完全には取り除かれていない。レダジオスグルムの残滓のようなものが、都に残っているのが分かる。おそらくはそこに、レダジオスグルムがグレイオスと呼んだ誰かがいるはずだ。
そしてよからぬ兆候が感じられる。ゲートの再建を企てているのだ。それを阻止して来なければレインカースに未来はないだろう。
「潜入ルートは分かりそう?」
サリアに聞かれて、僕はまた頷いた。
「ある程度大雑把には把握できそうだ。あとは都に入ったら気配を頼りに臨機応変かな」
それから、僕はシーヌに向かって言った。
「都でレダジオスグルムの手下がもう一度ゲートを作ろうとしている。それが完成したら君の決断が無意味になってしまうから、僕が行って止めてくる。おそらく二、三日もあれば戻れるだろう。どうか心配しないで、今の僕からすれば、たいした危険はない」
「ええ。それでも足元を掬われないようにどうか気を付けて」
送り出してくれるシーヌの声には確かな信頼があった。僕はそれがうれしかった。
「サリア、シーヌを頼むよ。ここが見つかることはまずありえないとは思うけれど、何事にも絶対はないし、仮にもガリアスはレダジオスグルムと取引ができる程度の悪知恵と実力はあるのだろうと思う。警戒だけはしておいてほしい」
不安はないけれど、心配がないわけでもない。僕は念のため、サリアにシーヌのことを頼んだ。サリアは腕を振って答えた。
「そうだね。気を付けておく。これでもボクもキミからいろいろなことを学んだしね。ボクが自分で思っているほど万能でもないし、強くもないってこととかね。僕は無数の魔法を知っていて、様々な知識を詰め込んで生きてきたけれど、今はたった一匹のキミに勝つ方法も見つからない。末恐ろしいコボルドだよ、キミは」
「どうかな。僕は君の敵ではないし、君も僕の敵ではないから、君に勝つ方法を考えたりしないし、お互い様かもしれない」
僕が笑うと、
「うん。そうだね。君が教えてくれたあれを理解するにつれて、なんとなくボクにも分かったよ。勝たないっていうのは、そういうことだ」
サリアもそれに同意してくれた。
シーヌにはまだ少し難しいのか、彼女だけは首を傾げていた。