#01 RAUSCH 《ラウシュ》
――人間は、追い詰められれば本性が出る。
なんてよく言うけれど、私はこの言葉があまり好きじゃない。
本性って何?
普段は妻と子供を愛して、真面目に働いて、困っている人がいれば手を貸す。
そんな、一般的には優しいと言われている男が、ある日死ぬほど怖い目に遭って家族を押し退けて逃げたとする。
その場合、この男の本性は家族を押し退けた方?
だとしたら、それまで何十年も家族を愛してきた男は偽物だった?
逆ならどうだろう。
自分勝手で、嘘つきで、ろくに他人のことなんて考えずに生きてきた人間が、最後の最後で見ず知らずの子供を庇って死んだとしたら?
どっちが本性なの?
私にはよく分からない。たぶん、本人にも分からないだろう。
だから私は、人間が追い詰められているところを見るのが好きだ。
別に何が本性なのか、それを見定めたいわけじゃない。
昨日まで善人だった人が醜くなるのも、昨日まで最低だった人が、突然誰かのために命を張るのも。
その人、本人だと思うから。
だから、次はどうするのかしら、と、つい見たくなる。
『俺を先に出してくれ!』
男の絶叫が、ローター音の響く機内に流れた。
『頼む! 子供がいるんだ! 家で待ってるんだよ!』
「......ふふ」
思わず笑みがこぼれる。
高度およそ四百メートル、市街地上空。
窓の外では、夜の街が猛烈な速度で後方へ流れている。
黒い空の下を埋め尽くすように広がる街灯と、無数の車列。
そのさらに先、ビル群の谷間から、黒い煙が一本だけ夜空へ伸びていた。
目的地だ。
到着まではあと六分ほど。
「イリスさん、現場どうなってます?」
向かいの座席からスタッフがノート端末を開き、現場から送られてくる情報を次々と整理しながら問いかけてきた。
「そうね、面白いことになってるわよ」
「そうじゃなくて、被害状況です! LIVE観てるんでしょう!」
私はもう一度、手元の画面へ目を落とした。
『押さないでください! 一人ずつ! まだ通れます!』
若い男が叫んでいる。
服装を見る限り、消防でも警察でもヒーローでもない。
地下区画から地上へ続く通路は、崩落によってほとんど塞がれていた。
かろうじて残った一本へ避難者が集中し、その男は入口に立って流れを整理しようとしている。
「よく見えないわね。少なくとも重傷者は映っていないわ」
怖いだろう。
逃げたいだろう。
それなのに、他人に声をかけ励ましながら避難を促している。
素敵。
でも、もう少し状況が悪くなったらどうするのかしら。
煙が増えて、出口がさらに狭くなって、残り猶予が一分もないと言われたら。
それでも、その場所に立っていられるのだろうか。
「楽しそうな顔しないでください」
「してた?」
「してました」
「そう」
なら仕方ない。実際、楽しいのだから。
『子供がいるんだって言ってるだろ!』
先ほどの中年男が、誘導している若者の肩を掴んだ。
『俺には家族がいるんだ! 先に行かせろ!』
『みんないます!』
『知るかよ!』
男はついに、その若者を突き飛ばした。
思わず小さく笑い声が漏れた。
向かいのスタッフが顔を上げる。
「……何ですか?」
「別に」
コメント欄が猛烈な速度で流れていく。
――最低
――こういう時に本性出るよな
――こいつ助けなくて良くね?
――こんなやつの家族じゃなくてよかった
――死ぬかもしれないし仕方なくね?
――俺も子供いたらこうなるかも
――他人押し退けていい理由にはならないだろ
――綺麗事言ってる奴、現場にいたら絶対同じことする
――てか撮ってる奴も助けろ
――消防まだ?
――ヒーロー何してんの?
――RAUSCH向かってるって
指が止まった。
「あら」
そのコメントはすぐに流れて消えた。
「もうバレてる」
「そりゃバレますよ」
スタッフが答える。
「ヘリポートから撮られてましたから」
「誰に?」
「知りません。一般人です。出発から三分で動画上がってました」
「そう」
別に驚くようなことでもない。
今の時代、どこへ行っても誰かが撮っている。
食事をしていても、買い物をしていても、事件現場へ向かっていても同じだ。
少し前なら、有名人がいつどこにいたのかを知るには記者の張り込みくらいは必要だったのだろうが、今では街を歩いている人間のほとんどがカメラを持っている。
便利な時代だと思う。
そして、くだらない時代だとも思う。
本当にくだらない。
けれど、くだらないからといって、なくなるわけではない。
それに――
「今どれくらい?」
「何がです?」
「私がヘリに乗ってる動画」
「……気になるんですか?」
「気になるわよ」
スタッフが呆れながらも答えてくれた。
「さっき見た時点で七十万再生くらいです」
「そんなもの?」
「投稿されてまだ三分です!」
「じゃあ悪くないわね」
「くだらないって顔してたくせに」
「くだらないわよ」
もう一度ライブ配信へ視線を戻す。
フォロワーが数万人いれば、まるでそれが自分の価値であるかのように振る舞う人間がいる。
再生回数が多ければ、それが世間からの評価だと考える人間がいる。
こんな数字で人の価値は決まらない。
ただ、どうせ数字になるのなら大きい方がいいし、どうせ競うのなら負けるより勝つ方が楽しい。
それだけの話だ。
画面の向こうでは、中年男を責めるコメントがまだ流れ続けている。
その中の一つを目で追いながら、また笑みがこぼれる。
撮られる側も、見る側も、それをこうして見ている私も。
やっぱり人間は、ずいぶんくだらなくて面白い。
『……待って』
不意に、配信者の声がした。
『なんか、音しない?』
画面の向こうにいた何人かが顔を上げた。その音は少し遅れて、私の耳にも届いた。
低く、鈍い音だった。
何か巨大なものがコンクリートの向こう側を擦っているような、長く尾を引く音。
先ほどまで怒鳴っていた中年男も、避難誘導を続けていた若者も動きを止める。
『何の音?』
『分かんない』
もう一度。
今度は画面が揺れた。
『おい……』
誰かが呟いた。撮影者がスマートフォンを上へ向けると、コンクリートの天井に亀裂が走っていた。
「まずいわね」
私は身体を起こした。
一本だった亀裂が、目に見える速度で伸びていく。途中で二つに分かれ、さらに枝分かれしながら天井を這っていた。
コメント欄の流れが一気に変わる。
――逃げろ
――やばい
――これ崩れるだろ
――早く逃げろ!!
――押すなよ絶対
――走れ!
――どっちだよ
『全員落ち着いて! まだ大丈夫です! 走らないで! 一人ずつ――』
その瞬間、大きな破片が落ち、床へ叩きつけられ、砕け散った。
『早く!』
『押すな!』
『待って、待って!』
『子供がいる!』
それまで辛うじて保たれていた列が一瞬で崩れた。
出口へ人が殺到し、身体と身体がぶつかる。先ほどまで他人を誘導していた若者も人波に押され、壁へ叩きつけられた。それでも何かを叫んでいるが、もう誰にも届いていない。
撮影者も走り始めたらしく、映像が激しく上下する。
――うわ
――押すなって!
――将棋倒しなるぞ
――配信切って逃げろ!!
――子供転んだ!
――誰か助けろよ!
――RAUSCHまだ!?
「もう着くわ」
聞こえるはずもないコメントに、そう返した。
ほとんど同時に、機体が大きく傾く。
窓の向こうを流れていた街並みがせり上がり、代わりに黒煙を吐き出す巨大な商業施設が視界いっぱいに入ってくる。その周囲では何台もの消防車と救急車が赤色灯を瞬かせ、封鎖された大通りには避難してきた人々と警察、消防、報道関係者が入り乱れていた。
『着陸する!』
操縦席から声が飛ぶ。
私は座席から立ち上がり、壁際に固定されていた装備を手に取った。グローブを嵌め、手首の留め具を締める。腰のベルトを確認し、最後に通信機を耳へ押し込んだ。
「現場から更新です。地下二階で崩落拡大。配信地点との通信も途絶しました」
「見てたわ。救助隊は?」
「先行班が入ってます。詳細は現地指揮から」
「分かった」
ヘリが高度を落としていく。
地上にいる人間の姿が急速に大きくなり、そのうち何人かがこちらを指差した。そこから何かが伝播するように、次々と顔が上を向く。
そしてスマートフォンが上がった。
一台。
二台。
十台。
ローターの風で髪を乱されながら、その光景を眺める。
「イリスさん」
「何?」
「こっちもカメラ回します?」
「邪魔にならないなら回しておいて」
「了解」




