第十章 泥の悪魔と火炎竜(1)
円盤に浮かんだ映像が消え、洞窟内に一旦静寂が訪れた。
それから、シーヌと僕が、声もやんだので小部屋から出ようと歩きだすと、円盤の前の地面が盛り上がり、泥の塊が浮き出てきた。
僕たちは足を止めて、泥の塊を振り返った。
スライム状のそれは大きく伸びあがる。体の左右に腕を生やして、そして、体の中央から少し上あたりがぱっくりと裂けた。その穴は口のようだった。口の上に泥の中からまん丸な目玉が浮き出してくると、べちゃべちゃと音を立ててそれは僕たちに近づいてきた。
「自由だ! お役目御免だ!」
腕を振りあげて、泥のスライムが大きく伸びをする。泥の体が縦に恐ろしく長くなって、伸びを終えると元に戻った。
「あれ、もう行っちゃうの? もうすこしゆっくりしておゆきよ。ってああ、ここ崩れる天井の下だったね。そりゃあ落ち着かないよね。この先の武器庫の奥にボクの秘密基地があるんだ。ねえ、招待するから休んでおゆきよ!」
泥の塊に言われて、やっと僕たちにも正体が分かった。
「あの、ひょっとして、サリア様、ですか?」
シーヌがおそるおそる声を掛けると、泥の塊はくりくりと目を回してシーヌを見上げ、
「ああ、ああ。ごめんね。ほんとごめんね。名乗るのが先だね。そうだねごめんね。うん、ボク、サリア。シャドー・スワンプマンっていう悪魔だよ。悪魔だけどみんなの友達だから怖がらないでほしいな。気軽にサリアちゃんって呼んでおくれよ!」
と、自称悪魔を名乗った。悪魔とは思えない朗らかさで、その泥の塊は僕たちをもう一度、彼女の秘密基地に誘ってきた。
「秘密基地来てよ。歓迎するよ。ねえねえ、来てよ」
僕とシーヌはその人懐こそうな態度にすっかり飲まれていて、断りにくい空気を感じていた。
「うん、お邪魔するよ」
僕が答えると、泥の塊は嬉しそうにぐにぐにと左右に揺れた。
「ひゃっほう! 初めてのお客さんだ! うれしいな! 決まりね! じゃあ行こう!」
それから彼女は僕たちの先頭に立って移動を始めた。先ほどシーヌがグレイブを手に入れた武器庫のドアを、泥の塊は器用に開けて入って行った。
「こっち、こっち」
僕たちが彼女に続くと、彼女は半ばがらくたと化している武器防具の間を抜けていく。それから、壁にかかった盾のひとつに向かって伸びあがった。
「よいしょっと」
盾が、ガコン、という音を立てて下にずれた。すると、壁の一部がスライドし、さらに奥の部屋が姿を現した。
「入って、入って」
と、サリアに促されて、僕たちもその隠し扉を抜ける。僕たちが部屋に入ると、サリアはスライドした壁の横にあるレバーに伸びあがって、壁を閉めた。
部屋の中はこざっぱりとしていて、テーブルが一つと、椅子が二つ向かい合わせに置かれていた。テーブルの上には魔術に関する何冊かの本が乗っていて、その横に古びたワンドが置かれている。部屋には奥に続く出口がもう一つあった。思ったより広い空間のようだった。
その他には、やはり魔術に関する書籍らしきものがたくさん収められた本棚と、かなり年季の入った宝箱、薬品や瓶詰の果実などが並んだ棚があった。
サリアは棚から瓶詰の果物をいくつか取ると、テーブルの上に並べた。泥の塊の体なのに、テーブルの上に置かれた瓶はまったく汚れていなかった。
「さあ、座って座って。良かったらお話ししよう。どうせしばらくは外に出ないほうがいいから、ゆっくりしておゆきよ」
確かにルーサもそんなことを言っていたし、僕たちはその言葉に甘えることにした。僕たちが椅子に座ると、サリアは満足げにまた自己紹介を始めた。
「ボクの秘密基地へようこそ。改めて自己紹介。ボクは泥の悪魔、サリア。ガーデン樹立以来、ニューティアンとの繁栄と滅びをもたらす契約に基づき聖宮を陰ながら見守って来た者だ。ここ何十年かの問題はボクも悲しかったけれど、ニューティアンたち自身の行いには関与しないことを約束していたから、ボクはただ見守って来た。二人にはボクからもありがとうを言いたいよ。ラルフには、雨を止めてくれてありがとう。シーヌには、腐敗した聖宮を洗い流す決断をしてくれてありがとう。やっと肩の荷が降りた気分だよ。肩はないけれど」
彼女の言葉に、ふと気づく。
泥の悪魔、サリア。以前読んだ神学の本のことを思い出した。
「……サリア=レラ=サリア……?」
「あらら。伝承知っているんだね。珍しい……ってコボルドだ。うわあ、すごい。コボルドが何でいるの? ボクの伝承、最近はコボルドにまで知られているの? ボクってそこまで有名人だったっけ?」
目まぐるしく目を回しながら、サリアが言う。サリア=レラ=サリア。その名はオールドガイアで神に仕える身であれば知らない者はいない。
魔術の神カーニムが、まだ定命の者で、それ以前の魔術の神の弟子に過ぎなかったころ、魔術の奥義を極めるべくカーニムと共に切磋琢磨していたという、姉弟子の名前だからだ。
彼女の名はカーニムの名を語る書物には必ず登場する。カーニムの召喚の術がまだ未熟だったころの話。術に失敗して自身の身と異界の精霊を合体させてしまいそうになった時、身を挺して身代わりとなり、泥の悪魔になってしまったという悲劇の伝承が残っている人物だ。そもそもであればカーニム以上に魔術の才に秀で、カーニム以上の高潔さをもっていたとされ、その事故が起こるまでは、次代の魔術の神の座に最も近いとされていたと伝わっている。けれど、それはあくまで神話の類で、実在の人物だとは僕も思ってはいなかった。
「非業の術師サリア=レラ=サリア。僕はカレヴォス神の聖騎士です」
「あはは、なるほど納得だね。でも、そんな堅苦しいのはやめようよ。ボクはただの泥の悪魔。ね?」
少しだけ声色を落ち着かせて。サリアは大仰な扱いは望んでいない様子をにじませた。確かに。サリアがそれを望んいるのであれば、それでいいのかもしれない。
「うん、分かった。でも特定の次元にいるなんて思わなかったな。驚いたよ」
僕がそう言うと、サリアはまた笑い声をあげた。それから彼女は、この地には思い入れがあるから、と言った。
「ここね、もともとはケーちゃんの庭なんだ。キミなら名前を知ってるよね、豊穣の女神ケセレンシル。ああ、豊穣の母って呼んでいるひともいるみたいだけど、本人そんな年じゃないって気にしているから、できればそっちでは呼ばないであげておくれよ。あの子とっても気にしいなんだ」
豊穣の女神ケセレンシル。レウダール王国にはあまり神殿はなかったというけれど、南の隣国、エルサーンでは人気がある女神だ。農業と牧場の女神とされていて、南風と慈雨をもたらし、芽吹きと出産を司るといわれている。そのため、確かに豊穣の母という呼び名も一般的だ。
「そうなのか。その割になんというか……あんまりこう……」
僕は口ごもった。レインカースからは豊穣の地、という印象が感じられない。
「そりゃあ、五〇年も雨が降り続けば環境も狂うよ。だいいちあの子もニューティアンが国を作ったあたりで見守ることに徹しちゃったし、その辺はガーデンの民に委ねられている感じだよ」
サリアが語る。彼女はケセレンシルがこの地を去ったあとを引き継ぐ形で、ニューティアンたちを影から守り続けていたということらしい。
「でも実は、もうレインカースは崩壊間近だし、万が一の時はニューティアンたちをどうやって助けたらいいのか、ボクもちょっと悩んでいたところだったんだ。だから、ボクもキミに感謝しているよ。あー、何て呼んだらいい? ラルフ? ポグ・ホグ? レイダーク?」
「ポグ・ホグ?」
それまで僕たちの話に静かに耳を傾けていたシーヌがつぶやきを漏らした。確かに、彼女にはラルフ・P・H・レイダークとしか名乗っていない。
「僕の生来の名前だよ。ラルフは人間社会での名前で、ポグ・ホグは、コボルドとしての名前だ」
僕が答えると。
シーヌはもう一度、
「ポグ・ホグ」
とつぶやいた。何か彼女にとってすごく意味がある言葉のように。
「僕のことは、ラルフで呼んでほしい。ところで」
僕がサリアにレダジオスグルムや狂戦士たちのことを聞こうとしたとき。
ミシミシと音を立てて、洞窟が揺れた。