第十章 泥の悪魔と火炎竜(5)
レデウの皆との話も終わり、僕たちは早速シーヌの問題に、と言いたいところだけど、そうはならなかった。
まず、フェリアがシーヌの様子が気になると言い、二人だけで話がしたいと言い出したのだ。フェリアは、シーヌにおそらく捕らえられていたころの自分を重ね合わせているのだろう。
「シーヌ様、どうか自分と世界を恨まないでください」
フェリアが言っている。それはフェリアが、彼女の母、フォーナから教えられていたことと一緒だった。
「ごめんなさい。同情の気持ちは嬉しいのだけれど、私にはその言葉がつらいです。だってあなたの姿はとてもきれいだもの」
シーヌが答える。フェリアが水晶球の中で首を振った。
「ありがとうございます。でも、あなたがきれいと言ってくれる私も、あなたと同じなんです。だから私には、あなたの気持ちが良く分かるんです。それは私も抱えてたものだから」
フェリアの言葉を聞いて、僕は二人の会話を聞くのをやめた。たぶん、今、シーヌの話を聞いてあげる人選として、フェリア以上の適役はいないだろう。
僕は、それから、視線を移した。僕は椅子に座ったままで、視線を向けた先にはまだシルファルサーラの映像が残っていた。サリアに、一度ゆっくりちゃんとした話をした方がいいと言われたのだ。
「改めて話をしろと言われると、なかなか振る話題が思いつかないな。ごめん」
僕が言うと、白銀竜の姿のままのルーサも頷いた。
「本当に。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、何を聞こうと思ったのか、全然思い出せません」
「そうなんだ。僕の方は、その。オールドガイアにも、君が出てくる伝承や伝説はいくつも残っていて、予想外に君が大物の竜すぎたから、僕の言動なんかに一喜一憂していた姿とギャップがありすぎて、まだちょっと理解が追い付いていないんだ、ごめん」
ひどくばつが悪い。そういう言い方は、ルーサはきっとあまり好きではないだろうけれど、僕はひどい非現実感に戸惑っていた。
「私が心構えをする前に、あなたが事態を動かしてしまうから、私も状況に追いつくだけで精一杯なのです。私のことも、レダジオスグルムのことも、もう少しゆっくり、徐々に理解していってもらおうと思っていたのですが、あなたが私の想定より先を歩いて行ってしまうものだから、うまく対応できないのです。一気にいろいろなものが押し寄せることになってしまって、ごめんなさい」
ルーサはとても申し訳なさそう顔をするけれど、それは彼女のせいではないと思った。誰かが悪いわけではないはずだ。
「大丈夫、君のせいではないことは分かっているし、状況は十分理解できているつもりだ。レダジオスグルムが過去にどんな悪事を働いたかは知らないけれど、少なくともレダジオスグルムは、レインカースで悪事を働き、間接的にであれ、シーヌを傷つけて苦しめた。それだけで十分僕はレダジオスグルムを許してはおけない。そういう意味ではごめん。君が戦力を割いてくれるのはもちろん助かるけれど、君とレダジオスグルムが敵対しているとか、そういうことは、今の僕にとっては関係ない。ただ僕はそいつが許せない。たとえ君の護符がなくても、遅かれ早かれ、僕は僕自身の意志で、レダジオスグルムとは敵対しただろう」
「私もそう思います。あなたはレダジオスグルムが私の敵だから戦うひとではないと」
ルーサの声色は冴えない。彼女は何かに対して、まるで恨んでいるような、そんな悲しげな目をしていた。
「けれど気を付けて。レダジオスグルムは本当に強大な竜で、私も歯が立たない恐ろしい相手なのです。私の護符など、彼の前では何の役にも立ちません。あなたにとっての初めての困難には、私があなたの力になるからと言ってあげたかったのに……いきなり私の力の及ばない相手だなんて……あなたはなぜそんな過酷な道を歩むのでしょう。役に立てない非力な竜でごめんなさい」
ルーサの言葉の真意は僕には分からなかった。レダジオスグルムがそれだけ恐ろしい相手だということは分かったけれど、サリアもいるし、最悪というほどの状況でもないはずだ。彼女自身がレダジオスグルムに今はまだ及ばないとしても、僕一人では今はまだ勝ち目がないとしても、それを悲観して立ち止まってしまわなければ、まだ取り返しがつくことだろうと僕には思える。
「もしもの話として聞いてほしい。もしも、本当にもしもだけど、僕がレダジオスグルムに勝てるようになったら、君の重圧とか、君の恐怖とか、そういったものは和らぐのかな」
「あなたは何を考えているのですか? なぜそのような質問を?」
今度は、ルーサが僕の真意を量りかねる目をした。その目はちっぽけなコボルドを見る目ではなかった。何か恐ろしいものを見つめる目で、彼女は僕を見ていた。
「どうせレダジオスグルムに今後も狙われるのなら、神様に近しい存在に会えるなんてこんないい機会はそうはないし、シーヌを癒すのにどうせここを動けないし、サリアにみっちりしごいてもらおうかと思っている。サリアは明らかにレダジオスグルムを格下扱いしているし、僕がこれからもレダジオスグルムの妨害を乗り越えて誰かを助けたいと思うなら必要なことだと思うんだ。僕は君のようなドラゴンではないし、天上の使いでも古代の闇でもない。突然覚醒するような都合のいい能力なんてない、しがないコボルドだ。地道にやるしかないけれど、それは人類と呼ばれる者たちだって同じはずだ。でも人類はそうやってちゃんと強くなっていく。武具やらなにやらの力も借りてだけど、人類はそうやってドラゴンだって倒してみせてきた。なら、僕みたいなコボルドにだって、やってやれないことはないはずだ」
「よく言った! えらいぞキミ! コボルドなんて、しごくぞ、なんて言ったら逃げるんじゃないかと思っていたから、どう切り出そうかと悩んでいたんだけど、そんな心配いらなかったね! まさか自分で言い出すとはボクも思っていなかった! ごめん、キミをちょいと見くびっていたよ!」
べちょべちょとサリアが寄ってくる音がした。とても愉快そうに体を揺らしているサリアに、僕は笑顔を向けた。
「お願いするよ。僕はたぶん、君たちに導かれるような価値のある英雄ではないし、特別な素質なんてないケチなコボルドだけれど、それでもシーヌやエレサリア、ルーサが笑えるようになるのに必要なことなんだ。君の時間を僕に割いてもらうのは心苦しいけれど、どうか僕に力を貸してほしい」
「んー、ケチなコボルドはたぶん、このサリア=レラ=サリアに稽古は頼まないと思うな。なにより、ドラゴンに歯向かおうとはしないんじゃないかな」
サリアはそう言ってから、ちらっとだけルーサに視線を送った。それから僕を見て言った。
「それと、一個だけ教えといてあげよう。キミのいう“ボクは英雄じゃないけど”ってそのセリフ、英雄になったひとたちもだいたい一回は言ったからね。だからってそれを言ったひと皆が英雄になれたわけじゃないけど、まあ、ドラゴンやボクみたいなのに言って英雄にならなかったひとはほとんどいないね。そもそもだけど」
と、僕の顔の前に、サリアはびしっと泥の棒のような腕を伸ばしてきた。
「見事レインカースからレダジオスグルムを追い返せたら、その時点で十分英雄的だからね。自分がやろうとしていることをちゃんと考えた方がいいよ」
そう言われて、ようやくのように自分が挑もうとしているものについて、冷静になって考えた。火炎竜レダジオスグルム。八〇〇年という年月を生きてきた古代の竜。その歳月を考えれば天災に等しい強大さを持っているだろうし、普通に考えたらコボルド一匹でまともな勝負になるはずのない相手だ。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
「コボルドがドラゴンを叩きのめしたら、鼻っ柱を少しは折れるかな?」
我ながらのんきなもので、そんなことを考えた。
「そりゃもうプライドはボロボロだろうね。その代わりこれでもかってくらい恨まれるよ、キミ」
なるほど。サリアのいうことはもっともだ。
「そうしたらたぶん当面の狙いは僕に向くね。ルーサの負担が少しは肩代わりできるかな」
僕が言うと。
「それは間違いないですが、それではきっとあなたが大丈夫ではないです」
ルーサが狼狽えたように呻いた。半ば悲鳴のような声に僕は笑って見せた。
「だから大丈夫なように特訓するんだよ。それを大丈夫なようにしなければ、どのみちこの先僕はどこにも行けないしね。やるしかないよ。サリアも言っただろう。僕はもう引き返せないんだ。なら生き抜けるように進むしかない。心配しないで、今までと変わらないよ。コボルドの生涯なんて、もとから一生サバイバルだ」
僕はルーサとサリアにもう一度笑ってみせた。二人は何とも言いようのない顔をした。