第十一章 モンスター(5)
それから、僕は食堂兼食卓でシーヌに会った。シーヌはテーブルに向かって本を読んでいた。
「一〇日ぶり」
と言われた。どうやら僕はそんなに大洞窟で座り込んでいたらしい。一〇日で一食。水も飲まず、良く生きていたものだ。自分のことながら驚いた。
「どうするのかは決まった?」
椅子には座らずに、僕が聞くと、シーヌは僕をまじまじと見ながら、
「その前に聞きたいのだけれど」
と、彼女はひどく困った顔をした。
「何でそんなにやつれているの?」
初めて気が付いた。確かに僕の体はミイラのようだった。一〇日で一食しか食べていなくて、この程度で済んでいるのだからむしろ幸運かもしれなかった。
それで、質問の答えを聞くのは後回しにして、僕はそれから三日間栄養を取るのに専念した。三日後になって、比較的やつれも少なくなってきたところで、改めてシーヌと秘密基地のテーブルで向かい合って話した。
「どうしようか」
僕が問う。シーヌはやっぱりまじまじと僕を見つめていた。
「怖くない」
と、つぶやいた。
「今のあなたは何だか怖くない」
「ありがとう。そう言ってもらえるとほっとするよ。僕は君を傷つけたくはないからね」
僕が笑うと、シーヌもつられて笑顔になった。彼女はまだ僕の顔を眺めていて、そして、笑いながら泣きそうな顔をしていた。
「ラルフだ。私を助けてくれた時の、優しいラルフの顔だ。怖くないラルフが帰ってきてくれた」
「うん。怖がらせてごめんね。シーヌ、僕はどうかしていたんだ。余計な雑念に囚われたせいで、君を傷つけてしまって、本当にごめん」
レダジオスグルムの姿を思い出してみる。不思議なくらい今は何も感じなかった。彼のことは許せないし、彼の誇りがどんなものかを知りたいとは思う。それに、やはりレダジオスグルムは僕の敵だ。けれど、それは彼が僕の理想の平和を乱す存在だからだ。もしそうでなければ、ただ出会っただけであれば、僕は彼を攻撃はしないだろう。それが僕の理想だったはずだ。
「うん、大丈夫。僕は自分の充足のために誰かと争ったりはしないよ、約束する」
「うん。……今のあなたの言葉は、信じられる。今のあなたになら、私はついて行ける。私を助けてくれる?」
僕は、シーヌを連れて行くことになった。
一方で僕はサリアとの関係に大きく苦慮していた。実のところ、帰ってきてから毎日、サリアに手合わせを要求されていて、僕は毎回断るのだけれど、サリアにどうしてもと言われて毎日付き合っていた。
シーヌを連れて行くことにしたとサリアに話した後も、やっぱり、そんなことよりと手合わせを要求された。
今回はシーヌも久しぶりに参加することになった。ハンデとして、僕はシーヌと組んで、シーヌが倒されても僕の負けということにした。それでサリアが満足するならそれでいい。
「僕に任せてくれればいいから、心配しないで」
シーヌに笑ってみせる。シーヌも頷いて言った。
「守ってね」
当然のことながら、サリアはシーヌを集中攻撃した。僕はシーヌを庇って立ちふさがり、サリアが雨のように降らしてくる呪文や泥の塊を捌き続けた。手合わせは一時間以上の長丁場になった。僕はサリアを攻撃しなかったし、シーヌには立っているだけでいいと言ってある。
そしてシーヌが傷つくことは結局なく、サリアが疲れ果てて遠くで潰れた。僕とサリアの手合わせは一〇メートルでも近すぎて、いつの間にか五〇メートルくらい距離を置いて始めるようになっていた。
「納得いかーん」
手合わせが終わると、サリアが、このところ毎日口癖のようになってしまっている言葉をまた口にした。
「何で当たらないのさ」
「それが流れだからだよ。君が強すぎるんだ。だから弱い僕に当たらないんだ」
口で説明するのは難しい。それは技術ではないし、強さでもない。サリアが神の座に近しい魔術師である限り、自分で理解するのも難しいのかもしれない。
「一度力を抜いてみれば見えるものもあるかもしれないけれど。君が躍起になって圧倒的な力で僕を押しつぶそうとする限り、何回やっても結果は変わらないよ」
「むきー! サリアちゃんをここまでコケにしたのはキミが初めてだよ! おかしい! インチキだ! 絶対なんかからくりがあるはずだ!」
びったんびったんという音がしそうなほど地面を叩くサリアに、思わず苦笑が漏れた。なんだか一度秘密基地を離れる前と完全に立場が入れ替わった気がする。
「それはまあ、からくりがなかったらとんでもない強運だってことになってしまうし、当たらない理由はあるよ。でもそれは口で説明して分かるものじゃないんだ。そうだな。ちょっとだけ、からくりを体験させてあげることはできるかも。前にサリアが使っていたみたいな棒を二本用意してくれる?」
僕が言うと、サリアはそそくさと秘密基地から古い槍を二本とって戻って来た。刃を落とし、両方とも棒にすると、一本は僕が、一本はサリアが手にした。
お互いの手が触れ合うほどの位置で向き合い、僕は両手で棒をつかみ、体の前で水平にして立った。
「叩くでも突くでも好きなように僕の棒を攻撃してみて」
サリアに言う。サリアは鋭く振って僕の棒を上から叩いた。
瞬間。
僕は棒を体の前で一回転させた。それだけの動きで、
「痛っ」
サリアは自分の棒を落とした。ぽかんとした顔で僕を見て、そして、理解できたように頷いた。
「ああ、そうか。そういうことか。そういうからくりか。はあ、なるほどねえ。ありがとう。ちょっと見えた。うん、何か分かった」
秘密基地に戻ると、僕とシーヌが向かい合ってテーブルにつき、サリアが横に立つ、いつものといった感じに馴染んだ位置でくつろいだ。ふとサリアが思い立って、サリアの横にはルーサの映像も立っている。
「本当に良かったです」
ルーサはとても満足げに笑った。僕は彼女を眺めながら苦笑いした。
「本当に恥ずかしいところを見せたよ。心配かけてごめん。もう大丈夫だ」
ルーサを心配させたままは忍びなかったし、サリアが呼び出してくれて本当に助かった。
「はい、安心しました。あのまま魔に落ちるのではないかと本気で悩みました」
何より、嬉しそうに笑うルーサが見られて、僕もうれしかった。
「それはなかったと思うけれど、でも暴力的にはなっていただろうと思う。君のおかげだよ、ルーサ、ありがとう」
「それにそのおかげで勝たない流儀って感じの、なんだかちょっと面白い技? 戦法? なんだろう、ちょっと形容が難しい変わった戦闘スタイルを始めたしね。今のラルフ強いよ。百の魔術と千の技を持ってしても、今のラルフを止めるのは難しいと思う。ボクも負けたよ」
サリアがぐねぐねと楽しげに揺れる。
僕は首を振った。
「まだまだだよ。たぶん僕はまだ表層に触れただけで、これは奥義ではないと思っているよ。僕はまだ浅いところを漂っているだけだ。深奥はまだ見えないな。完成型に至るには長い時間がかかると思う。ところで」
ふと思い出した。大空洞で不思議な巨大蜘蛛に会ったことを話した。
「僕はしばらく大空洞で過ごしていたんだけれど、その時に大きな蜘蛛に会ったんだ。ベースが黒で、紫と橙と黄色の模様が入った蜘蛛なんだ。テレパシーで会話もしてきたから、高い知能を持っていると思うんだけど、サリアたちは誰か心当たりはない?」
「は……? 何で、レインガーデンに?」
サリアが呆気に取られて唸り始めた。そして気配を探るように、更にうなりを上げた。
「……いない。念体かも。そんな化け物がもしレインガーデンにいたらボクにも分かるはずだよって」
慌ててサリアが飛びのく。
彼女が立っていた場所に、半透明の蜘蛛の糸のようなものが幾重にも突き立った。
「あぶなっ!」
《化け物とはずいぶん失礼じゃないかい》
テレパシーが届いた。大空洞で見たあの蜘蛛が発したテレパシーだ。
《ラルフ、まずはそこの平和のことだけ考えときな。足元を掬われないようにね。今はおばちゃんのことはお節介な蜘蛛くらいに覚えておいてくれりゃいいよ。月光樹海の奥、月華晶穴で待ってる。場所は、フェリアに聞けば分かるはずさ》
テレパシーは、それ以上は届かなかった。