忘れ得ぬひと
その夜、空気はしんと静まり返っていた。
石造りの家の中は、暖炉の薪がパチパチと静かに音を立てるほかは、まるで世界そのものが眠ってしまったかのような沈黙に包まれていた。
クラウドは、クーファンの中でまどろみながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
夢を見た。
ほんのりと暖かい空間。
風もないのに、髪がそっと揺れる。
視界の奥で、白いベールのような光が漂っている。
その中に、誰かが立っていた。
すらりとした身体。柔らかな髪。微笑んでいる——その人を、クラウドは知っていた。
玲。
「……おかえり」
彼女は、静かにそう言った。
声ではない。それは“響き”のように心に届いた。
泣きたくなるほど懐かしく、悲しく、優しい音だった。
クラウドは声を出そうとしたが、夢の中では言葉にならなかった。
ただ、彼女に向かって手を伸ばそうとした。
玲は微笑んだまま、首をふった。
「あなたが生きてる。それだけで、わたしは嬉しい」
その言葉に、クラウドの胸の奥がじんと熱くなった。
「わたしはずっと願ってるよ。
あなたが、また幸せになれるように」
玲の声が、風に溶けていく。
「だから——この世界でも“ととのって”ね」
そこで、夢はふっと色を失った。
目を覚ましたクラウドは、まだ夜明け前の薄明の中にいた。
窓の外がうっすらと青くなりはじめており、家の中はまだ静まり返っている。
(……夢……だったのか)
胸の奥に、玲の言葉の響きが残っていた。
夢の中で彼女が言った言葉、「ととのう」——この世界にはないはずの、あの感覚。
それはまるで、心と身体、魔力と意識の調和がとれたような、深い集中と解放の境地。
(あの感覚は、やっぱり……この世界でも、大切な鍵になる気がする)
朝になり、クラウドはいつものように母に抱かれながら、窓の外を見つめていた。
今日は市の立つ日だったらしい。通りには露店が立ち並び、色とりどりの布や果実、香草、乾いた魚や革細工が並んでいた。
子どもたちの声、大人たちの取り引きの声、笑い声と喧騒。
そのすべてが、どこか魔力を含んだ空気のように感じられた。
この世界では、あらゆるものが魔力と共に“息づいて”いる。
土、空、食べ物、人の言葉や手の動きまで——
(この空気、吸ってるだけで……内側がじんわり熱くなる)
クラウドは気づいた。
呼吸を通じて、自分の中に魔力が溶けて流れ込んでくる。
まるで、魔力が彼に引き寄せられているかのように。
(……俺の身体、魔力を吸いやすい?)
生まれて間もないはずなのに、すでに自分の中にはまとまりのある魔力の気配がある。
常に何かが巡り、貯まり、静かに満ちていくような感覚。
まるで、サウナでととのったあとに、内側から湧いてきた活力と似ている。
この世界では、それが「魔力」として目に見えるものになっているのかもしれない。
その日の夜、母と父が小さな声で話していた。
「……ねえ、この子、きっと特別な子だわ」
「おまえ、前もそんなこと言ってたな。魔力が敏感だとか、言葉を理解してるようだとか」
「だって、本当よ。目を見れば分かる。……あの子、きっと何かを“思い出して”いるの」
「……“魂の記憶”ってやつか」
「……ええ。そんな気がするの。あの子の瞳には、普通の人にはない大きな光がある」
クラウドは、その会話を聞きながら、微かに笑った。
赤子の身体では、それはほんのわずかな唇の動きにすぎなかったが、ミリィは目を見開いた。
「……クラウド、今、笑った……?」
彼の瞳は、確かに輝いていた。