和真の過去
絶好のピクニック日和だ。
快晴も快晴。雲ひとつないかのような澄んだ青い空。
温かさが入り込んで麗らかな風が肌を撫でる。
それでも樫沢には身体に毒だろうということで、簡易のテントも用意した。
納戸をごそごそと探した結果、あったのだ。なければ経費から通販でもしようかと考えていたが、三神から「納戸でも探せば、あるかもよ?」ということだったが、本当にあった。
使う機会があったのか、というほどに新品のようだった。
目まぐるしく過ごしていくうちに、皆の意見を聞いて決めたピクニックの日になっていた。
大きな屋敷の掃除は、小さなアパート暮らしの長い沙耶には慣れない大仕事だったし、料理もバラエティー豊かに且つ人数分を用意するのも中々骨が折れる。
一番のくせ者は、メニューを決めることだ。
だが、自分の作ったものを美味しいと誰かが食べてくれるのは、意外なほどに嬉しいことだった。
侑真ですら、美味しいと言うのに、三神だけは絶対に言わない。
言わないのではないのだろう。
思ってもいないのだろうから。
沙耶は、ハァとため息を零し、ピクニックに持って行くお弁当を準備して、簡易テントやレジャーシートなど様々な道具などは三神と豊田にお願いしておいた。
「お姉ちゃん。」
ひょこっと顔を出した和真が、沙耶に声を掛けてきた。
「なぁに?」
「……ううん。なんでもない…。」
「…?」
不安そうな表情を残して、パタパタと去っていく。
その方向をずっと見つめていると。
「君、手動いてないけど、何見てる訳?」
「え?」
振り返ると、三神が立っていた。
不機嫌そうに沙耶を見ている。
そんなにピクニックが嫌だったのだろうか。
善は急げと、皆に催促したのはいいが、和真といいあまり喜んでいる様子が見えなくて落ち着かなくなる。
ひとしきり悩み、沙耶は思い切って口にしてみることにした。
「和真君、もしかして、あまりピクニックに行きたくなくなったのかな。」
すると三神は、小さく溜息をこぼして沙耶から目を逸らした。
その様子が、何かを考えているようだったから、沙耶は三神の様子の変化を見逃さないように注力する。
思い沈黙が降りて数分、三神はぼそっと独り言のように呟いた。
「……和真は、小学校の遠足でクラスの子から怪我をさせられたんだ。」
「…え?」
「軽い登山みたいなことしててさ、したらクラスの子の一人がふざけて和真の背を押したんだ。そいつ、いつも和真のこと苛めてたみたいで。「ふざけて」っていうのとはちょっと違う。運よく木に引っかかって、引率の先生に引き上げられたけど、和真は当然怪我をしていた。相手の子は、地元の名士の子って事で、何やっても言い逃れして、悪いのは和真ってことになったんだよ。勝手に一人で落ちたのに、他人に罪をなすりつけようとするずるい子って。違うって証明するものなんて自然の中にあるわけないしな。それでも…美和子さんは戦おうとしたけど、この民宿を潰されそうになって、和真が止めた。それからだ。あまり自然の多いところや、ピクニックやら、レジャー系のことは絶対にやりたがらなくなった。だから、…和真がピクニックに行きたいって言い出したんだよな?俺は正直、驚いたんだ。」
沙耶の意志に関係なく、手が震える。
激しい怒りを抑えようと無理矢理おしくるめていると、次第に身体全体震えてくる。
「…許せない。」
きっと、和真にとっては大きな一歩なのだ。
だから、皆に告げてピクニック行きがいよいよ決定してくると不安が強くなっていたのだ。
そして今日は…。
「ハァ…泣くなよ。君が泣いてどうするんだよ。」
「泣いてません!怒ってるんです!」
実際は泣いてるのだが、沙耶には泣いている実感がなかった。
ただただ激しい怒りが、自分を蝕んで沸き立つ血が頭に昇るような感覚に憑りつかれていた。
「怒って泣くのかよ。ったく。……良いから、泣くなよ。」
三神が躊躇いがちに沙耶の頭をポンポンと撫でた。
急な接触と、意外なほど優しい手つきに沙耶を蝕んでいた怒りが急速に凪いで、いつしか静かな悲しみに変わっていた。
そこでようやく自分が泣いていることに気づく。
キッチンペーパーで無造作に涙を拭い、鼻を思いっきりかんだ。
キッチンペーパー…高いのにと頭に過ったが、信仰進路を阻むものがない涙と鼻水を止めるにはやむを得ない。
「すみません。感情がどうにもうまいことまとまらなくて。」
「……いいよ。別に。」
驚くほど優しい声音に、沙耶はドキッとしながらも話をつづけた。
「それって、いつのことだったんですか?」
「そうだな。一年位前かな。」
そのころから、三神はずっとここにいて美和子さんのそばにいたんだろう。
そして、和真は一年前にお母さんをこれ以上苦しめたくなくて、辛い気持ちを抑えて自分が悪いんだと背負い込んだ。
あの小さな身体で、会ったときから天真爛漫で温かな笑顔だったから、そんな苦しみを背負ってることになんか気づかなかった。
いや、気づかなくて当たり前なのだ。知らなくて当然なのだ。
これから知って、自分ができることをやっていく。
沙耶は気持ちを新たに、今日のピクニックを楽しい思い出で埋め尽くしたいと思った。
「・・・・・・相手は、この地元の名士だ。田舎の繋がりってのは、君が知っているか分からないが、名士の意見が絶対で、息がかかっている者は支配されている。…どこで何が起きても、…君のせいではないから。あまり気負わないでいいから。そこは…和真のことを良く知ってる俺の役目だし。」
沙耶は、何も言わなかったが田舎の世界で渦巻く、光と闇に関してなら良く分かっていた。
何せ、沙耶の故郷もここ花平方より、ほんの少し開拓された、田舎の小さな町。
平穏で性に合うならこの上ない極楽浄土も、人間関係を拗らせてしまえば、浄土は一変、穢土と化す。
村八分なんて言葉は、そこには存在しない。当たり前の罰だと認識されているのだ。
沙耶にとって、故郷はあってないようなもの。
けれど、それを口にする気にはなれなかった。
三神は、この町の誰かと出くわしたとき、何があっても、何を言われても、それによって和真が傷ついても、それは沙耶のせいではないのだと、先に念を押してくれた。
それは和真が前に進みたいと思ったことを後押しするための一歩だからこそ、何も知らずに軽く請け負った沙耶が「事が起きてから」事情を知るようなことになって責任をすべて一人で背負うことのないようにという心遣いでもあるのだろう。
何も起きなければ良い。
でも、起きたら起きたで、何かできることをしたい。
沙耶は、静かに心を決めた。
「…ありがとう。でも、出逢って昨日今日の浅い私だけど、和真君のこと好きだし、見守る役目を引き受けてここに来たんだから。私も、私にできることをしていきたい。もし、私が知らないところで何かが起きたら、必ず私にも教えて。」
三神は、深く溜息を吐いて、沙耶の目をじっと見据えた。
沙耶はそこに和真への想いを宿らせていることに気づいた。
信じていいものなのか、分かりかねている。そんな色がそこにあった。
沙耶は静かに、その目を見返した。
自分の瞳に何が映っているのか、相手はそれをどう受け取るのか、どれもこれも分からないことばかりだが、信じなくていいから私を輪の中に入れてほしい、その一心で見つめた。
ふと、三神の瞳に何か掴みきれない色が宿る。
このまま見つめてしまえば、逃げることができないような不安。
そのままずっと見つめていれば、得体のしれない不安を拭い去れるような期待。
まだ何も知らない相手なのに感じる、懐かしさ。
それなのに、今まで会った誰よりも遠いような、切なさ。
相反するような想いが胸に攻寄る。
けれど、三神がその目を逸らしたことによって、二人の間に流れ込みそうになった不思議な空気はどこかへ霧散した。
「…分かった。君も、何かあったら必ず俺に言えよ。」
「分かってる。」
沙耶の返事を聞き届けた三神は、そのまま沙耶を見ることはせず背を向けて去って行った。
彼がいなくなったと同時に、沙耶の胸に広がったのは、甘くて切ない渦。
心臓が高鳴っているのは、さっき聞いた和真の過去のせいだ。
沙耶は必死になって、自分の胸を占めようとしているものの正体から目を逸らした。