orange/organe
僕は、代々木辺りで殺しの依頼を承っているオレンジのことをよく知っている。不思議に不思議を塗り重ねているようなとても興味深い存在であることは十中十で間違いない。その不思議を追求、追究するのはハテナの名を持つ者としては当然である。僕はハテナというギアを持っているが、ここまでギアを変えていないのは最長記録で、ただいま数ヶ月が経過している。前まで、定期的にしがないバーテンダーの下山君という生活費を稼ぐためのギアを保持していたけれど、諸般の事情により破損してしまった(諸般の事情とは如何に便利な言葉なのだろうか!)
生活費がない。
これは、一日中、どこかの通りを歩きながら『断層』に埋れている僕にとって、非常に由々しき問題であった。
金がない。
死ぬ。
ここでやっと、働くという結論に達したわけだけれど、僕だってただ『断層』に埋れるためだけにハテナというギアを保持しているわけではない。ハテナというのは、コードネームでもある(しかし僕の存在意義は、この世の気になる疑問を解消することにある、したがって、疑問を解決できないときが死の瞬間、ギアが切り替わる頃合である)。
殺し屋として――の。
汚名を着せられる名前、それがハテナだったりしてしまうことは、遂にあの女の子に告白することはなかったが、しかしそれで良かったのだ、ベストな判断だったと確信している。何故なら、エブリデイデッドオアアライブな血なまぐさい環境に女の子を放り込むなんて真似は決してできないからだ(正確には、できるけれど女の子の死ぬ姿は見たくないというわがままな良心)。
「客観的に必要なのは、位置じゃなくて高さだ。鳥になって、自分の座標を確認してこそ、客観的な視点が創造される」
突然、客観的な意見に必要な要素はなんなのだろうという不思議が頭に侵入してきたが、僕はそれを『生活費の不足という命に関わる問題』という最も優先すべき主題をもって跳ね除ける。
余談だが、これを僕は『ジャミング』と術語化している。成功率は五パーセント、けれど、オレンジの存在のおかげで九十パーセントに上昇している。
僕は述語化する。単語に新たな意味を見出し、それを僕だけが理解できる、僕だけの世界の標準語として登録する。そうすると、世界のもどかしく、煩わしく、複雑な糸が絡み合っているように思える部分が一つの単語に格納されて、簡潔で簡素で簡単な一つの単語で表現できるようになる。
例えば、複雑な気持ちという表現があるけれど、これは自分の感情さえ理解できないほど様々な感情が絡み合ってしまったときの表現だ(糸、ではなくて絵の具のようなものだろうか)。しかし僕はそのような気持ちを持つほどメモリの容量が乏しくはないので、詳しくは複雑な気持ちと表現して自己観察を放棄する人たちに聞くしかないのだろう(あくまでギアの一つのハテナ君の見解ということで、責任はない)。
閑話休題。
閑話休題?
どれが本題だったか――そうだ、ハテナは実は殺しを行うために生み出されたギアでもある(強調するが、それよりも疑問を解消することのほうが遥かに大きな意義を持つ)、ということだ。数ヶ月、喜ばしいことに殺しからは遠ざかってきたが、その理由は簡単なもので、依頼がないということに限る。つい、数ヶ月前までは、依頼を選り好み(好きでやっているわけではないが)するほど多忙な日々だったというのに、いまや、選り好みはおろかそもそも依頼が一件もやってこない。
そこで、なぜ依頼が舞い込んでこないのか(しかし実際、殺しの依頼は舞い込むものではなく周到に準備されて持ち込まれるものだ)という理由を語るために、オレンジという殺し屋の話を語らなくてはならない。
必然。
そう、殺し屋という、虚構の内部でしか語られることのないような、そうでなくとも現代社会が抱える闇の最奥部に位置する宝箱のように――人々を魅了させる存在は、オレンジなしでは語られない。殺し屋の歴史があるとして、それが数百年だったとして、それを一年の年表で表すならば(生命の歴史を一年で表せば人類が大晦日の夕方に現れるだの何だの、その真偽は分からないがまあそういうやつだ)、オレンジは大晦日の夜十一時五十九分五十九秒に突如として出現した。そして、今、一年の残りの一秒――時計の短針が一秒を刻むまでの間に、オレンジは生前の十一ヶ月あまりの歴史を全て捻り潰し、ないがしろにしたといっても過言ではない(歴史を轢死、これはうまい! と思ったのは光が地球を七周半するまでにかかる時間とほぼ同じだった)。
じゃあ、具体的に何をしたというのか。
何をすれば、歴史を轢殺できるというのだろうか。
そもそも、殺し屋、というのはなんだろうか、という面倒な疑問に最終的にはどうやっても帰着してしまうのだが――それをあえて省いてしまうと、説明はとても簡単になる。
人を殺した。
殺し屋として当たり前だ。
しかし。
数にして、三千六百五十。
三千六百五十から連想できるのは、勿論、一年の日数の十倍だという点である。
つまり、オレンジは、一日に十人、必ず人を殺しているのだ――一日に十人より多く人を殺すなんて事は絶対にしないし、逆に一日に十人未満しか殺さないなんて事は絶対にしない。
必ず十人。
でも、現実味がないわ! というのが一般の、平和に入り浸っている方々のご意見であり、それは正論だし妥当だし、何より殺し屋の存在さえよく分からないのに首を縦には頷き難いだろう。だからこそ、一般の(現代社会の裏においての一般、という意味だ)殺し屋はどんな生活を送って、なぜ、どうやって、いつ、どこで、人を殺し生きているのかという根本的な疑問に帰着してしまうのだ。
しかしその説明は前述の通り省かせてもらう(話せば自分の一生が終わりかねないほど時間が掛かってしまう)。
オレンジの特異、つまり歴史を轢殺してしまうほどのインパクトは、オレンジの存在全てに含まれていた。
オレンジは、人を殺すとき、必ずその人の身体のパーツのどこかを切断して奪い、自分の住処にある冷凍庫に保管するというアフリカの動物もたまげて絶滅するような習性をもっている。
簡単に説明すると、こんな殺し方だ。
その場に居た目撃者たちは、もともとのターゲットと合計して十人以下なら全員を殺す。合計した値が十を越えてしまっていた場合、適当に十人まで殺し、その他はストックとして誘拐、次の日になったら殺す。
狂っている、以外には表現のしようがない。言語として表現すると、そのリアルがいまいち理解できないと思うが、その悲惨で凄惨で残酷で、血まみれで鉄の臭いが鼻から侵入して生ぬるいべっとりとした鈍い血が視界を狂気へと誘うような、そんな現場を見てしまえば、彼女が手を下さずとも発狂して心臓発作を起こし死んでしまうレベルだ。
こういう逸話が残されている。
オレンジに対して、ある組織のトップが三百人の同業者――つまりオレンジのことを不愉快極まりないと思っている殺し屋に対して、オレンジを殺すように命じ、彼女の元に仕向けた。そしてそれからちょうど一ヵ月後、そのトップはオレンジに惨殺された。心臓を持っていかれていた。
どうやって、どこに監禁したのかは、僕の知るところではない。問題とすべきは、曲がりなりにも殺し屋を生業として生きている三百人を、なぜ条件付きで、自らを縛り付けて容易く成功してしまうのか、ということだ(殺し屋の中では『恥ずべき三十日』と呼ばれている、らしい。馬鹿らしい)。それを知る者は、当たり前だだが存在しない。嘘みたいな話だ、と僕は吐き捨てる。その後、僕は疑問符を解消するために生きているんじゃないか、何が嘘みたいだ、そんなこと口にしてはいけない、と戒めた。
誰も現場を見ない。
勿論、現場を見たものは死ぬから。
しかし、このような噂は広まる。
それは何故か。
そこで関わってくるのが、奇怪な事件に食らいついては二時間の特番を放送し、その特番の最後はきまって「いまだに犯人の行方は分かっていない」だの「全力で調査を続けている」だの、つまりは「犯人は分かりませんテヘッ☆」という旨を暗示することにより、CMのせいで執拗に、意図的に引き伸ばされた薄っぺらい内容を、結末見たさに我慢してきた視聴者諸君の怒りの沸点を容易に突破する(完全に私情込み)――つまりはメディアである。新聞、テレビ、ラジオ、あらゆるメディアで連日報道され、多くの推論が飛び交い、大陸がカオスの淵に突き落とされたかのように報道する(史上類を見ない事件と評されているのは事実。実際、一日十人という数字は衝撃的らしい。僕にはそうは思えないが)。
身体の一部分が必ず切断されている、という死体の特徴と、死体の数だけで、マスコミの方々は勝手に猟奇的な、精神に障害をもって殺人鬼という設定をでっちあげ、更にはエスパーがどうたらこうたらだの、どこぞの国から次々と超能力者が緊急来日する(どうしていつも緊急で来日するのだろう、こいつらは)。中学校の社会のテストに時事問題の問題が設定されているとすれば、確実にこの設問になるだろう、と思われるほどの話題にまで上り詰めていった(平和な証拠)。
つまり、マスコミはオレンジの正体を知っているわけではないのだ。
閑話休題。
僕はよく、何かを考えるとき、その何かを構成する要素のどれか一つに執着してしまい、脱線してしまう。今回も他聞に漏れずそうだ――僕はコートの右ポケットからメモ帳を取り出し、次のように要点をまとめた。
・コードネームはオレンジ。
・殺し屋。
これだけあれば、もう十分だ。
僕は、代々木辺りで殺しの依頼を承っているオレンジのことをよく知っている。僕はオレンジに一度だけあったことがある。だから名前の由来も分かるし、彼女の性格はおおかた、理解はしているつもりだ(そもそも理解は推論でしかないのだ、と思いかけて自分が面倒くさい野郎だと評される所以を再確認させられる)。しかし、初対面の出来事はよく覚えていないし、思い出したくも無い(記憶に鍵が掛けられるなら厳重に保管してやりたい)。必要なとき以外に、懐古に浸る必要はないのだ。
僕は歩く。
オレンジに会える/逢える/遇える/遭えるのは、そう遠くない予感がした。
そして、僕がその意義を失うのも、そう遠くない。
きれいな空ですね、と老婆が僕に問いかけた。僕は、どこが綺麗なんですか、と問いかけた。老婆は哀れなストリート・チルドレンを見るかのような目つきで睨んだあと、去っていった。青い空は西洋人の瞳しか連想できないね、と空に吐き捨てると、空はそれを吸い込んだが吐きださなかった。無風で雲の動かぬ、まるでこの空は死んでいるように思えた。
そうそう。
僕はハテナ。
君を助ける。這い上がれ。
解消できない疑問は死に直結する。特急電車。その電車の中で、僕はひたすら思索に耽っている。
今のオレンジは学生の服装をしている(では他の服装は、他の役割は、存在は、と問われると、そんなことを聞いてどうすると答えるしかない)。
近いうちにあえる、という予感は決して外れていなかった。幸運だ。しか彼女の存在自体が不運なのでどうという幸運ではなかった。
「お久しぶりです、ハテナさん」
「ロングタイムノーシー」
「発音が下手糞ですね」
「日本人だからね」
「――あ、そういえば、わたしまだ、今日は九人なんですよね」と、脈絡も文脈も殺して、唐突に彼女は言った。
痛い。
僕の発言が痛いんじゃなくて、彼女から漏れ出る雰囲気が、痛い。
悪寒が僕のつま先から脳天までをナイフでなぞって、地獄から手招きをしている。心なしか、自分の血流が止まっているのではないだろうかという訳の分からない不安に狩られる。
狩りとられる。
大通りで出会ったのは幸運だ。人だかりが多い方が自分の身は安全に決まっている(自己犠牲という言葉は勿論僕の辞書には載ってない)。まさか、こんなにうまく遭遇できるとはと、出会いがしらに握手を求めてしまいそうになったほどだ。しかし握手をしようものならその手は体と離れ離れになってしまうのが予見できたので我慢した。
「オレンジ、君は相変わらず悪趣味だ」
「人の趣味を否定する野郎はゴミです」
「じゃあ僕はゴミだ」
「シュレッダー行きですね」
左肩から下げているスクールバッグの中身が何なのか、ということについて考察する。例えば、教科書が入っているとしよう。すると、バッグは自然と角ばった形状となる。つまり、内側に入っているものによって、バッグの形状も変化する。
この場合――中腹あたりが球状になり、彼女が動くごとにゴトゴト、と何かがバッグの壁にぶつかる音がしている場合――藍色のバッグに僅かに黒ずんだ色が染み込んでいる場合――いったい、何が入っていると予測できるのだろうか。
バッグの中を思い浮かべると、どうしても、スプラッター映画のワンシーンしか思い浮かばない。
「頭部が一」とオレンジが言う。
「手首が二」とオレンジが言う。
「足首が二」とオレンジが言う。
「心臓が四」とオレンジが言う。
オレンジは、バッグを手に持ち、わざとらしく(断言しよう。わざと)バッグを揺らして見せた。ゴトゴト、という音に続いて、黒い染みが、じわり、と藍色のバッグを侵食する。
一応、僕も殺し屋を名乗っている以上、こういうグロテスクなものには耐性がある。死体なんて、それこそ、もはや何の感情も及ぼさなくなるほどの数を見てきた。
耐性がないのは、死体ではなく、目の前で微笑む可憐な女子学生だ。死体よりもおぞましい。
この。
「これで九ですよね」
この、この――まるで語尾に星マークや音符マークでもついていそうな語調、モナリザよりよっぽど含みのある微笑。それは女の子がしてはいい表情ではない。してはいい態度ではない。していいことではない。存在していいはずがない。
異端。
誰もが、殺し屋に精通している者は全て、日本という島国に生れ落ちた一つの恐怖のことをそう評した。異端の集団の中において、彼女が存在するならば他の異端は平凡へと成り下がり、一般人はシュレッダーへの旅行を組み込まれたゴミに成り下がる。
「ああ、あなたで十」
「冗談はよしてくれ」
「そうでした。そうでした。確か、あなたは数ヶ月前、初対面のとき、殺さないといいましたっけ――けど当然、約束というものは破るためにありますし」
「規則がないと、つまらない」
「まあ、そうですね。わたしだって、自分を規則で縛り付けるほどのマゾヒストですし、その緊縛の下にいることによって普通の人たちと同様に安心感を覚えてしまうんです。わたしも普通の人間だったなら――普通に笑い、泣き、その他モロモロの感情を普通に感じ取ることができたのなら、この緊縛の下で、わたし死んでもいいわ世界って素晴らしいわわたし中心に回転してるんですもの地軸なんてないのよわたしを中心として夜空は回転してるのよあの北極星生意気ね超新星爆発でも起こしてなさい、とかうっすらとでも感じ取れるのでしょうね。馬鹿なんかじゃなくて、それって、とても素晴らしいこと。けれど、わたしは馬鹿だから、普通の人たちにあるはずの規則を破ってしまったから――新たな規則で縛るしかない。わたしがこんな仕事をしている理由を、あなたには話したことがありませんが、というより誰にも話したことがありませんが――分かりますか?」
「台詞が長いよ、君……まあ、気まぐれとかだろうね」
「それは六割。残りは?」
「気まぐれ」
「うん、約束は守ってあげましょう」
「あてずっぽうの力で僕の命は守られました。アーメン」
相も変わらず、語尾に星か音符でもついていそうな、甘ったるい声と、狂気がへばりついた大きな瞳。
「まあ、僕は自称哲学者兼不思議探検隊兼殺し屋だから分かって当然かな」
「虚勢ですね」
「こらこら。女の子がそんな汚い言葉を吐かないほうがいいよ、こんな大通りで」
「え?」
「え?」
ああ――キョセイって、虚勢か。
確かに、精一杯の虚勢だが、僕が発言したうち、哲学者と不思議探検隊、および殺し屋は無職のようなものなので、あまり自慢できたものではない。
「殺し屋? あなた、まだ殺し屋を営んでいるのですか? この辺りの殺し屋は、みんな揃って廃業したものだと思っていましたけど、まだ細々と続けていらっしゃるなんて、健気で微笑ましいです」
「あいにく、君のおかげで依頼は0、だよ」
オレンジは、彼女自身も言っている通り、自らにさまざまな縛りを――規則を加えて生きている。社会の規則からは外れてしまっているが、それは別に理性がないからではない。
彼女が包含する嘘を、ハテナを解消するんだ、とハテナに命令を下す。フル回転しろ、生きろ、考えろ――燃料がつきるまで、そのギアが外れるまで――僕は常に神経を尖らせる。
「そういやー……規則は破るためにあるんじゃないのかい? やっぱり約束を破りますぐへへ死ねこのやろうみたいな感じで殺したりするんだろう?」
「あんなのは詭弁ですよ、虚言、妄言、嘘っぱち。規則を破るなんてまね、もう二度としたくないですから」
もう二度としたくない――これが、社会の規則を破り、人間の条件を無視し、あてもなく気まぐれに人を殺し続ける者の口から、とても嬉しそうに発される言葉だ。彼女の言葉を借りれば、それも詭弁、虚言、妄言、嘘っぱちなのかもしれないが、不思議と嘘を言っているようには感じられなかった。
「オレンジ、君、何で法律があるのか知ってる?」
「馬鹿がいるから、でしょう?」
「本当にそう思う?」
「疑問に疑問で返すな、て教わりませんでしたかね……。そうですね、法律がなければ何をやってもいいというかわいそうな考え方をもった人たちのためにあることは確かでしょうが、そのほかにも――」
「そのほかにも?」
「――法律など、規則がなければ面白くないんですよね。あらゆる競技にルールが存在するように、人間の能力には限界があるように……つまり、縛りがないと、つまらないじゃないですか」
その通りだ、と冷や汗を噴出している自分の身体をなだめ、落ち着かせるように僕は言う。殺し屋とも渡り合い、修羅場という修羅場を潜り抜けてきたはずの僕の心臓の鼓動が高鳴り荒ぶる。痛いくらいに。
「君はけど、能力の限界を明らかに超えているね」
「そうですね」
「魔法でも使ったのかい?」
「魔法でも使ったのではないでしょうか」
「切断した身体のパーツは、さしずめ生贄、というところだろうね」
「♪」
彼女は浮かべてはいけない笑み表出させる。
限界だった。僕が作家ならば、恥も外聞も何もかも捨てて、彼女に音符か星をつけてしまうだろう。そうでもしないと、この異常な雰囲気を表現することできないので、お許し願いたいところである。
僕の言ったことは、たぶん、六割ほど合っているのだろう(直感であって、確率を事細かに計算して出した予測ではないし期待値ならなおさらだ)。
全く、僕には理解できないことだ。魔法とか、おまじないの生贄に、人の身体のパーツを使うなんて推論が自分の頭に湧いたことも驚きだが、それよりもそれを実行に移してしまう彼女の狂気には驚嘆せざるをえない。
彼女の瞳を直視する。澄んだ水の底に沈殿した泥が舞うように、段々と眼が澱んでゆく。元の眼の色は、ほんの数秒でその澱みに塗り潰されてしまう。もう、それは人の眼と表現できるようなそれではない。
獣、化け物、怪物という類の生き物に、僕は今まで出遭ったことはないが、彼女の瞳をそれらに例える以外に僕はその瞳を言葉に閉じ込める術をしらない。言葉で表現できるものはまだ現実的なのだが、その中でも怪物、獣、化け物といった抽象的な名詞に閉じ込めると、拭いきれない不安と悪寒が滲み出てくる。
言葉で無理やり表すと、
「☆○×ぴゃ●X??//<<>>_}‘+!!!!!!!」
「ファミコンの電子音のまね、ですか?」
「>+{P‘>‘>{‘‘+○○v!!!! ―――イタッ、舌が>*‘>{>‘●☆!!」
「火星語? タコさんですか? 八本の足の触手プレイ? ねっとりと肢体に絡みつく腕、それは胸元から服の中に侵入して、きゃっきゃうふふ?」
火星語がどんな言葉なのかは知らないが、オレンジは自分の聞き取れない言葉を火星語だと表現するのを知って、なんだ少しは子供らしい部分もあるじゃないか、とほほえましい気持ちになる。顔は緩まないが心は緩んでしまう、なんだ可愛いじゃん、と。
オレンジは溜息を吐いて、目にも留まらぬ速度で(比喩ではない)ナイフを畳みポケットに仕舞いこんだ。油断したのではなく、誰にも見つからない死角がなくなったことを察知したのだろう。まさしく化け物だ。
そうそう。
そういえば、だ。いや、こんな状況で転換の接続詞を使うのはどうだろうかという指摘があるかもしれないが、現実逃避ということで納得してもらいたい。ギアがある都合上、ハテナというギアの一つなんて死んでも他のギアに移り変わるだけだからいいんじゃね、というムードが脳内会議で噴出している。バーカからだが死んだらお前らも死ぬんだよアホと、僕は脳内会議で、デスクを瓦割りの要領で叩き割りながら叫ぶ。すると、脳内で何十人ものギアが叫びはじめる。バカヤロー転換の接続詞なんか使う前にオレンジを殺してしまえ、いやハテナなんかじゃ殺せないからとりあえず土下座しながら待っとけ、俺がいく、いやわたしが、いや僕が、どーぞどーぞどーぞ――僕から見れば、こんな事態で転換の接続詞を用いるよりも、ダチョウ倶楽部のネタを披露するほうがどうかしていると思う。
そういえば、だ(脳内会議は休廷)。
オレンジの容姿について言及しておこう。
身長は百五十センチ程度で、平均的な学生と比べると、少し小柄だ。中学生といっても顔立ちはそれよりも更に幼いもので、まだ色気とか、妖艶というような単語とは無縁のあどけなさを醸しだしている。髪の色は漫画のようにオレンジ色をしているわけでもなく黒髪で、腰の辺りまで直線的に伸びているせいか、『貞子』を想起させる。服装は、よくあるような学校の制服で、藍色のブレザーのサイズが大きすぎるのか、袖が手をすっぽりと隠してしまっている。それをパタパタとさせる動作が幼く可愛らしいものだが、これによって、人間は外見じゃなくて中身だと、いつか誰かが言っていた言葉が非常にありがたく感じる。胸元には赤いリボンが付けられていて、外見と内面の違いを一層引き立てていた。
「人の身体をじろじろ見て……変ですよ、ハテナさん」
「君に変といわれると新鮮だね」
「セーヨクってやつですか?」
「僕はプラトニックな哲学者だからね」
「哲学者はみんな同性愛者ですよね?」
「いつの時代の話だい、それ。しかも偏見だよ、昔でもそうとは限らない」
などと下らない時間を過ごしているうちに、対応策を練ろうとしたのだが、何かを練るには対象がなければいけない。対応策のための対象――アイデアがまったく思いつかないので練りたくても練れなかった。粘土がないのに「今回の図工では粘土で創作します」と言われるのと同義。粘土は創造できない、つまり不可能だ。
「――で、僕を半殺しにしたり、あれやこれやしたり、君とにゃんにゃんするという今後の予定はどう変更したんだい?」
「どう変更したって……ハテナさんが十分に変更しましたけど」
「僕を殺すのはカロリーの無駄だからやめておこう」
「カロリーを消費するのは無駄じゃないと思います」
「これ以上やせたら一反木綿になりそうだね?」
「む」
む?
女の子って、こういった身体または容姿に関する話題に敏感だと思い込んでいたけれど、それは普通の女の子にしか適用されないものなのではないだろうか。例えば、容姿を全く気にしないような女の子だっているはずだ(前述の、人間は外見より内面だ、という信念があったり)。しかし、それはオレンジのような人外にも当てはまるらしく――頬を膨らませ、地団駄を踏んでいる。リズムにのって、バッグの中身が揺れ動く。黒ずんでゆく。
しかし、言われてみれば確かにそうだと思ったのか(失礼)頬をしぼませ、ぷいっ、という擬音を口で発しながらそっぽを向いた。ところで、ぷいっ、という音はどこから来ているのだろう。
「嘘嘘、一反木綿はジョークだよ」
「失礼なジョークですね」
「ジョークってのは失礼なものだ」
「対偶は真ですから、真実は礼儀正しいのですね。いい世のなかだぁ、わぁわぁやいのやいの」
デジャブ。
ああ、そういえば、あの女の子も、対偶の話をしていた。しかしどうして、数学と社会を混同するのか謎である。しかも学生で普通に履修するレベルの。数学のように美しくも無いくせに、数学のように整理されていないくせに、数学的な要素を用いるのはあまり賢い行為とは言えないと思う(しかし経済は数学で動いているという話を聞くし、一概には断言できない)。
チューニビョー、ってやつか。
いやけどそうしたら僕なんかチューニビョーもいいtとこだろう。
「社会と数学は別だ」
「数学には矛盾がないですよね、美しいですし。それに比べて社会はもう、ハテナさんの部屋くらい汚い」
「僕の部屋が近所でも評判のゴミ屋敷ということをなぜ知っているのかはここでは聞かないでおこうかな……。で、君は、世の中が機械で構成されればいいとでも思ってるのかい?」
「そちらのほうが、美しいといっているだけに過ぎません」
「汚いものは嫌いなのかい」
「自己嫌悪と自己救済と自己弁護と自己糾弾と自己破滅と自己愛で汚いものは嫌いだと判別します」
「矛盾してるね」
僕がそう言うと、オレンジは、この人には理解きないだろうな、とでも言いたげに僕を諦観し、胸の前で手のひらを上に向ける。お手上げのポーズ。その後に、開いた二つの掌を僕の鳩尾にねじ込む。掌底のポーズ。僕は気を失う前に笑う。気障なポーズ。
オレンジは、矛盾という言葉が嫌いだ。自然界に矛盾は存在しない。しかし人間には存在する。人間の精神というものは矛盾を包含せずして成立しない。しかしオレンジの能力は社会で人間と定義される能力を大きく飛び越え、矛盾を直さずに矛盾を飛び越える。例えば光速を越える速さで移動できる人間がいる、という噂が流され、その本人が目の前で光速よりも速く移動したとしよう。それを見たものは、まず、目の錯覚か何らかのトリックなどなど、つまり絶対に嘘だと考える。何故なら、そこには光速以上の速度では移動きないという人間が発見した法則があるからだ。オレンジは、人間が発見した法則を一切信じない。間違っているのは光速で移動できる人間ではなく、法則のほうだとまず考える。
規則は縛るためにある。
法則も然り、可能性を限定するためにある。
彼女には人間としての規則が存在しない。
そこまで考えたところで、今朝見た、女の子数人が変身して悪と戦うアニメの最後のじゃんけんで負け続けていることが脳裏を過ぎり、意識を失うのであった(あ、そういえば意識を失うだと自ら電源を切っていると同じような、意識的に意識を失うとい矛盾を抱え込んでしまうなあ、だから意識を奪われるが正しいのかな、と無駄なことを思索しつつ来週はチョキを出そうと考えた)。
「――矛盾なんて、ありません。あ、ここ星か音符のマークをつけといてください」
彼女の言葉は、僕の脳内を一巡りしたあと、意識とハートと、身体のどこか一部分を奪い去る。
僕は、最後に、こんな捨て台詞を吐き捨てるのだった。
「死ね化け物」
彼女と初めて出会ったときまで時間はさかのぼる。彼女は特異だ。言うまでもなく。あの、アシッド・ジャズが好きだった女の子。あの子も、まあ、そうだった。
殺し屋は白いワンピースと白いサンダル、そして透き通るような白い肌を血で赤く染め上げて佇んでいた。ナイフが数十本、彼女の周辺に散乱している。これが、オレンジの戦い方なのだろう、と僕は悟った。
白と血の赤は交わってもオレンジにはならない。赤が全て塗りつぶすだけだ。
orange.
organe.
「君はどうして、身体の一部を奪うんだい?」
「不完全な人間には不完全な姿がお似合いだからです」
「アダムとイヴの話は知ってるよね?」
「どうでもいいです」
「よく三百人も殺せたね」
「よく三百人も殺せませんね」
「殺人ってのは、実際、どういう感触?」
「あなたは殺し屋ですね。わたしには分かります。だから感触については答えません。不謹慎です。汚い」
「君に不謹慎も汚いもクソもあるか――これじゃダメだね。全部汚い」
「きれいか汚いかは自身が決めることです」
彼女はそう言って、ジーンズの右ポケットに無造作に突っ込まれていた白いタオルを引っ張り出し、血塗れの肌を拭う。タオルが指先から、手首、肘、二の腕、半袖のシャツの肩口と這い上がり、タオルを持ち替えて逆の腕で同じ動作を行う。顔をタオルで拭き取り、口元を舌で嘗め回し、まばたきを三回、 手首足首、屈伸、伸脚……体操を一通りこなしてから、僕のほうに向き直る。
オレンジの服は血まみれだった。ところどころ、血に黒い点が交じっているのは臓器の破片か何かだろうか、僕に判別はできない。彼女は、僕に視線を合わせたままタオルで無造作にワンピースを拭く。が、既に血が記事に浸透しているので、色が僅かに薄くなっただけであった。
彼女は、地面に転がっているナイフの一つをとろうとする。ナイフをとらせれば彼女の独壇場になってしまうということは、依頼主からの報告で知っていたので、僕は牽制として拳銃を取り出す。
拳銃を構える。
これで動作を停止するような人間ではないことが――いや、そもそも、人間ではないことが――分かっているはずなのに。年齢、性別、その他の一身上の都合は《飾り》にしか過ぎないと分かっているはずなのに。
《飾り》は無意味だ。
《飾り》は言葉だ。言葉は無意味だから、《飾り》は無意味の中でも最上級の無意味、考慮する必要なんて全く無い。
しかし拳銃はそんな意識とは裏腹に震え続ける。腕から先が独立した生き物のようだ。カタカタという音がする。それを見てオレンジは笑う。彼女の両手には既にナイフが握られている。僕の腕という生き物の動きを予見している。確信している。僕は自分が何を考えているのか、心臓は動いているのか、眼球は彼女を捉えているのか、全てのことが正解と間違いの狭間に突き落とされ、あやふやになってゆくように感じる。この少女は《飾り》を利用して、僕の良心を利用して、僕を殺そうとしている――意味のないもので自分を生かし他人を殺そうとしている――のは分かりきっている。
疑問を解消できるか。
ハテナの意義を全うできるか。
僕は僕というギアを保ち続けられるか。
「拳銃とナイフじゃ、勝敗は分かりきっている」
「ナイフの勝ちですね」
「逆だよ、逆」
「ナイフは銃弾を切り裂けますけど、拳銃でナイフを折ることはできません」
「理に適ってる?」
「理に適ってます」
僕に拳銃。
豚に真珠。
馬に耳に念仏。
彼女の前ではどれも殺される標的に過ぎなかった。彼女の前でのみ、命は平等になることができた。彼女の前でのみ、本当の平等が実現し、楽園は現れる。天国のようだ、と思った。その楽園を見て生きて帰れる者はいない。みんな、天国へ昇っていった。馬も豚も僕も、天国行きだ。
「試してみようか」
「ナイフの切れ味ですか?」
「違うよ、」
拳銃から放たれた一発目は彼女の頬を掠めたが、跡から血が滴るだけで、命を削るにはほど遠い傷だ。
外れた。
数メートル先から発射された銃弾を避けるためには、人間であってはならない。人間の身体能力では避けることができない。
オレンジは口を横に裂いて笑う。小さい口に、あどけない表情に、飲み込まれるかと錯覚する。
どこに撃とうが、どこから撃とうが、彼女には命中しないんだな、と確信した。僕には、彼女の心臓を捕らえる術がない。力がない。何より、僕は人間からも逸脱できないような平凡な人間なのだ。『断層』に埋もれてばかりの、無力な殺し屋に過ぎないのだ。
そういえば、オレンジは、自らを殺し屋と呼ばない。殺し屋と同じシステムで金を稼ぎ、他人に最強の殺し屋と呼ばれても、決して自分のことを殺し屋とは呼ばない。
どうしてだろう?
「避けたの?」
「外させました」
「どういうこと?」
「世界に矛盾は存在しません」
拳銃から放たれた二発目が彼女の額へと着弾する前に、僕の両足の甲と膝、付け根の計六箇所にナイフが深々と突き刺さっていた。額に着弾するはずの銃弾は、彼女の身体を透過して、その先のコンクリートの壁に着弾、壁にめり込んで煙を立てた。
透過したように見えるほど速く移動した。
違う。
間違いなく透過したのだ。
「君は――」
「オレンジ」
「名前じゃない、名前じゃないんだよ」
「無茶苦茶でしょう。乱雑でしょう。訳がわからないでしょう。何も考えたくなくなるでしょう。意識を失いたくなるでしょう。理解できないって、よく分からないって、そういうことなんです。自分の理解できない事象をその眼で捉えてしまったとき、まずそれを否定するんです、そんなことはありえない、この事象はこれこれこういう理由だからきっと有り得ない、しかし幻覚なんてあるわけがない、ではどうしよう……そこで、最後には考えるのを放棄するわけです。解答集でも付属していればそんなことはないのですが、と思い立ったので私はその解答を提示する存在になりました。矛盾を飛び越え、人間の定義から逸脱し、自分で縛りつける以外に定義されない、ちょーかっけー存在に昇華したわけです」
「長い。無茶――くらいしか覚えてないよ。あとでもう一回この台詞よろしく。ボイスレコーダはもってるから」
「人間は愚か者です。愚かではない人間はいません」
「ちょっと無視しないで」
聖人君子も怒髪天を衝く。
透明人間は、迷彩服を着れば、現代の技術で再現できるだろう。透明になるだけなら。
しかし、そこに透過が含まれるとなると、それは現代の技術からは大きく逸脱してしまう。
オレンジは逸脱している。 逸脱して、その外側に、自らの手で檻を形成している。
オレンジがゆっくりと僕の元へ歩み寄る。十三階段を昇るようにゆっくりと、十三階段を昇るよりも軽やかに、美しく。
距離にして1メートル。
僕の心臓なんてものは、一突きで停止する。
「君は人間じゃないね」
「私はそう言いました」
「君は愚かじゃないね」
「私はそう言いました」
「君は生きていないね」
「私は言っていません」
「君は死んでないし生きてない」
「私は言っていません」
「矛盾を飛び越えた」
「私は言っていません」
オレンジは答えなかった。
「幽霊だね」
「どうしてそう思ったのですか? めっちゃファンシーじゃないですか、小学校六年生の女の子が薄い恋愛小説を読んで書いたときによくありがちな設定みたいなのやめてくださいよ。時を越えて人種を超えて存在を超えて、幽霊と人間の禁断のアバンチュール!? みたいのやめてくださいマジで。ぜったい簡潔せずに黒歴史としてゴミ箱に捨てた結果、ゴミを回収しにやってきた母親に発見され朗読され飛び降り自殺するタイプのやつですよ、それは」
やけにリアリティーがあるな、と思った。乙女だな、とも。
「銃弾が透過したから」
「それだけ?」
「口調が幽霊っぽいから」
「それはない。語尾にひゅるるー、とかどろろー、とか、うらめしやーみたいのもついてないですし」
彼女から笑って否定されて、僕は何を言っているんだろう、と我に帰る。今、僕は何を喋って、どういう挙動をして、どうやって呼吸をしていたのだろう。不安になる。失血死は間違いないな、どうせなら一瞬がよかったな、と良心が喚いている。僕は耳栓をした。心に栓をする。心臓に栓をする。何も流れない、感情も流れ込まない、客観と呼ばれる空間を作り上げる。心じゃなくて、もっと機械的な、無機的な、ココロへと変貌する。
ココロが機械的ならば、この身体はココロの命令を処理するデバイスに過ぎない。
命令が下る。神経の末端まで覚醒する。殺せ。
仮想敵、幽霊。殺せるはずが無い、と脳が一瞬で判断する。へたれ野郎、臆病者、と野次が飛び交う。その中で、僕は机を叩き、僕はそうじゃない、臆病者じゃない、現実主義者なんです! と反論する。馬鹿、脳内で会議を開いている次点で現実から頭皮してんじゃねえか、という高度なメテ発言により僕は口を閉ざされた。
「……成仏してくれない?」
「幽霊じゃないですって」と彼女は笑って答えた。
「……じゃあ、悪魔祓い?」
「悪魔じゃないですって」と彼女は微笑んで答えた。
「普通の女の子?」
「普通ですか、これ」
「サキュバス?」
「ちょーインラン。学生にそんなこと言わないでください。電車内でわたしがこの人痴漢しましたー!! って言えば、冤罪でも人生が傾きますよ、傾かせちゃいますよ?」
「サキュバスなんか知っているのが悪いね。……じゃあ、君は、自分をどうやって表現する?」
彼女は苦笑いを浮かべて、僕の胸にナイフを突き立てたまま三十秒ほど思案した。
「わたし、誰かが表現できるような存在にはなりたくありません。あれですよ、美しい女をモチーフとした歌があって、それのモデルを探そうと思う人なんて信じられないんですよ。物語はちょうどいい説明があれば十分なんです。それ以上はいらないんです。おれはこういう者で、ごく普通の男子高校生だ、といえばそれで十分じゃないですか。どうせ鈍感な上に台詞回しと独白の妙にうざい、それなのに女の子からはモテモテの冴えない高校生、というのは経験則で分かるじゃないですか。まあ、そんなやつがいたら世も末ですけどね、平凡な主人公一人が得をしても世界的には重大な損失ですよね、あれ。言いすぎですか? 話を戻しますけど、わたしも女子中学生と表現されて、女子中学生という一面を見ていただければそれで十分なんです。誰もわたしが殺す理由なんて分からなくていいし、わたしが生きる理由なんて理解されたくもない。感情移入なんて有り得ませんよ、例えあなたが同情するよ殺し屋だものと言おうが、それは移入じゃなくて共感に過ぎません」
「長いから、あとでこのメールアドレスに要約して送ってきてね。あて先はこちらまで。どしどしお便りお待ちしてます。画面の下、四分の一くらいにメールフォームが映る。編集さんよろしく」
僕の言葉を無視して、彼女はこう付け加える。
「わたしは自分を救世主と称します」
衝撃、殺傷、殺生、その後の話は割愛するが、僕は最後に、こう吐き捨てた。
「死ね化け物」
疑問点を回収しろ。そして回答しろ。正解へたどり着け。命令が下る。ココロに表示される文字が「error!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」であってはならない。
時間を早送りする。現在まで至る。
「そうか」
目を覚ますと、僕は『無傷で』どこかに仰向けに寝かされていた。
どこか――について、補足をしておくと、そどこまでも青々とした草が生い茂っていて、オオイヌノフグリとか、名の知らぬ背の低いピンクの花とかがちらほらと見受けられるような、極めて平凡な草原だ。草原しかない。僕が身体を起こして、辺りを見回しても、こんな場所が地球上に存在しただろうかと疑問に思うほど、起伏の無い平地がどこまでもどこまでも広がっていた。風が吹いていないというのに、雲が尋常じゃない速度で空を疾駆し、草花が成長のプロセスをとんでもない速さで繰り返していた(芽吹いてから枯れるまで二十秒も要さない)。そして僕は、この世界が早送りされていることに気づき、数秒ほど、空を仰いだ。
精神と時の部屋って、あったなあ。
この世界には何かが欠落している。
オレンジが、世界の一部分を奪い取ったのか。
そんなことを考えていると、いつの間にか、僕の隣にオレンジが体育座りで、ちょこんと縮こまっていた。
「目を覚ましましたね」
「嘘吐き」
オレンジは微笑んでいた。
「嘘吐きだ、君は。いや、僕の記憶力が悪いんだけど、初めて会ったときの台詞を覚えておけばよかった。畜生、君が治癒魔法を使えるくらいの人間で済むならまだ良かったんだ。そういえば、治癒魔法が使える世界ってのは医者が存在しないんだろうなぁ……まあいいや」
オレンジは微笑んでいた。
「ピノキオなら、鼻が成層圏を突っ切るレベルだよ、もう」
オレンジは微笑んでいた。
「君は人間じゃない。それは知ってるよ、君は救世主だもんな、君は世界を救うんだもんな、そうかそうか、君は人を殺す理由はないと言ったね、つまりそういうことだ」
オレンジは微笑んでいた。
その微笑には狂気が宿る(狂気という言葉のボックスははじけ飛びそうだ)。
「君には人を殺す理由がない。確かに、そうだ。しかし、救世主はいつも、大きな野望を抱いて人を殺していた。僕の考えていた救世主は、人間じゃないか。化け物じゃないじゃないか」
人外の救世主は人外にふさわしい微笑を浮かべていた。
「一から君が殺人を犯す理由を解説すると、いや君が拒否しなくても僕の脳内を整理するために感覚野と運動野を同時に動かす。僕はてっきり、殺人の対象となる人に意味はなくて、人殺しと言う行為そのものに意味があるものだと思ってたよ。動機よりも被害者よりも、人を殺す儀式なんだと、そう思い込んでいた。だって君は、殺害を生贄だと称した僕の気まぐれでその場しのぎの推論にそれらしい反応を見せていたじゃないか。そのせいで、記憶力が壊滅的に悪い僕は、初めて出会ったときのことなんて忘れて、殺人は儀式――人外として存在を維持させるために必要なものだと思い込んでいた。そこにどんな法則、定理が循環しているのかは、僕はそういうものに疎いから分からないけど、人外にしか分からない当然が存在するんじゃないか、ってさ。いやあ、やられた。僕が鶏並みの記憶力の持ち主なのが全面的に悪いんだけどさ……それと、救世主の意味を取り違えていたのが間違いかな」
「台詞が長い。要約してください」
「救世主だ。世を救う主だよ、畜生」
「ちょっと無視しないで」
笑うな。
彼女の笑いはアルカイック・スマイルを超越した高次元の笑みだ。
人間は三次元までしか視覚できない、なんて真っ赤な嘘だった。
言われてみれば、僕が勝手に色々な推論を張り巡らせて、何かがその推論のくもの巣に引っかかれば、そこらへんの推論を適当にかき集めて、接着剤で補強してできたのが僕にとってのオレンジだ。オレンジは、自分を語るようなことは決してしない。他人から評価されるのは当然のことだが(自分の下す自身の評価はゴミ当然だ、という点では僕とオレンジの意見は偶然にも一致しているようだ)、他人から下される評価に何の反論もせず、それを受け入れることによって、怪物よりも怪物らしい印象を創り上げられてきた。疑問を解消するために。
果たして他人の下した印象は、どこまで本当なのだろうか。僕の知るところではない。他人について「これこれこういう人だ」と紹介できる人間は素晴らしいが同時に貧しい、と考えたところでスイッチを切り替える。
オレンジの場合は、一つもあっていなかった。誰もが下したであろう評価は一つ残らず受け入れられ、誰もが下したであろう評価は一つ残らずオレンジの本当の姿と合致しなかった。
「救世主の殺す動機は世を救うためだ。殺された人は、世を救うために殺さざるを得なかった。だから殺した。世界と三千六百五十人の命は天秤にかけるまでもない」
世界>数千の命。
真(?)
「だけど僕には理解できない。三千六百五十人が世界と天秤にかけられて死んだ勇者だったということしか理解できない。その三千六百人はどうして選ばれたのか、まったくもって検討がつかない。被害者の素性は一通り知っているけど、なんの共通点もなかった。子供もいた。老人もいた。胎児も妊婦も表の人間も裏の人間も犯罪者も政治家も殺し屋も、なんでもいたじゃないか」
「三千六百五十人の死によって、一万人以上の命が救われました」
「理解できない」
「する必要性を考えてくださいよ。理解しなくていいんですよ、それでいい」
「有能と無能の違いは?」
「能力が有るか無いかですよ。文字通りです」
そういって、オレンジは立ち上がった。
「未来が分かるの?」
「過去も未来も全て分かりますよ、過去は歴史の年表を参照すればいい。未来は、歴史は繰り返すという言葉を当てはめてください。文明が進化しているから同じ事になんかならないと言う人は史実を見ていませんよね」
冷静になるんだ、冷静に、冷静に、冷静に、
「たとえば、わたしが殺した三千六百五十人が存命していると仮定しましょう。彼、彼女は軋轢を生み、それがどんなに小さいものだったとしても、急斜面を転がる雪玉のようにだんだんと軋轢は肥大化し、不和を呼び、最終的にそれが人命を失わせるようなものになります。――いわば、彼、彼女は殺人鬼の卵でした。害虫の卵は孵化する前に殺すのは、当然と言えませんか? あなたたちだって、人類だって、自分に害をなす虫を駆除するでしょう? それと同じです。わたしの犯行――自分より低俗な存在を駆除することが、どうして許されないのですか? わたしは人間のために奉仕しているのですよ? いわば、人間が自分達が喰らうはずの家畜に奉仕しているようなもんですよ?」
反論はできない。
人類として、反論の仕様がない。
人類は最上位に位置している、という妄想込みの事実が、今の今まで地球を回してきたのだから、僕が彼女に反論するとすれば、僕に聞くのはお門違いだ、という言い逃れだけだ。
自分に害をなすものを愛するのは、神だけだ。
そして、人類より、オレンジは神に近いところにいる。
それだけだった。
殺す理由じゃない。重要なのは、殺した末に生まれる効果だ。ファクターが重なり、そこに何が生まれ、何が終わるかを考えるべきだった。
殺す理由がないようには思えない。
その疑問を解消するためには、殺す理由の居場所を明らかにする必要があった――例えば、彼女自身に殺す理由は存在しないが、誰かの殺す理由を受け取っている、だとか。
つまり、依頼。
「依頼主は?」と僕は尋ねた。
「わたしはあなたたちに、あなたたちの総意に依頼されて、人を殺す」
全ては隔てられる。そんな感覚だ。地も足につかず、身体は宙を舞い、暗闇をさまよい続ける、そんな感覚だ。感嘆符五千個。それに対し感嘆符五千個分の大きさの疑問符がたった一つ。
彼女の掌の上から飛ぶ。
宙を舞っている。
死ぬ僕。
(『orange』の介入。不正なアクセス。サーバーエラー。『organe』の流出。ディスプレイは『orange』の手に掌握されました)
massagebox『error!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
(動作を停止しました)
(応答なし)
(強制的にシャットダウン)
(ファッキンと深淵は言う。木霊して僕の鼓膜を破壊する)
時間経過、現在。キュルキュルギュルル、と、早送り。
憎しみ、というのは感情であって行為ではない。感情は必ずしも行為に直結するものではなく、多くは寝るだけで失われるようなくだらないものだったりする。
しかし、このオレンジは、その失われた感情たちをかき集め、行為として実現してしまう。
そんなことがあってたまるか。
そう考えることができるならば、そこで思考をとめてオレンジに殺されれば良いのだ。しかし、それができないから、僕はこうして思案している。
まず、意志を汲み取る方法が分からない。サイコメトラー、でいいのだろうか――いかに人間よりも高尚な生き物だったとしても、その思考を読み取るというのは――しかし、そこで否定してはならない。
「やっぱり、分からないや」と僕は否定した。
命の価値を論じようとしても、命は大切に、とは言えなくなってしまった。オレンジは、僕より上にいるのだから、下々の存在を殺すのは好き勝手でかまわないのだ。
僕が蟻を殺すのと同じ。
オレンジの殺人は、そういう点で理に適っていた(理に適っていないと否定するならば、前述の蟻殺しも否定され、生命をむさぼる人間も否定されてしまう)。僕たちは食肉であり魚であり野菜であり、食卓に並べられるものと同価値だった。
「いてはいけない存在って、あるもんだよなぁ」
「不完全犯罪の証拠みたいなものですか?」
オレンジは笑う。
その笑みの価値が少女のものか、はたまた、救世主のものか、神のものか、分からないし考える価値も無い。
「僕は君を殺そうとしたんだ。だって、人間より上位の存在はいてはならないだろう? 見つからずに思慕するだけで十分だよ、宇宙人なんて、過去や未来なんて、神なんて、思いを馳せればそれで満足できるんだから」
「私は人を殺しました。やれ、っていうから。みんながやれって願うから。願いはいつか叶うものである、だから希望を捨てるな、なんて少年漫画みたいなことを実現させたかったのです。願いが叶う世の中はあってはならないということを示したかったし、人間は生意気だから食用に家畜化して加工してやろうとかと思ったし」
「君は結局、何なの?」
「不定ですねきらりん!」
「星マークを自分でつけるって現代っ子でもしないから」
「あなたは結局何なんです?」
「いくつもの海を航海する船乗りさはぁと」
「どっちもどっちですねキモい」
分からない、といえば全てが分からない。殺害する理由が分かったとしても、身体の一部分を切断する理由、それを保存する理由――オレンジはまだ説明していない。
説明は必要か?
『断層』に埋れる。断層を覗いてみる。その深淵を覗き込む。深淵も、僕を覗き込んでいた。ニーチェもこういうことが言いたかったんじゃねえのか、と自己完結して、深淵の手招きに導かれ、僕は躍ることにする。
一部分を切り取る。完全な人間から、一部分を除く/覗く――不完全な部分を保存する。なんだろうか、この感覚は、「人はどの部分が残っていたら人なのか、胴体まで残っていたら完全な人間なのか、頭部が残されていたら完全な人間なのか――個人の特定ができれば人間と呼べるのか。それなら顔が人間だ。顔が残っていればいい。しかし顔だけだと不完全だと人間は言う。もともと完全だと、五体があれば完全だと、そう思っているのなら、その意見は正しい、しかしオレンジにとれば人間は自分に従属しても構わないような下等な不完全体に他ならない」、このような考えが頭にこびりついて、その汚れを僕に吹き付けたのは誰だ、と僕は『断層』に投げかける。深淵はその暗闇を、僕の海――ギアまで拡張して、真実は闇に消える。ロマンティック死ね、と思う。
「あなたの言いたいことはよぉく分かります」とオレンジが言う。
「あなた、ミステリとか、好きでしょう?」とオレンジが言う。
「あなたは、ミステリとしてあってはいけない終わり方も承知していますね」とオレンジが言う。
「ミステリは好きじゃないけど、区切りをつけるときにあってはならない行為は知っているつもりだよ」
「あなたは、物語だと、ファンシーな作り話だと、矛盾したファンタジーだと、この世界をそう定義しているのですか?」
定義定義やかましい。脳内では定義の氾濫が発生していて、何もかも定義づけしなければいけないのではと思い始めてきた。頭痛。
「伏線は回収されるべき、それは当然だ」
「わたし、本格ミステリほどつまらない読み物はないと思ってます。だって、そこにいないはずの読者に、本格であればあるほど、一から丁寧に、犯人の動機から殺害現場の再現まで――全て、推理というでっちあげの妄想をベースにしてやってのけてしまうじゃないですか。しかもその妄想は、全て事実なんです。ミステリは、最後に、絶対に答えが明らかになる。その解答の過程は、本格であればあるほど詳細になる」
「何がいいたいんだい?」
「主人公の推理は妄想です。妄想は事実です。物語では、そう定義されます」
「で?」
「あなたが妄想すれば、それはきっと、正解なんですよ、はぁと」
彼女はその後に、こう付け加える。あと、物語の終りは、起承転結の結があればいいとか――どんでん返しがあればいいとか――全てのなぞが解ければいいとか――次回への気になる伏線が張られるとか――ハッピーエンドとかバッドエンドとか――そういうのじゃなくて、物語は、句読点で終わってれば、それで物語として機能するんですよ、と。
最後に台無しにする。それは死と同義。ハテナは、疑問符を解消できない。脳内会議では早くも弾劾裁判が開かれていた。圧倒的多数の賛成により、ハテナは、存在意義を全うできなかった一つの部品は、死刑! 拍手の音が聞こえる。それは次第に大きくなる。スタンディングオベーション。大喝采の中、僕は取り壊される、オレンジの疑問を全て解消できないのなら、ハテナは死ぬのみだ、死ぬべきだ、死ぬ。断頭台の上にたって、僕はオレンジの顔を見つめている。オレンジは、追い討ちをかけるように、ギロチンが落ちるのを急かすように、一言、わたしは嘘吐きですから、と微笑みながら告げる。あなたの推理は全て事実になります、だってあなたは主人公だから、正解しか推理できない、けれどそれはわたしにとっては愚かな話です、可能性を限定しているのですから、一般論として、正解は妥協に過ぎません、自分が正解と思えばそれは正解なのですから、うふふ、あはは、わたしの言ったことが、あなたが自身でいったことが、どれが正解でどれが嘘だか、判別してみてください、きっと真の正解にたどり着くことは不可能でしょうけど、けれど自己完結できますよ、自己満足できますよ、偽の正解ならそこらへんに散らばっていますよ、ほら主人公さん、ほらほら、拾って拾って、自己満足で自己完結な『断層』に、埋れて死になさい、と告げる。アルカイックスマイルファンシーファンタジーオレンジスプラッターニーチェロマンティックドリーム死ねと僕は思う彼女はハテナを殺すことに成功する約束を破るギアを奪うそれを冷凍庫に保存しておくちくしょう嘘吐きめ。
句読点ついちゃった。
「わたくしオレンジの完全犯罪。嘘をもってさよならハテナ。自分のあまりにも鋭い推理力と考察力とともに墓で眠りなさい。残った身体にはいまだ数人が存在する。けれどわたしは奪った。ハテナさんを殺してギアを奪った。これで十人。推理なんて馬鹿げたことをしないで現象の結果だけを見る。そんなことは誰にもできない。本格ミステリであれば、答えが丁寧に解説されるだろうに! ハロウヘロウ、ハロー、わたしはオレンジ。わたしはクラムボン。わたしはジャバウォック。わたしは空想。理不尽を持って君を殺す」
そうそう。
僕はハテナ。
君を助けられなかった。
埋れてしまうね。
僕は十三階段を昇りきって、そして、




