第十章 泥の悪魔と火炎竜(8)
一夜が明け、僕はサリアにもらった鎧を着こみ、聖神鋼の剣と聖者の盾を手に、サリアの秘密基地を出た。鎧は僕の体格にぴったりで、金属のような光沢を放つ、けれど明らかに金属ではない材質で出来ていた。
シーヌもサリアにもらった装備で武装してついてきている。グレイブの刃と彼女の鎧は僕の鎧と同じ材質のようだった。
サリアは僕たちを伴って洞窟の螺旋通路を登った。そして水場にかかった石橋を渡り、秘密の出口から外に出た。サリアは指輪を持っていないにもかかわらず、こともなげに岩肌を通り抜けた。シーヌは一人では通り抜けられないので、僕が手を引いて外に誘った。
久々に見る空は曇っていた。僕たちはサリアが先導するのに任せて無言で歩いた。
サリアが止まる。そこは秘密の出入り口がある岩肌の、裏側のほうの小高い場所だった。何の変哲もない荒れ野が広がっている。
「行くよ」
サリアはぶしつけに言った。
そして、彼女は両腕を高く掲げた。僕は剣を抜き、盾を手に、サリアの後ろに立って成り行きを見守った。シーヌは僕よりさらに後ろにいて、グレイブをしっかりと握っていた。
サリアの前方、数メートルの場所で、空間が砕ける。その様はそう表現する以外になかった。何かきらめく破片があたり一面に飛び散ると、そこには、紅蓮の鱗に覆われた、巨大な、あまりに巨大な竜が立っていた。四肢で大地を掴み、尾を振り上げ、翼を大きく広げたドラゴンがまるで山のように聳え立った。
「泥がァアァァァァァァァァァァァァッ!」
竜は現れるなり、憤怒の咆哮を上げた。まさしく空気が震えるというのはこういうことかと思った。気が付けば僕は反射的に身構えていた。
レダジオスグルムを見上げる。荒々しく、けれど美しい顔だ。巨大な牙が並ぶ顎の間からてろてろと炎が漏れている。禍々しくもどこか神々しい金色の目がサリアを睨みつけていた。
「だから一ヶ月の間には出してやるって言ったじゃないか。短気だなあ」
サリアは全く動じた様子がない。飄々と突っ立ったまま、レダジオスグルムを見上げていた。びっくりするほど平然としている。それほどまでにサリアとレダジオスグルムの間には力の差があるというのだろうか。僕などは立っているだけでじりじりと体力が削られて行くような恐怖感と緊張感、疲労感でいっぱいだというのに。シーヌに至っては今にも泣きだしそうな顔で、表情を凍り付かせていた。
僕は細く息を吸い、吐いた。気圧されている場合ではない、これからこの竜に勝たなければならないのだ。僕はレダジオスグルムをにらみつけた。前に出る。両足はすんなりと動いた。恐怖はもう感じない。
僕はサリアの隣に並んだ。
「レダジオスグルム。お前が手勢を率いてレインカースに侵略したこと、断じて見過ごすことはできない」
「貴様かコボルド。シルファルサーラの忌々しい匂いをまき散らして歩くのは」
レダジオスグルムが僕を見た。僕らはにらみ合った。僕たちはその瞬間から、敵対者としてお互いを認識した。
けれど、これは前哨戦ですらない。僕はその理由の言葉を、虚空から届いた声に聞いた。今のレダジオスグルムは僕一人で容易に倒せるだろうということも。
「そんなことはどうでもいい。お前が奪った命の数、思想も大義もなく、ただ暴力のためだけに奪われた命、その報いを受けてもらうだけだ。御託は良い。その竜の顎が偽物でないというなら、このちっぽけなコボルド一匹、何も言わずにかみ砕いてみせろ」
さらに一歩出る。サリアの前に僕は立った。火炎竜レダジオスグルム。八〇〇年を生きた古代の竜。それが何だというのだ。所詮は、同じ蜥蜴だ。
「コボルド風情がァッ!」
レダジオスグルムが炎を吐く。まさに獄炎と言わんばかりの激しい炎だ。けれど、僕は叫んだ。
「小細工は良い! かかってこい!」
炎が消える。僕は燃えない。火傷一つない。僕は剣をぶら下げて立っていた。
「え」
サリアも驚きの声を上げている。彼女には後で説明しなければいけないだろう。僕は勝てる。そう確信していた。
「サリア、見ているだけでいい。こいつは君に守ってもらわずに勝たなきゃいけない。今分かった」
僕はレダジオスグルムの前まで歩いた。体は軽い。疲労感もすでに消えていた。ただ、ピリピリと背筋を走る緊張感だけが残った。
「来ないのなら、こちらから始めさせてもらおう」
僕は聖神鋼の剣を振り上げ、目の前の下顎をしたたかに打った。固い。これが竜の鱗か。聖神鋼の刃をもってしても、それは砕けなかった。
「動けないのか。どうした大蜥蜴」
僕はもう一度同じ鱗を打った。
レダジオスグルムは低く唸るばかりで反撃して来ない。哀れなものだ。
「それが! 誇りある! 竜の姿か!」
何度も打った。鱗を砕くつもりはなかった。
「忌々しい……貴様ごときコボルドが好き勝手を言いおって」
レダジオスグルムはもう一度低く唸った。
「なら、かかってこい。その程度の戒めも解けず、何が竜だ。年ばかり食った長虫め」
僕は特大の屈辱を与えるためだけに、レダジオスグルムの顎を蹴り上げた。竜の咆哮が上がる。そして、サリアの拘束とは別の、見えない鎖が飛び散った。
今度こそ、レダジオスグルムは四肢を踏みしめ、首をもたげて仁王立ちに立った。
右前肢の爪が迫る。僕はそれをくぐって躱した。続いて顎が。僕はその鼻っ面に飛び乗った。
「本調子ではないだろう。今回は勝敗の数には入れないでおいてやる」
僕はそう言うと、渾身のひと振りをレダジオスグルムの眉間に叩き込んだ。聖神鋼の刃が光を纏い、邪悪を砕く一撃となってレダジオスグルムを打った。
その一撃だけで、レダジオスグルムは昏倒して倒れた。失神したようだ。起き上がってはこなかった。
僕はレダジオスグルムの頭から飛び降りて、サリアとシーヌに笑いかけた。
「終わったよ。起きたら帰るだろう」
サリアとシーヌは完全に状況が呑み込めずにぽかんとしている。終わってみればあまりに一方的な、戦いとも言えない勝負に、何がどうなっているのかが分からない様子だった。
「ありがとう」
声そんな二人を尻目に、僕は虚空に声を掛ける。
「どういたしまして」
不意に声がした。虚空からぽとんと何かが降りてきた。それは水の塊で、すぐに魚の形をとった。
「この次元に雨を降らし続けていた水の精霊、ドネだ」
僕がサリアとシーヌに紹介すると、ドネが僕の脇で器用に胸鰭を振った。
「サリア、君の次元牢は完璧じゃなかったんだ。あのままだったら三日とせずに出てきただろう。君はレダジオスグルムを過小評価しすぎた。だからドネが拘束してくれていたんだよ。ついでに随分と弱らせてくれたらしい。レダジオスグルムの戦う力はすでに半減していたんだ」
「何もレダジオスグルムと因縁があるのはシルファルサーラだけではないのです。私もまた、この悪竜にはほとほと困り果てています」
ドネは言った。
「わたしにはレダジオスグルムを倒しきるほどの力はありませんが、安全圏からであれば、拘束を強化し、弱らせる程度のことはできます。それでもまさか一撃とは恐れ入りました」
ドネが僕を見上げた。どこから見てもコボルドだ、とドネはつぶやいた。
「随分一撃の鋭さが増しているようですね」
「サリアに随分しごいてもらったから」
僕が答えた時、目を覚ましたらしく、レダジオスグルムが起き上がった。気だるげに首を振り。目の前に立った僕を睨んだ。
「木っ端が……やってくれおる。名を聞いておこう」
「ラルフ・P・H・レイダーク。聖騎士レイダークと覚えておくといい」
僕がレダジオスグルムに答えると、レダジオスグルムはゆっくりと立ち上がり、土埃をまき散らしながら宙に浮いた。もう一度、僕を見据え。
「なかなか面白いではないか、貴様。良かろう。今回は楽しませてくれた礼だ。私自身はこの地から手を引いてやろう。無論、手下どもが貴様を狙うことは変わらぬがな」
レダジオスグルムは僕に告げて、遠くにいる誰かに向かって咆哮のようなテレパシーを送っていた。その思念は、僕たちにも聞こえた。
『グレイオス、この地については、あとは任せる。だが、一匹小生意気なコボルドがおる。聖騎士レイダークという。そいつだけは必ず仕留めろ』
それだけテレパシーを残すと、レダジオスグルムはレインカースから飛び去って行った。