第十章 泥の悪魔と火炎竜(4)
サリアはどこか冷めた目で水晶球を眺めながら語った。
「シーヌの心はキミたちがどんなに後悔したとしても変わらないよ。彼女の心は粉々に砕ける寸前で、彼女の自尊心は跡形もなく引きちぎられてしまったからね。ただ、彼女を癒すことはできる。時間はかかるけれどね。だから、彼女の心が癒えるまで、シーヌはボクが預かることにした」
サリアの言葉に、エレサリアやランディオは異論を唱えなかった。唱えることができなかったというのが正しいのかもしれない。サリアはただ淡々と話を続けた。
「でも、ボクはシーヌの友達でもなんでもないから、ボクだけじゃシーヌの心は救えない。シーヌの心に寄り添うには、シーヌ自身がそのひとを信じられる必要があるから。幸いここにはシーヌが自分の味方として信じたひとがいるみたいだから、彼の力を借りようと思う。そういうわけで、ラルフもしばらくボクのところで預からせてもらいたい」
「師匠らしい話です。シーヌ様、師匠はけっこう不器用で、ちょっと考えが足りない時もありますけど、根はすごく真面目に考えてるひとです。たまに失礼なこともありますけど、大目に見てあげてくださいね。どっちかというと、師匠のほうがお世話になっちゃう気がしますから、よろしくお願いします」
フェリアが答えた。どうやら認めてくれるようだ。
「師匠、ムイムやシエルには私から伝えておきます。師匠が不在の間、判断に迷うことがあったらムイムに決めてもらうので、こっちは心配しないでください」
「ありがとう、よろしく頼む」
フェリアの言葉に僕は礼を言って、それからエレサリアとランディオに伝えることがあることを思い出した。
「ランディオとエレサリアにボクからも話がある。聖宮長が降臨させた火炎竜だけど、対抗している善の竜がいるんだ。前にエレサリアの前で、僕が炎と冷気のスクリーン越しに話していたルーサだ。覚えているかな? 彼女が自分の軍勢を招集してガーデンに派遣してくれるらしい。かなり時間がかかりそうという話だけれど、必ず援軍は来るはずだから、粘り強く防戦に徹してほしい」
「ええ、覚えているわ。分かりました。次にルーサと話す機会があった際に、ガーデンの民も感謝していると伝えてちょうだい」
エレサリアが頷いた。まだ表情は冴えないけれど、彼女は気を取り直すようにランディオに短く説明した。
「ルーサというのはラルフに加護を与えている竜なの……信用できるわ」
「なるほど。何にせよ、援軍の話は何よりもありがたい。承知した。援軍到着まではレデウの防衛に専念しよう。軍からの感謝の意も伝えてほしい」
ランディオもそう言って承知してくれた。これでひとまずはレデウのほうは心配ないだろう。あとはレレーヌの様子が気になるくらいだけれど、今のエレサリアにあれこれ質問するのは憚れたのでやめておいた。
「さて、とりあえず一通り連絡したいことは終わった訳だけれど」
サリアがずりずりと泥の体を引きずるようにテーブルの上のワンドを取って言った。
「ボクからキミたちに話がある。ガーデンを我が物顔で荒らしまわっている火炎竜についてだ。でも、ちょっとごめんよ。この話をする前に特別ゲストを招待しないとなんだ。名前はシルファルサーラ。このガーデンを守るのに、どうあっても協力してもらう必要があるひとだ」
サリアがその名を告げたとたん、僕が首から下げた竜の護符の目が強く光りはじめた。また呼び出されている。けれどそれを見たサリアは首を振った。
「つながなくていいよ。ボクがやるから」
そう言ってワンドを一振りすると、僕たちだけでなく、水晶球を通しても見える場所に、エルフの少女の姿の白銀竜の映像が現れた。
「サリア、勝手に私の名前を明かさないでいただきたいのですが……」
言いにくそうにルーサの映像がサリアに抗議すると、
「ごめんね。でも、キミも覚悟を決める時だよ、シルファルサーラ」
サリアは、まっすぐな声で、ルーサにそう語り始めた。
「分かっているよ。キミは十分に気を付けたことも、護符にほんのわずかな力しか持たせなかった理由も。けれど、ラルフは水の精霊を解放しに聖宮へ行った。すでに不幸なニアミスは発生しちゃったんだよ。聖宮長の裏でレダジオスグルムが暗躍していた聖宮に、ラルフは自分から飛び込んじゃったんだ。ラルフの護符は見つかってしまったんだ。彼はミスティーフォレストでもレダジオスグルムの手勢に襲われたから、間違いない。キミはまだラルフとレダジオスグルムを直接鉢合わせないようにしようとしているけれど、もう遅いんだ。もうキミとあいつの宿命に、彼は巻き込まれてしまったんだよ。もうラルフは引き返せない。レダジオスグルムにキミの協力者としてマークされてしまった。もう一度言うね、シルファルサーラ。キミも覚悟を決める時だ」
「……分かりました。ありがとう、サリア。ラルフが襲われたのであれば、もう関わらせないように隠しても仕方がありません」
ルーサの姿がぼやけて、ゆっくりと姿が溶けてゆく。そして一度完全に姿が判別できないくらいにまで乱れた後、またゆっくりと結像していった。はっきり見えるように映像がまた形作られると、そこには人間くらいの大きさの竜の映像があった。彼女の姿は竜の護符に彫られた竜の姿そっくりで、護符よりも神聖な銀色が、まるで完成された美術品のように輝いていた。映像なので実際の大きさは分からない。けれど、人間大の映像でも圧倒される威容を誇っていた。
「ラルフ。もうサリアの口から明かされてしまったけれど、私自身の口からもう一度名乗ります。私の名はシルファルサーラ。六〇〇年という時間を次元宇宙が穏やかであるようにと捧げてきた白銀竜です。そして、私の六〇〇年間のほとんどは、火炎竜レダジオスグルムに対抗するために費やしてきました。この数年は、彼はレインカースと呼ばれている、かつてレインガーデンと呼ばれたケセレンシルの庭の破滅と支配を目論んでいました」
白銀竜シルファルサーラ。何冊かの書籍で読んだことがある名だ。神話に近いような英雄譚にしばしば登場する名前で、英雄たちに様々な助言や武具などを与え、勝利に導いてきたとされている。たいていの書籍において、彼女は聡明で慈悲深く、また争いを好まない温和な竜として紹介されていた。オールドガイアではレダジオスグルムの名前は知られていないから、おそらく彼女たちの争いが、オールドガイアに及んだことはほとんどないのだろう。
シルファルサーラとして、ルーサは静かにレダジオスグルムについての話を語った。相手があまりに大物なことに驚きはしたけれど、それでも彼女の等身大の人物像は、ルーサなのだろうと、僕はなぜか感じた。
「レダジオスグルムは私よりも年齢を重ねている、私自身では及ばないほどに強大な竜です。彼が望むことは神々の破滅と自身のあくなき欲望を満たすこと。すなわち次元宇宙を堕落させ、すべてを手に入れることです。彼はそれを、あたかも盤上のゲームのように、自分の手駒を用いて、自らは暗躍して進めることを好みます。けれど、ひとたび自分の筋書きが破壊されると怒り狂い、盤上を自ら荒らしまわる破壊者となる一面も持っています。今、レインカースの状況はまさに彼の筋書きが破壊され、レダジオスグルムが破壊者として盤上を荒らそうとしている状態です。ラルフ、ごめんなさい。私には直接彼を止めるほどの力はありません。ですが、おそらくサリアであればそれも可能だと思います。危険だから手を出すなと言っても、ラルフ、あなたは自分も狙われているなら同じだと、きっと聞かないでしょう。だから止めません。その代わり、必ずサリアの力を借りてください」
「分かったよ、ルーサ。僕も丸焼きにはされたくない」
僕が答えると、
「それでもルーサと呼んでくれるのですね」
シルファルサーラは穏やかに目を細めた。笑ったのだろうか。
「ありがとう、ラルフ」
「キミでもそんな顔をすることがあるんだねえ、シルファルサーラ。ちょっと驚きだよ。長生きはするもんだ。どんな英雄も子供のように扱ってきたキミが年端も行かない女の子みたいだよ?」
サリアが興味深そうな声を上げた。サリアは興味深そうにしばらくシルファルサーラの姿を眺めてから、全員に告げた。
「先に言われちゃったから何となくしまらないけど、レダジオスグルムをガーデンから撃退しないと、勝てるものも勝てない。今すぐっていうのはちょっと難しいけれど、ボクとラルフで協力して必ずレダジオスグルムをガーデンから放り出すから、それまではできるだけ派手な行動はさけておくれ。レダジオスグルムの興味を引いちゃうと、被害が拡大するからね。みんないい子にしていてね?」
サリアの言葉に皆頷いた。
「気を付けてくださいね。黒こげのコボルドの死体なんて見たくないから、師匠、無茶だけはしないでくださいね」
フェリアが、心配そうな顔をしていた。