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第二百十三話『寄返』

 



 ――もういっそ、このまま安らかに眠ってしまおうか。


 周囲を占めるはあるがままの景色、人間や人工物は一切存在しない穏やかな世界だった。

 生の苦しみも現世の蟠りも全てを忘れて、ただ自然に心を馳せて一時を過ごしたいと思える。

 ずっと居ても誰も咎めない、咎められない。少しでも長く、少しでも多く、この時間を堪能していたい。



 だがしかし、そんなときに限って邪魔の凶兆はあるもので……横になって数分もしない内に周りには変化が訪れ始める。

 遠くから聞こえてくる風の音。あたりの木々を騒々しく揺すり川面をかき回す。

 視界の情報を遮っていながらも、聞こえてくる不安は一切を掻き立てる。


 とはいえ風も自然のうち、強弱はあれど一体になって楽しむべきものだ。

 ……しかし、延々と荒々しく木の葉が揺れる強風ともなれば、流石に一度目を開けて確かめたくもなる。

 その時だった、目の前にライラが覆いかぶさろうとする姿が視界に入ったのは。




「――何をしている」


 すかさずゼントの表情は難色を示し、尋ねずにはいられない。不意に先日の馬車の中が浮かび上がる。違う部分があるとすれば真正面の目が胡乱ではなく確信的なことか。

 先程まで隣にいたはずの彼女が音もなく近づいてきたこと。嫌でも首筋に悪寒が走る。



「どうした? ここでは何もしないんじゃなかったのか?」


「そうだよ。だからゼントの近くでそうしたいだけ」


 声を上げても何も答えなかったライラに対し、質問を重ねると観念したのかゆっくりと口を開ける。

 こちらを真っ直ぐ捉えると彼女の口角は更に上がり、美しさと不気味さが共存する不思議な光景が現れた。


 いつも隣に居ても無害でむしろ可憐ともあるのに、肉体的に近づいてくる時だけ恐怖が異常に暴走する。

 そしてゼントは何故自分がこんなにも感情を覚えるのかが分からない。別に殺されるわけでもないのに。

 きっと強まって来た風が必要以上に不快を与えるのだ。そう自分に言い聞かせて己を強烈に律する。


 今すぐ逃げようとすればよかったのかもしれないが、真っ直ぐに見つめられまるで蛇に睨まれた獲物のように体が動かない。

 これもまだ彼女への信頼なのか、はたまた自分がただの腰抜けなのか。なんにせよ逃げられないことだけは確定している。



「悪いが、離れてくれないか」


 ゼントはそう自分が言いつけられることが、不思議でしょうがない。感じる恐怖はそのままなのに、こんなにも強気で出られる自分が。

 きっとライラが気味悪い笑みを浮かべるから怖くなるだけなのだ、と必死に言い聞かせているからかもしれない。



「どうして?」


「どうしてもだ」


 白けた顔で尋ねられる、しかし間髪入れずにゼントははっきりと答えた。全身から噴き出す冷汗は留まることを知らず、しかし何人に諭されようと曲げることのない意志を真に籠めて。

 ライラは一瞬気圧されたのか、何をしようとしていたのか、胸の前に掲げていた手を降ろす。そしていた場所から一歩退くと仏頂面で語り始めた。



「私はゼントに対して何もしない。これは本当だよ? 私が一度でも嘘ついたことある?」


「ライラ」



 彼女は胸に手を当てて心の誠を顕し力説する。

 対し、再び視線と声色で強い意志で突き放した。


 するとようやく(のぞみ)薄さに疲れ果ててくれたか、諦めの様相を見せる。

 口を尖らせて拗ねたように。いや不満を超えて憤りすら感じているようであった。


 このような時、ライラが理性的な性格であることに感謝しなければならない。もしゼントの願いを無視して迫って来ても抵抗できないだろうから。



 彼女を何も知らない者が見ればその立ち姿は媚態を表す。

 人前で恍惚を厭わない、悲痛すら感慨の刺激になりえる風靡。

 その上で迫られでもしたら首を振るものなどいるわけがなかった。


 しかしゼントはと言うと、まるで誰かに脳髄を射られでもしたかのように負の思考が支配している。

 殺気を放っているわけでもないのに、本能は別人格と成り果て、今すぐ逃げろと駆り立てた。

 やはり彼女は何を考えているのかが分からないのだ。無機質の感情の奥にあるその本質が。



「ねえ。ゼントは私のことをどう思っているの?」


「それは……俺に答えられる質問ではないな」


 協会で言われたものと似たような質問、決定的な違いがあるとすれば答え方が二者択一ではないこと。

 だから耐えかねた彼は曖昧にはぐらかす。それはライラが何を求めているのか理解してしまっているから。




 ……この際、はっきり認めてしまおう。己は目の前にいるライラと、かつての恋人とを重ねてしまっていると。

 数多ある似通った要因然り、懐かしい面影をこれでもかと探っているときがあった。まるで寄せたかのような人物像、容姿以外はまるで本物なのだから。

 だからこそ分からない。こんなにも恋人と重なるのに、相対した時の人一倍の拒絶を。


 こうは考えられないだろうか。自分はまだ恋人を愛している、故の恐怖ではないかと。

 いやしかし、サラやユーラに物理的に迫られた時には起こらなかった感情だ。


 考えを重ねれば重ねるだけ、矛盾と自尊心の撃滅を生み出し、自身の内に潜む暗い感情ばかりが見え隠れする。

 ゼントの言葉に対してライラは微動だにせず、ただ思考の海に放り出されたような顔をしていた。



 とまれ、ふと見るとあれほど頻りに吹いていた風は収まっている。

 今は黒い髪が優しく包み込まれ、宙でそっと揺蕩うのみ。


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