頑丈な男、脆い男
どれくらいたったのか、数分の気もするし、数日眠っていた気もする。
グレイは地下駐車場入り口前のスロープに横たわっていた。
頬に何か温かいものを感じて目を開ける。
小さな雫が落ちたような感覚の正体はクロフォードの涙だった。
「ひうっ、ひぐっ……どんな身体してるんですか、あなたは……トラックに何かが落ちたと思ったらイーサンで……上の階にいたはずなのに、うぅ……死んだと思いました……」
仰向けの顔を覗き込まれ、視界いっぱいに女の泣き顔があった。
「お迎えの天使にしちゃ、ひでぇツラだ」
「本当に、本当にあなたって人は……生きているだけでも奇跡なのに、起き抜けに冗談まで……頑丈過ぎてもはやジョークですよ……ぐすっ」
力を加えてみると、投げ出した手足が建付けの悪い窓みたいにぎこちなく動いた。呼吸もできる、唇も動く、声も出る。
ただ起き上がろうとすると頭が割れるように痛んだ。実際に割れてもいるのだろうが。
それを察したのか、クロフォードの手がそっと額に触れた。動くな、ということだろう。
「頑丈な身体を憎んだこともあった。自分だけが生き残り、死ぬべき機会を逸したと考えたこともあった……でも、王に仕え、ホミアで暮らす内に考えが変わったんだ。タフで良かったってな」
自分でもどうしてこんなことを喋っているのか分からなかった。
自分が生きていることに涙を流して喜んでくれる人が目の前にいるからか、もう一度チャンスがあって良かったと安堵したからか、あるいはその両方か。
「頑丈なおかげで、残った大切なものを守れる」
指先で撫でるようにクロフォードの頬を伝う涙を拭った。
「イーサン……待ってください、まだ動いては」
グレイは軋む体を無理やり起こす。
頭は判然とせず視界は揺れているが、それでも立ち上がった。
「今何時だ? 時計がイカレちまってる」
「……午後三時三十分です」
「式典の終盤、おあつらえ向きじゃねぇの。都合よくタイムリミットの前に目覚めたってわけだ」
「……本当にその身体で行くつもりですか」
「……おう、今すぐダリアを取り返せば間に合うだろ?」
クロフォードは目元を袖で拭うと、呆れたように息を吐いた。
「止めても無駄なのでしょうね。あなたは自分一人で何でも決めてしまいますから」
「そんな支配的な旦那みたいな言い方しなくても」
「この旅で理解したので。あなたに必要なのは優秀な相棒です。単なるサポート役の助手などではなく、並び立って共に戦う戦友のような相棒が必要なのです。そして、それが務まるのは、とびきり優秀で極端に運転が上手な私を置いて他にいないでしょう」
「すげー上から目線なのは今は置いておくとして、何か策がありますって顔だな」
「銃撃戦に飛び込んでいったあなたをどうやって助けようかと頭を捻った結果、思いついたんですよ」
地下駐車場。彼女が指さしたものを見たグレイは、呆れて笑った。
「おいおい、やっぱりお前はロクな警官じゃねぇや」
×××
二十九階の一室。
ダイニングテーブルに座るジョンがイスに座らされたライツを見下ろす。
「ハービンジャーに滞在した、時の大統領が映画女優と逢瀬を重ねていた、という噂を知っているかね?」
「……」
「若き大統領と当時の大人気女優の不倫騒動。馬鹿げたゴシップではあるが、この噂は広く知られた……何故だと思う?」
「知らない」
「このホテルには秘密の通路があるという噂もあったからさ。歴代大統領やセレブ達が宿泊する格式高いホテルだからね、それくらいのことはあっても不思議ではないと思われたのだよ」
テーブルに置かれた四角い手提げバッグを撫でた。
「真実とは実につまらないものだ。まさか秘密の通路の正体が荷物用エレベーターだったとはね、何の意外性もなくて残念だ」
「でも、オジサンはそのおかげでお金を手にできた」
「そうだな、式典が終わってからまとめて持ってくると思っていたのだが、用意でき次第秘密のエレベーターで順次運ばせるとは、くくっ、余程君が心配なのだろう。私がこの三〇〇万デイルとダリア嬢と共に一足早く国を出る可能性を失念しているようだ」
ライツの顔から血の気が失せる。
「ふはははっ! そう不安そうにするな、思い付きの冗談だよ。くく、それにしてもハンマーの報告を聞いた途端、生意気なお口も静かになったものだ。それほどまでにイーサン・グレイに期待していたか⁉ 窓から突き落とされたとは何たる最期か! 彼の正体は気になるところだったが、もうどうでもいい!」
ジョンにとって最大の懸念はヴァルターが警察を頼ることだった。
だが、ホテル内でド派手に撃ち合っても警察官一人どころか、ホテルのスタッフ一人さえ見回りに来ない。
ジョンは確信していた。自分は逃げ切れると。
(五〇〇万デイルはヴァルターにとって大した額ではない、ましてや娘の命と天秤にかけられれば迷うことなく金を用意するだろう、そう踏んではいたが、こうも上手く行くとは……やはり私は幸運だ! 連邦警察に見つからず、上層階は改装中で人気はない! 風向きが私に向いている! 亡命が達せられれば、私は共和国の為に巨額を稼いだ伝説のスパイとして迎えられるだろう!)
彼の口が裂けんばかりに大きく歪む。
「君のお父上が残りの二百万デイルを運ぶそうだ。受け取りが完了次第、君は解放だ」
「逃げられるわけない」
「そう思うか?」
「連邦警察もホミア市警察もオジサンを捜してるってイーサンが言ってた! 私を誘拐したことも、このホテルに来たことも突き止めてるに決まってる!」
「そうかもしれない。だが、未だに私を射殺していない時点で、既に私の勝利は決まったようなものだ」
「どういう意味」
「私だってこのまま平穏無事に高飛びできるとは思っていないということさ。たとえ国家の犬にマークされていようともそれを潜り抜ける計画があるのだよ!」
勝ち誇った顔のジョンは鷹揚に両手を広げた。
「あんたはこの誘拐を冴えた計画と思ってるかもしれないけど、所詮はただの思いつき、欲張らずに黙って亡命してれば快適な人生が遅れたのに、残念だね」
だが、冷水を浴びせるようにライツが言った。
表情を切り替えるスイッチでもあるかのように、一瞬にしてジョンの顔が怒りに変わる。
ベルトとズボンの間に差した拳銃を引き抜くと、銃口をライツの額に押し付けた。
「自分の立場が分かっているのかね? 元々は我々の集まりを見たバーの接客スタッフは全て消す手筈だった。私の思いつきによって生かされているだけの存在のくせに、言葉を慎め」
「でも、今となっては人質として生きていてもらわないと困る。撃つ気もないのに自慢げに銃を抜くなんて笑えるね、大物ぶりたい下っ端のチンピラみたい」
直後、ジョンは空いた左手でライツの頬を叩いた。
興奮で震える唇を噛み、鼻を膨らませて深呼吸を繰り返す。
「その減らず口……あの男と話しているようで心底不愉快だ」
毅然とした態度で見上げる少女を見ると腹が立ってくる。
ジャケットの襟を正し、引き金を引こうとする衝動を押さえつける。
こちらが優位なのは確定的に明らかなのに、電話越しのあの男や、この少女と言葉を交わすと平静をかき乱されるような気分がして落ち着かない。
物怖じしない性格だとしても所詮は小娘。この状況に一ミリの恐怖もないわけがない。
にもかかわらずこの態度。
(追い詰めているはずのこちらが、なぜ追い詰められたような気にならなくてはならないのだ。支配するのは私だ、私だけが勝者だ!)
ジョンの瞼が痙攣し始めた。
「イーサンは死んでないよ」
「何だと」
「イーサンは誰よりもタフなの。あんたのちっぽけな脳みそじゃ想像もつかないほどね。それにコリンは凶暴だよ、あんたよりもずっとぶっ飛んだ警官なんだから」
「はははは! お嬢様と聞いていたがおつむの方はよろしくないようだ! ハンマーだけではない、私の部下もイーサン・グレイが落下するのを目撃している! そもそも高層階から落下して生きていられる人間などいるわけがない!」
「命を懸けた大プロジェクトなのに、現場でどんな問題が起きているかも把握できてないんだー。能力が低いのに偉そうで傲慢で暴力的、小物どころか馬鹿そのもの。そんなんだからスパイだってバレちゃうんだね」
心底馬鹿にしたように鼻で笑うライツ。
「黙れ小娘が! 生きてさえいれば人質の役割は果たせる、足の指の一本でも弾けば大人しくなるだろう!」
顔を真っ赤にしたジョンが銃口をライツの足に向ける。
だが、ライツは怯えを見せずに叫ぶ。
「知らないなら教えてあげる! 世界には特殊な体質を持った人間がいるの! そこにいるハンマーもウィドウもそう、怪力体質に耐毒体質、これだけ特殊な人間が目の前にいるのに、高いところから落ちて生きていられる人間がいるわけないなんてよく言えるね! オジサン、視力弱いんじゃない? それとも老眼⁉」
「本当にむかつくガキだ……大人を揶揄うとどうなるか、教えてやる必要があるらしい!」
「私の体質特性は直感だよ。私は初めから直感してる……イーサンを信じていれば大丈夫だってね!」
「このクソガキッ!」
ジョンが引き金を引こうとしたまさにその瞬間、
「ここでダリア・ライツを撃つことに意味はないはず」
ハンマーが横合いから、リボルバー拳銃のシリンダーを掴んだ。
「私の邪魔をするか!」
「オレの仕事はお前を守ること。改装中の階での銃撃戦に問題がなかったからといって、この部屋も同様だとは限らない。二十九階の工事は既に済んでおり、警報装置が作動するかもしれない。発砲するべきではない」
「ガキ一人連れて来るのにも手間取ったくせに私に意見するか!」
「オレ達の方法を無視して、踏切での暗殺を強要したのも、暗殺から誘拐に依頼内容を突然切り替えたのもお前だ。お前に振り回されて死んだスパークのようにはなりたくない」
「こっちは金を払っているんだ! それにスパークは勝手に死んだだけだろうが、それも私のせいか⁉ あぁ⁉」
飼い犬に手でも噛まれたような顔をして叫ぶジョン。
「オレ達は薄汚れてはいるが、奴隷ではない」
凄まじい握力に、拳銃のフレームがメキ、と音を立てる。
「ちっ、放せ! 役立たずのクソカスがぁ! どいつもこいつも最低限の働きさえできない無能ばかりだ! もういい! 適当に連れてきたチンピラの方がまだ使える!」
リボルバーを握ったハンマーの指の間から血が滴り落ちた。
「オレ達の役目は終わりだな」
「超能力者気取りのイカれ野郎共め、消え失せろ! 私がこの国を離れることをせいぜい喜べ! 本来なら一人残らず皆殺し——」
ジョンが負け犬じみた、三下の脅し文句を吐く瞬間、
——雷が落ちたような衝撃が、爆音とともに部屋を揺らした。
部屋にいる全員が身を強張らせ、廊下に繋がる扉を見る。
腹の底に響く唸り。耳だけでなく骨で感じる振動。グラスの中の水面が波打ち、シャンデリアの飾りが左右に振れている。
「——、——! ——!」
廊下で、警備に就いているチンピラ達の声にならない叫びがあった。そこに銃声まで混ざる。
遠雷のような響きが力強さを増している。
扉の向こう、静謐なホテルに似つかわしくない何かが来る。言葉も暴力も、銃弾さえも無視した何かが廊下を進んでいる。
「な、何が——」
「決まってるでしょ」
ダイニングテーブルから滑り落ちそうになるジョンに、ダリアは笑って言った。
「イーサンとコリンが来たんだよ」




