第十章 泥の悪魔と火炎竜(6)
翌日。
朝から早速僕はサリアに特訓を付けてもらっていた。サリアの部屋は稽古をするには狭すぎるので、特訓はサリアが特別に用意してくれた空間で行うことになった。サリア曰く、
「一時的に天盤を間借りしたような空間」
だそうで、レダジオスグルムにも侵入できないらしい。いきなりサリアと手合わせは無謀なので、サリアが用意した泥の怪物を相手に三時間ほど訓練を行った。
結果から言うと、初日の三時間はほぼ完敗に近かった。久々に滅多打ちされていると、つい先日までサール・クレイ大聖堂で訓練していたことを思い出す。考えてみると、あれからまだほとんど時間がたっていないのだ。急にそんなに強くなるはずがない。それでも、無理でもなんでもやるしかなかった。
サリアはシーヌも連れてきていて、そうやって滅多打ちにされている僕を見せていた。シーヌが見ていることで、必ずレダジオスグルムを撃退しなければいけないのだということを忘れずに特訓に立ち向かえた。
午後はシーヌと一緒にゆっくりする時間が必要だとサリアに言われ、特訓はしない。僕はサリアの秘密基地のテーブルにシーヌと向かい合って座り、シーヌの話を聞いた。
シーヌは前日にフェリアと話した内容を僕に教えてくれた。フェリアがインプから受けた仕打ちの話をつぶさに聞かせてくれたということ、フェリアがそこからどうやって立ち直ったのかということ、フェリア自身まだ立ち直れていない部分もあるということ、そういった心の傷をフェリアがすべて赤裸々に語ってくれた、とシーヌは話してくれた。
僕はシーヌの話をその日は黙って聞いた。以前シエルの話を聞いた時にフェリアが言っていた、今は話を聞いてあげる時、というのを思い出したからだ。おそらく、今もそういう時なのだろうと思った。
シーヌは言った。
「私はそれを聞いて、自分はフェリアに比べらまだマシな方かもしれないと思ったの。でも彼女は笑って言ったんだ。こんなことにマシかどうかなんてあるわけがないって。たとえ本当にそうだったとしても、心が深く傷ついてしまったのだから何の慰めにもならないって。ただ、お互いつらい思いをしたっていうことを共感できれば、それだけで救われることはある。それだけ分かればいいって笑ってくれた」
フェリアらしい言葉だ。シーヌもそう思ったらしい。そして、シーヌはこう続けた。
「自分もまだ立ち直り切っていないって彼女は言っていたけれど、だとしたら彼女はとても優しいひとだと思う。彼女にもそう言ったら、彼女はこう答えたの。自分は優しくないけれど、そう見えるのなら、底抜けに、残酷なくらい優しい、どこかの蜥蜴の影響かもしれないって」
シーヌは僕を見て笑った。その笑顔はまだ弱々しかったけれど、少なくとも彼女の目が笑っていたから、僕は少しだけ安心した。たぶんとしか言えないけれど、フェリアに任せたのは正しかったのだろうと思った。
あまり疲れさせるのも良くないから、僕はシーヌの声に疲労が浮かんでくると、彼女が言葉を切ったところで、
「少し休もうか。君にも、僕にも、休息くらいあっていい。おいで」
と、僕は椅子を立って床に座り込んだ。大空洞の光の通路の中でそうしたように、僕はシーヌを床に寝かせ、膝の上に彼女の頭を乗せて撫でた。しばらくそうやって休ませていると、シーヌは穏やかな寝息を立て始めた。
サリアの秘密基地にはさらに奥の部屋へ続くアーチがある。その奥にはベッドがいくつか並べられた部屋があって、僕はシーヌを抱きかかえて運ぶと、ベッドに寝かせた。僕は枕元に座り、シーヌの頭を撫で続けた。せめて、彼女の眠りが安らかなものであるようにと。
僕がシーヌのためにそうやってそばについている間に、サリアは秘密基地を離れてどこかへ行っていたようだった。帰ってくると彼女は僕にレインカース内の状況を教えてくれた。
「ガリアスは都に留まっているみたい。レダジオスグルムの手下との意見が合わず、軍が満足に動かせないでいるね。しばらくは動きはないと思う。レダジオスグルムは相変わらずキミを探してこの上をうろうろしているよ。目障りだから交渉してきた。必ず連れて行くと言ったらどのくらいの期間までなら待てるかってことを聞いて、ひとまず三〇日の訓練期間をもぎ取って来たから。物理的に」
物理的。
流石ほとんど神様に近いひとだ。彼女にとってみればレダジオスグルムの存在など本当に小僧なのだなと感じた。けれど、物理的ってどういうことだろう。
「言っても分からんちんだったから閉じ込めてきた。まあ、あの小僧の力程度なら、自力じゃ半年は出て来られないから安心して」
「そのまま撃退してきてくれても良かったんだよ?」
僕がそう首を傾げると、
「そりゃ駄目だよ。それじゃあいつは懲りない。ああ言う手合いはね、より強い力で押さえつけつけられても、自分より格下に当たり散らすだけだ。キミみたいな、あいつが圧倒的に格下だと思っている相手に叩きのめされて初めて身に染みるんだ」
グネグネと揺れながら、サリアは腕をぶんぶんと振った。それから彼女は寝ているシーヌを見て、よく眠っていることを確かめると、僕についてくるように言って部屋を出た。
寝室のさらに奥の部屋に移る。そこは厨房兼食堂になっていて、明らかにレインカースでは手に入らないだろうと思えるような肉やら果物やらが貯蔵されていて、銀や金で装飾された食器なども収められていた。サリアは食べなくても生きていける悪魔だけれど、料理を作って食べるのは好きなのだと言っていた。
食堂に入ると、サリアは僕に食卓の椅子に座るように目と腕で促した。僕がそれに従うと、彼女は向かいの椅子に器用に乗って、話し始めた。
「シーヌ、だいぶひどいでしょ。あの子は多分もう一人では立てない。誰がそばにいる前提で癒すか、実は迷っているんだよね」
サリアは変にぼかすこともせず、ストレートに言った。
「もちろんキミに全部任せるつもりはないんだけど。キミじゃ力不足って意味じゃないよ。キミ任せだと、あの子はキミを通してでしか自分の価値を確かめられなくなっちゃうからね、ある程度キミにも適度に距離を取ってもらう必要があるんだ。みんながフェリアみたいにタフな精神を持っているわけじゃないし、むしろシーヌくらいどうにもならないほうが普通なんだ」
「フェリアだって普通の子だよ」
僕は首を振って答えた。
「フェリアだって本当はあんな子じゃなかったんだと思うよ。あの子は敵だと思ったものには怖いくらいに残酷だ。そういう意味では、きっと本来持って生まれた彼女らしさは壊れてしまっているんだと思う」
それでもフェリアは生まれた時からフェリアで、それは確かめようのないことだ。それでも彼女が敵対者に見せる態度は露骨で、それは彼女が、自分と、自分を愛してくれる空間が、失われることを心のどこかでひどく恐れていることの裏返しなのだろうと思う。それが失われてしまったら、きっと彼女の心は、今度こそバラバラに砕け散ってしまうのだろう。
「だからフェリアはシーヌに自分のことを話したんだろうと思う。シーヌにはそうなってほしくないから。強い依存で成り立っているということに関しては、フェリアこそ正真正銘、“誰かに愛されている自分”に依存しているんだ。フェリアは一生そうやって生きていくしかないんだ」
「……ああ、そうか。そうなんだね。ボクは駄目だなあ。一五〇〇年以上生きているのに、ちっとも人の心が分かっていないのかも。よっぽどキミの方が分かっているなんておかしいね」
サリアはしょげたように少し潰れ気味になった。
「キミから見たシーヌはどう見える? ひょっとしたらシーヌに関しても、キミのほうがちゃんと見えているのかも」
「そうだね。僕の意見を言うと」
僕は、それはどうか分からないけれど、と前置きして答えた。
「君はシーヌがギリギリ正気を保っているというけれど、僕にはシーヌの正気はとっくに失われているように見える。彼女は自分の境遇を受け止めるには繊細過ぎた。一人で立てないだろうことには同意だけれど、そもそもシーヌはもう十分頑張って来たんだし、一人で立たなくてもいいんじゃないかな。誰かがそばにいること前提でも、シーヌが生きているのならそれでいい気がする。彼女に必要なのは、もう一人で頑張らなくていいんだと言ってあげられる誰かなんじゃないのかな。それは僕かもしれないし、君かもしれない。僕には分からないけれど、選択肢は多い方がいいと思う。君はシーヌにとって赤の他人だというけれど、君もそこから一歩歩み寄って、シーヌの心に触れる勇気が必要なのかもしれないよ」
「そうかもしれない。うん、きっとそうだ」
サリアは、静かに頷いた。