第十章 泥の悪魔と火炎竜(7)
サリアに稽古をつけてもらい、シーヌやサリアと語らい、時にレデウにいる皆やルーサなどとも連絡を取り合いながら過ごした。
僕の特訓は順調で、最初のうちは泥の怪物の変幻自在な攻撃に惑わされて、受けるのにも攻撃するのにも難儀していたけれど、時に耐えること、時には強引なくらいに攻めに転じることの必要性に気づいてからは、くらいついていけるようになった。そしてそれを七日も繰り返していると、攻防をひとかたまりの自然な流れとして感じられるようになってきて、もはや泥の怪物一体では相手にならなくなった。
それからは複数体を一気に出してもらって特訓を行った。けれどそれも二、三日もすると相手にならなくなり、ついにサリア本人から手ほどきを受けることができるようになった。
サリアの本文は魔術ではあるものの、体術が苦手というわけではないことをすぐに思い知った。彼女は古びた槍の刃を落とし、杖として使って相手をしてくれ、泥の怪物をまとめて薙ぎ払えるようになった僕を、まるで赤子のようにあしらった。殴られ、転がされ、剣を叩き落とされ、したたかに腹を突かれて。僕はそれから数日間、全くサリアを捕らえられないままに過ごした。サリアはわざとリーチを短くして相手してくれたけれど、僕の剣は一向に当たる気配がなかった。
何故僕の剣は当たらないのか。
なぜサリアの棒が避けられないのか。
僕は打たれながら、毎日その理由を探った。そしてサリアから直接手ほどきを受け始めて五日目に、やっとサリアを捉えることに成功した。サリアの棒術は常に攻防一体で澱むことを知らなかった。それが秘密だと気が付いたからだった。僕は盾と剣を別々のものとして扱っていた。もちろん攻防を織り交ぜることはそれまでも気を付けてはいたけれど、それでも、攻防を織り交ぜるだけで、わずかな間隙が生じていたのだ。サリアほどの腕になると、その間隙だけで十分だったのだ。
さらに二日が過ぎ、僕はいつの間にかサリアと互角に打ち合っている自分に気づいた。サリアの動きが、目で追わなくても分かることに戸惑いながら、僕は彼女と打ち合った。
そして、棒ではなく泥の一端を死角からサリアが伸ばしてきて、僕がそれを目で確認せず、サリア本人を見据えたまま剣で切り払ったところで、サリアが棒を放り投げた。
「やったね! たいしたもんだ!」
サリアが放り投げた棒は放物線を描いて飛んできた。僕は気が付くと、それを剣先で受け止めていた。刃の腹の上で、ゆらゆらと揺れながら、バランスよく棒が乗っていた。
「一四日でここまで辿り着くか。キミもたいがい化け物だね。キミの実戦経験からしてできるとは思っていたけど、こんなに早いとビックリしちゃうな。これならいけるよ」
サリアが楽しそうに揺れている。それから彼女は僕の剣の上の棒を取ると、泥の腕で一回転させた。何が起こったのかは分からなかったけれど、棒は細切れになって床に飛び散った。
「でも忘れないでね。今のキミの技術はあくまでも付け焼刃で、本物の化け物はまだまだいるものだから。これからも、ちゃんと自分の業として会得できるまで練習するんだよ」
僕にはサリアがどうやって棒を粉々にしたのか、いつ粉々にしたのか、まったく分からなかった。つまりそれは、そういうことだ。今の僕の腕前レベルなら、まだ、サリアからすれば、魔術などなくても簡単に倒せるということなのだ。
サリアが果てしなく強いことを、僕は理解した。
訓練を終えると、サリアと僕は毎日の日課としているシーヌと話をしながら過ごす時間に入った。僕の訓練とは真逆に、シーヌの状態は一向に良くなる気配がない。落ち着いてはいるし、話をしてはいるけれど、僕には目を合わせるものの、サリアとは絶対に目を合わせようとしない。
シーヌの態度は露骨で、サリアと交友を結ぶことを極度に恐れているふしすらあった。その理由は何となくわかる気がしていた。
「レダジオスグルムと戦うの?」
シーヌは浮かない顔でそう聞いた。僕のことを心配しているというより、サリアの秘密基地から僕が出る日が来るのを恐れているような、そんな目をしている。
「まだかな」
サリアが答えた。
サリアは目を合わせようとしないシーヌの目を無理に覗き込もうとはしない。たくさんの魔術を修め、たくさんの知識を抱えた彼女であっても、シーヌの相手をするのは手探りだと言わんばかりにサリアは慎重だった。
「今でも十分ボクと一緒なら勝てるとは思うけど。それだとその後がちょい不安だからね」
「その、だったら」
シーヌが珍しく、サリアに対して自分からお願いを口にした。
「私も特訓に参加させてもらえる?」
「キミも?」
サリアはすこし驚いた声を上げてシーヌの顔を見上げた。そして彼女はシーヌの表情に何かを読み取ったのか、静かに言った。
「分かった。明日からやろうか」
「大丈夫なの?」
僕がサリアに小声で聞くと、
「うん、たぶん。この子は変わろうとしているよ」
サリアも小声で答えた。
翌日から特訓にシーヌも参加するようになった。シーヌのレベルに合わせて、僕も数日ぶりに泥の怪物を相手にする。ただし、サリアに言われて、僕は剣と盾を持たずに、弓と練習用の矢だけで挑んだ。
シーヌが前に立ち、僕が弓で支援するフォーメーションだ。シーヌの動きはぎこちなくて、僕は不意に射線を遮るシーヌに度々肝を冷やした。
まるで息が合わない。というよりシーヌが不安定すぎて息を合わせるどころの話ではなかった。シーヌも加わった初日の訓練結果は散々だった。泥の怪物は僕の時とは違い、シーヌを滅多打ちにはしなかったけれど、シーヌのグレイブもまた泥の怪物に当たることはなく、僕の弓も数回掠っただけに終わった。
その日のシーヌとの会話は、ほぼ特訓の反省会で終わった。シーヌはひどく悔しがっていて、それでも絶対に根は上げないからやめろとは言わないでほしいと繰り返しサリアに懇願していた。
二日、三日と日数は過ぎていく。
シーヌの動きはびっくりするほど変わらない。サリア曰くこれが普通なのだという。僕が二、三日で何故を突き詰めてその突破を図れるのは、おそらくサバイバルのためにコボルドという種が獲得した生来のポテンシャルなのだろうと、サリアに言われた。もともとコボルドには訓練する時間などないし、そんな暇があったら餌を探さなければ今日生き抜くのも困難を極める生き物だ。わずかな経験から教訓を得るポテンシャルは、実は逆にとんでもなく高いのかもしれないというのが彼女の見解だった。サリアにしてこれは今まで考えもしなかった発見かもしれないと驚いていた。
けれどそれが実はシーヌとの合同特訓で一番困った事態を引き起こした。シーヌのグレイブは一向に当たらないのに、泥の怪物がバタバタと倒れてしまうのだ。理由は単純で、僕がシーヌの動きの癖に慣れただけだ。僕の弓の腕はめきめきと上達しているのを感じた。
「シーヌの特訓にならない! 手加減しようよ!」
と、サリアに怒られた。
それでも数日もするとシーヌに変化が見られ始めた。戦闘の腕は相変わらず上達しないけれど、何となく訓練の間だけ、楽しそうな表情をすることが多くなってきたのだ。体を動かしている間だけでも、余計なことを考えないでいられるのかもしれない。
シーヌが訓練を初めて六日が過ぎた夜に、サリアが厨房兼食堂で夕食を取っているときに言った。
「明日レダジオスグルムを退治しに行こう」
「分かった」
僕はそろそろだろうと思っていたから、心づもりはできていた。僕の向かいに座っているシーヌが心配そうな顔をした。
「負けないでね」
それを聞いて、サリアが驚いたようににょきっと上体をテーブルの上に伸ばしてきた。
「何を他人事みたいに言ってるの。キミも一緒に行くんだよ」
「え? 私も?」
シーヌが目を見開いた。僕もまさかシーヌも戦わせるつもりだとは思っていなかったから、少なからず狼狽した。
「危険すぎない?」
「いや、キミも。『僕が守るから大丈夫』くらい言ってあげられなくてどうするの。これから先困難を共にするんだから、頑張ってあげなきゃだめだよ」
「……そういうこと?」
僕は気が付いた。サリアは、シーヌをここに残すのは無理だと言っているのだ。
「でもうん、二人の武装だと不安だね」
そう言って、サリアは僕たちを連れて秘密基地の宝箱の前に移動した。
そして、彼女は宝箱の中から古びた革鎧を二つ、それとシーヌが間に合わせで使っていたグレイブを飲み込んだ。体の容量に合わない。物理的に収まっているのではないことは明らかだった。彼女は呑み込んだものをしばらく咀嚼して、吐き出した。吐き出されたものは、僕たち用の、見るからに魔力がこもった武具と分かる見事なまでに輝く装備だった。