第十章 泥の悪魔と火炎竜(2)
洞窟の揺れは散発的に何度か続いた。
僕とシーヌが何事かと天井を見上げていると、サリアは揺れを気にした様子もなく僕たちに告げた。
「レダジオスグルムが地上で暴れているね。捕えていたシーヌは奪われ、聖宮ごとゲートを破壊され、と、すこぶるコケにされた形だからねえ、まあ、荒れもするかな。たぶんあの調子じゃ明日まで続くね。あ、心配しなくていいよ。ボクがいる限りこの洞窟が崩れることはないから」
「それならいいんだけど。秘密の通路にレダジオスグルムの手下らしきモンスターが入り込んでいたから、洞窟は発見されていると思うんだ。それは平気かな?」
僕は聞いた。人口の通路で襲ってきた、正体不明のモンスターがいたことが気になっていた。
「ん。ああ、通路にボーグルがいたみたいね。あれは結界でもない限り、次元跳躍とかでどこにでも入り込んでくるからね。この秘密基地の一角は結界があるから安全だよ。ちょうどいいや、レダジオスグルムのことも教えてあげよう」
さすがに魔術の神の最有力候補といわれていた人物だけあって、サリアはとても博識だ。すらすらと僕には分からないモンスターの名前も出てきて、レダジオスグルムのこともよく知っているようだった。
「あれは灼熱の次元、リンデで生まれた火炎竜だ。たしか八〇〇才程度だったと思う。彼に挑んで殺された英雄も一〇〇は下らない。キミたちにとってはとても狂暴で危険な奴だ。ボクから見ればただの若造だけどね。知っているかな? キミが知っているボクとカーニムの話って、一五〇〇年前の話なんだよ、ラルフ」
「そうだね、カーニムと君の話は、昔々のおとぎ話として伝わっているくらいだしね」
僕も頷いた。サリアは悪魔になったことで幸か不幸か定命の宿命から外れたと、伝承でも伝わっている。それは神話の時代の話で、一〇〇〇年前とも二〇〇〇年前ともいわれているのは僕も知っていた。
「けれど、そうなるとレインカースにレダジオスグルムがいる限り僕たちに勝ち目がないように思えて来るな」
困り果てて僕は唸った。すると、サリアは伸びあがってきて、僕の頭を撫でてきた。こそばゆい感覚はあるけれど、泥をなすりつけられているような不快感はなかった。
「心配はおよしよ、ラルフ。今心配しても仕方がないし、なにより」
一旦言葉を切ると、僕の頭から手を離し、サリアはシーヌを見た。まるで何かを探るような態度で、サリアはシーヌを見上げていた。
「この子をこのまま行かせるわけにはいかないしね。褒めてあげるべきか、同情してあげるべきか、ボクにも困るけれど、この子がまだ正気を保っていることが、ボクにも信じられないくらいだよ」
「そんなにひどいの?」
シーヌが傷ついていることは、僕にもはっきりと分かる。けれど彼女の態度には目に見える危険な兆候はなかったし、僕は救出が間に合ったのだと思い込んでいた。
けれど、サリアはそうではないと言った。
「この子はキミに助けられた時にはもう限界を超えていたはずだよ。きっとその瞬間はこの子にはもう世界は見えていなかった。この子はもう絶望の中に転げ落ちていて、あとは心が壊れる瞬間を待つだけだったはずだよ。でもすごいよ、今はこうしてギリギリ絶望の淵から抜け出して、正気を保っている! これはとても驚くべきことだ!」
「やはり」
と、シーヌは頷いた。彼女自身確かに一度レデウには行けないと言っていた。気づいていたということなのか。
「こうしていても、いまだに救出されたということに、現実感がないのです。まるでこれはすべて私が求めているただの夢で、本当の自分はまだ囚われの身のままなのではないかと感じるくらいに、私の心の中で何かが嚙み合わないのです。サリア様、教えてください。聖宮は確かに崩れ落ちたのですよね?」
「ボクが保証しよう! キミがここにいるのは夢でもないし、ラルフは間違いなくキミを助け出してくれたよ。そしてキミの祝詞を受け取って、ボクが聖宮に滅びをもたらしたのも現実だよ。でも、キミのその感覚は正しい。キミの心はまだガリアスの手の内だ。今のままではキミの心はたやすく彼に引き裂かれるだろう。でもまだ思い出そうとしてはいけないよ。キミの心が死んでしまうかもしれないからね。でも大丈夫! 任せておくれよ! ボクがちゃんとキミの狂気を浄化してあげるから、心配しないでおくれ!」
両腕を広げてもやっぱり泥の塊なのだけれど、サリアの自信満々な態度が今は頼もしかった。泥の悪魔になって、どれだけ時間が流れても、彼女はきっと魔術の神の座に一番近いと謳われたサリア=レラ=サリアなのだ。
「ああ、でもごめんよ。心の傷はそんなにすぐには癒せないんだ。ある程度は時間が解決してくれるのを待つしかないものだから、結構な日数ここにとどまってもらうことになるよ。それとね、キミをきれいさっぱり治すには絶対必要なんだけれど、ボクではキミの心の奥底の、一番弱っている部分には触れられないんだ。ボクの言葉や心はそこまでは届かない。何故ってボクはキミにとってあらゆる意味で赤の他人に過ぎないからね」
サリアの態度はめまぐるしく変わる。ある瞬間は深刻そうで、ある瞬間はとても朗らかで。けれどサリアの声には力があった。
「でもご安心! キミはすごく運が良かったね! キミ自身たぶん気が付いているんだよね。それがキミを絶望の淵から引っ張り上げて、キミの正気をいまも繋ぎとめているって」
その言葉に。
「はい。その通りです。けれどだからこそ、私は、これがすべて夢ではないのかと思うと、とても怖い」
シーヌは不安げに頷いた。その顔を見上げていたサリアが、急に僕を見て言った。
「彼女の手を取って、これは夢じゃないと実感させてあげられるのはボクじゃない。彼女の心に差し込んだ光を消さないために、彼女のそばにいてあげられるのもボクじゃない。だからボクからもお願い。すぐにレデウに戻りたい気持ちはあるだろうけれど、キミにもここに残って、この子の支えになってあげてほしいんだ。どうかこの子のそばにいてあげておくれよ」
僕は即答できなかった。
ここに残るということは、と考えてみる。
まず、何の連絡もせずにここに残ったとしたら、フェリアやシエルを心配させてしまうことが最優先の問題だ。それは避けなければいけない。僕は彼女たちに大丈夫、必ず帰ると言って出てきたのだ。
次に、レデウ防衛に関して、狂戦士たちが攻めてきた場合、誰がフェリアやシエル、ムイムに指示を出すのかという問題がある。彼等は独断で防衛に参加してくれるだろうか。フェリアやシエルはたぶん大丈夫だろうけれど、果たして僕が不在の状況でムイムは協力するだろうか。考えても結論は出ない。唯一の解決方法は、何とかしてレデウに状況を知らせることしかない。
「何とかしてレデウに連絡がつかないかな。連絡なしに消息を絶つのは避けなければいけない」
「ああ、そうだね。全くその通り。キミはなんて頭がいいコボルドなんだ! キミの仲間に連絡が付けよう! 今すぐにだ!」
サリアは宝箱のそばへ移動して、ふたを開けた。それから、何か大きな置物をテーブルに持ってきた。それは象牙のような素材でできた男神像で、水晶球を肩に担いだデザインをしていた。サリアは伸びあがってテーブルの上にそれを置くと、ごにょごにょと何かを唱えた。
「ああ、日暮れ後だから寝ているのかな」
暗い、無人のテントの中が映る。見覚えがある。僕のテントだ。しばらく動くものは何も映らなかった。
日暮れ後でもシエルやムイムは眠らない。今のフェリアに睡眠が必要なのかもはっきりしなかった。
「おーい、だれかいないかーい」
サリアが水晶球に向かって声を掛けるけれど、反応はなかった。
「これは、どこですか?」
水晶球を覗き込んでいる僕たちに、一人映っている先が理解できないシーヌが疑問の言葉を発した。僕はそれに答えた。
「レデウで建設中の防衛砦にある、僕のテントの中だ」
それから、今度は僕がサリアに聞いた。
「でも、あまり繋いでいて、レダジオスグルムにここが見つかったりはしない?」
「大丈夫。ドラゴンに感知されるようなちゃちなものじゃないよ。安心して!」
サリアが答えた丁度その時。
テントに小さな影が入って来た。それは何かに気づいたように近づいてきた。淡い緑の髪と、真っ赤な目をした、黒い翼が見えた。
「やあ、フェリア。僕だ」
僕が声を掛けると、
「師匠! 師匠、無事なんですね!」
フェリアが大きな声を上げた。出発してから日数がたっているのだから、心配もするだろう。本当に悪いことをしてしまったと思う。
「うん、心配かけてごめん。そっちはどう?」
「今のところ敵襲はないです。すみません。皆呼んできます。少し時間をください」
フェリアは、そう言い放ち、こちらの答えも聞かずにテントを飛び出して行った。