(20)港町
あれから今日で七日目である。機関車は時々物資を補給する以外はずっと走っているというのに、海は全く姿を現さない。我が母国であるキューソロジアがこんなにも広いだなんて思いもしなかった。勿論、知識として数字としてなら知ってはいたが、いざ体感すると肌で凄まじいと感じる。これでもキューソロジアは他の国々と比べると国土が小さい方なのだ。僕は世界の大きさに恐怖を覚えた。
一体この世界はどれ程までに広いのだろうか。世界は人間が支配するには広すぎるんじゃないだろうか。それなのに領土を巡って争うなんて、人間は果たして何が欲しいのか。何処を目指しているのか。今や僕には、人間は目的も無しに、気の向くままに突っ走っているように思えてならない。だが、思えば人間は未知を理解したいと望む生き物で、だとするなら、それは至極真っ当なことなのかもしれない。今日の愚かな人間活動こそが在るが儘の姿なのかもしれない。それならば、理想郷は成り行き任せの生半可では実現し得ないのかもしれない。と、僕はそう思う。そんなことに思いを巡らす他ないほど、僕は本当に暇なのである。
僕は暇を持て余すのは得意な方で、それは嘗ての幽閉生活に於いて唯一培われたものであるように思うが、そんな僕でさえ暇が苦痛に成って久しいときている。何せ、寝ること座ること景色を眺めること以外に何も出来ない狭い空間に実質的に閉じ込められているのだ。それも七日目である。流石に気が滅入る。僕は嘗ての幽閉生活がかなり良質で良心的な幽閉生活であったのだと思い知った。などと、僕は思いを巡らすことで時間を浪費するのが得意なのだが、僕の正面で寝転がっている人はそうでは全くないようだ。
「海まだぁー?」
トモエさんは檻に入れられた猛獣のようだった。ベッドに全身を委ねてピクリとも動かず、食み出した腕はだらしなく垂れ、足は長らく貧乏揺すりを続けていた。要するに、不機嫌極まりない。
「ねぇ海まだぁー?」
トモエさんは気力の感じない曇った瞳で天井を見詰めながら、大変等閑に聞いてくる。
「そろそろなんじゃないですか?今日が七日目ですし」
かく言う僕もこんな魂が抜けて理性が崩れかけているトモエさんの相手に飽き飽きしていた。この質問ももう何百回目になるのか分かったもんじゃない。
「ホントに今日が七日目なの?海ってこの世にホントにあるの?」
とうとう変なことを言い始めた。トモエさんはこれでも置換の異能を使って何度か気分転換しにこの部屋から出ている。それでもこの有様なのである。きっとこの人は留まってはいられない宿命なのだろう。
「海はありますよ。もう少しで見えてくる筈ですから」
ていうか、何で僕が年上のトモエさんを宥めなくちゃいけないんだ。いつもは上から小馬鹿にしてくるくせに。
「――ねぇ、暇だよ。リオー」
「そうですね」
「何か面白いことやって」
「えぇ?」
「私を楽しませてみせて」
何を言い出すんだ、この人は。
「いや、無理ですよ」
「なーんでぇー?」
「だって僕、つまらない人間でしょう?」
ごく自然に口を吐いた言葉だが、自分で少し傷付く。
「えぇー。うーん。じゃあ、お姉さんが楽しいコト教えてあげようか?」
トモエさんは垂らしていた手を僕に伸ばして、僕の左脇腹にぴたりと触れた。
「え?あの、トモエさん……?」
僕は途端に恐ろしくなって、トモエさんの顔を覗くと、トモエさんは普段とまるで違う、気怠げでミステリアスな表情を浮かべていた。
「ど、どうしたんですか?いったい何を……?」
「ナニって、何だと思う?」
いつも見上げていたトモエさんの顔が下から僕に迫る。僕は思わず背筋が伸びる。トモエさんは口角をひたりと上げ、活気のない蕩けるような黒い瞳が睫毛の奥から僕だけを見つめている。僕はその瞳に吸い寄せられる。
「お姉さん暇で仕方ないんだよ。だから可愛いリオくんで遊ぼうと思ってさ。どうやって弄ばれたい?優しく?それとも、キミの尊厳を踏み躙るみたいにめちゃくちゃにしてあげよっか?」
「え……?」
――尊厳を踏み躙るようにめちゃくちゃに?何だそれ?それって、僕はどうされてしまうんだろう……?
「あ、ドキドキが早くなった。やっぱりリオは、意地悪される方が好きなんだ?」
「そ、そんなことはっ……!」
「ん?そんなことは?なに?」
トモエさんの上目遣いが柔らかく恐喝的に僕を問い質す。それなのに、僕はその瞳から目を離せない。
「――そんなこと……」
ダメだ。頭が回らない。言葉が出ない。少し触れられているだけなのに、全身が力んで身動きも取れない。……でも、何故か心地がいい。
「ぼ、僕は……」
僕は口の乾燥に思わず喉を鳴らした。鼓動の忙しなさに息を吸った。その時だった。トモエさんが起爆したように急に体を起こしたのは――。
「……潮の匂い。――今、潮の匂いがした!」
そこに先程の気怠げでミステリアスなトモエさんはもういなかった。表情を太陽のように輝かせ、活力漲る身の熟しで車窓に食い付くと、トモエさんは窓を勢いよく開け放った。途端に吹き込む風には、確かに潮の香りがした。そして――。
「海だ!海だよ、リオ!ほらっ、見て!」
僕は促されるまま流されるまま窓の外を覗くと、真っ青な海が視界一杯に広がっていた。
「本当ですね」
「ねっ!やっとだよ!やっと海だぁー!!」
トモエさんは両の拳を高々と上げて狭い客室で狂喜乱舞した。僕はその勢いに気圧され、席に腰を落とした。車窓から吹き込む潮風が、僕の熱を丸々全部持ち去っていった。
「しょっぱい……」
もし、潮の香りが届かなかったら、僕はどうされていたんだろう。その像を成さない妄想が、脇腹に残った感触と共に取り憑いていた。まぁ、どうせいつも通りケタケタ馬鹿にされたに違いないだろうけど。僕は魂が抜けたように天井を見上げた。
昼過ぎ――。鉄筋とコンクリートとトタン板で形作られたカピバ駅に到着する。港町の駅というから、もっとこぢんまりとした質素な駅を想像していたが、実際にはターミナルが十線以上もある宛ら工場のような駅だった。壁も床も天井も、空気でさえも灰色が立ち籠め、絶えず行き交う屈強な人々は列車の荷台に物資を載せ込み、列車は次から次へと到着しては出発し、その度に吐き出される汽笛と黒い煙が忙しなく駅舎の高い天井に木霊する。
「いやぁ、やっと終わったぁ~」
トモエさんは両腕を高く伸ばし、今にも飛び立ってしまいそうだった。
「長かったですね」
「ホントに!でもでも、此にて私は晴れて自由の身だぁ~!」
まるで縁起の悪い言い方だが、トモエさんの表情の晴れやかさに僕は安堵していた。
「さぁ、早速腹ごしらえをしに行こう!!」
駅を出て、町を歩く。だがしかし、何処を探しても食事処が見当たらない。歩けど進めど、目に入るのは工場や団地などの大きくて灰色の角張った建物ばかり。乱立する煙突から数多の黒い煙が立ち上り、空はくすみ、思えば植物の緑をこの町に来てから一度も見ていない気がした。道路は広く馬車が行き交い、轍が幾重にも重なり、そしてそれ以外なにもない。思っていた港町とは何もかも違う。僕らは灰の町を突っ切り、気付くと海岸まで来ていた。海だけがさざめき煌めき、この町に唯一の彩りを与えているように思えた。
僕らはそれから海岸線に沿って進み、工業地帯を抜けた廃れた場所にやっと食事処の看板を見付けた。久々に見た木造の建物だった。
「ごめんくださーい!」
トモエさんが暖簾を掻き分ける。だが、店内には誰もいない。返事もない。ただ、沢山の机と椅子と、カウンター越しのキッチンのみが僕らを待ち構えている。
「ごめんくださーい!!」
トモエさんは一度目より大きな声で呼び掛ける。されどやはり返事はない。
「何で誰もいないんだよ」
トモエさんは空腹で少し苛立っていた。
「今日は休みなのかもしれませんね」
「でも暖簾は垂れてたよ?」
「確かに……」
そう言われると、確かにそうなのだが……。しかし、店内の様子はとても開店しているとは思えない。
すると、店の奥から物音が聞こえてきて、間もなく恰幅の良い男性が出てきた。男性は活気の抜けた疲れた顔をしていた。
「何の様だい?」
「何のって、昼ご飯食べに来たんですけど!?」
トモエさんが少々攻撃的にそう言うと、男性は表情を変えずに顔を俯かせた。
「そうか。お客さんだったか……」
すると男性はキッチンに向かった。
「つまらないものしかないが、それでも良かったら――」
「もちろん頂きますとも!」
トモエさんは食い気味でカウンターの席に座った。
店主の男性は手慣れた動きで食材の下拵えを進めていく。その手捌きは無駄がなく、実に見事なものだった。
「お客さんは何処から来たんだい?」
店主は調理を進めながら話し掛けてくる。
「デッカい城が建ってるトコです。えーっと……」
「デッパリアです……」
「そうそう、デッパリア!」
「へぇー、そんな都会からわざわざねぇ。何でこんな町に?」
「まぁ、自分探しの旅みたいなものですかね~」
「そいつはいいねぇ」
会話はそこで一度止まる。店主は手早く調理を進めていく。
「二人は姉弟かい?それとも従兄弟とかか?」
「あぁー、まぁまぁそんなようなトコですかね?」
「成る程ねぇ。そんじゃ深くは聞かないでおくとするよ」
気付くと店主は鉄の鍋を振るい始める。香ばしい音で会話は出来なくなる。鍋からは水滴が熱で弾け、熱気が白く渦巻き立ち上る。店主の振るう鉄製の杓子が鍋の内側に繰り返し当たり、小気味よく響く。次第に香りが溢れ、店中に、そして僕の鼻腔にまで満ち、空腹を残酷に刺激する。
カウンターに陶器の器が続々と並ぶ。大小様々な器の上には、ひらひらとはためく一筋の白い湯気が立って、どれも壮絶に食欲をそそる。だが、その絶景に僕は違和感を感じる。どの器の上にも魚は疎か、海由来のものが一つも見当たらないのだ。僕は咄嗟にトモエさんの横顔を覗くと、トモエさんの表情も同じ違和感を感じているようだった。
「――旦那、海鮮は?」
トモエさんは店主にそう聞く。すると店主は目を俯かせ、溢れ出る溜め息を鼻から大きく静かに噴き出した。
「……悪いね。海鮮は出せない」
「なんで!?」
「海が、死んだからだ」
その言葉に、僕らの思考と体は凍り付く。
「死んだ?」
「ああ。二人も見てきたろ?この町の今を」
そう言われて真っ先に浮かぶのは灰色だった。この町に蔓延する灰色の景色だった。でも海だけは鮮やかに、そう見えたのに……。
「何かは知らない。だが、あの工場から垂れ流される“何か”に海は穢され、汚され、そして俺らは海の恵みを得られなくなったんだ」
店主は一度上を向いてから、僕らを安心させる為か申し訳なさを伝える為か笑いかけ、それから再び目を伏せた。
「初めは貿易港になる事にみんな希望を見ていたんだ。反対する人もいたが、それでも俺らはこの村が今より栄えるんじゃねえかって思ってさ。それで貿易港になる事を受け入れた。だけどよ、その判断がこの海を殺したんだ」
店主は過去を覗くような目で話を続ける。
「貿易港になって初めは確かに潤った。人も増えて、線路も繋がって、いい思いは沢山した。それですっかり目が眩んだ。当然の流れとして、この村は開発され工場が建ち始めた。そこからはもう止め処なかった。工場が次から次へとと建っていって、当たり前だった景色が変わった。先祖代々の土地を大金と引き替えて村を出て行く奴も沢山いた。変な病気や害虫も入って来て、何より海が汚染されていった。漁師は食えなくなって、船を捨てて工場で働き始めた。今じゃ皆、もう何処で何してるかさえ判らねぇんだ」
それは店主の懺悔の様だった。それでいて、問いだった。抱えきれない「どうして」と「どうすれば」が、口調の節々・仕草・目遣いからひしひしと感じて、食欲さえ失せるほど僕の心を揺さ振った。
「ここも元は漁師で賑わってたんだぜ?今じゃ見る影もないが、鬱陶しい程みんな馬鹿騒ぎしてたんだ」
その思い出を打ち明けた時だけ、店主の本当の笑顔が透けて見えた気がした。
「悪いな。つまらない昔話聞かせちまってよ。海鮮が出せねえのはそういう訳だ。まぁ不味くはねぇ筈だからよ、是非食べてってくれ」
店主はそう言って再び僕らに笑いかけた。僕はそれに笑顔で応じるので必死だった。手一杯だった。
店を出て、振り返る。その店は周りを空き地に囲まれる中、たった一軒だけ建っていた。その姿があの店主に重なって、とても見ていられなかった。見ていられないけど、目を逸らしても、そこから離れることが僕には出来なかった。
「リオ、行くよ」
隣のトモエさんは先を勧める。
「はい……」
僕が返事をすると、トモエさんは先を歩き始める。僕はもう一度店の姿を捉えてから、置いていかれまいと駆け足でトモエさんの後を追った。トモエさんは振り返らなかった。少し俯き気味で、足早な訳ではなく、かと言ってとろとろと歩いている訳でもなく、兎に角とても話し掛けられる雰囲気ではなかった。店の中では気丈に振る舞っていたんだ。でも、トモエさんも平気ではなかったのだ。
僕はトモエさんの後を歩く。僕は海を見据える。海は相変わらず綺麗に見えた。とても店主が言うように、汚れているとは僕には思えなかった。それから僕は内陸の工業地帯を見上げた。きっと僕も、この港や工場にお世話になっている筈だ。僕の生活は、この村の人達の犠牲の上に成り立っていた。もしこの港と工業地帯が無ければ、多くの人の生活が困窮するのだろう。人口の増え続ける帝都デッパリアを支えるには、この港と工業地帯が必要になる。だが、それにはこの村の犠牲がいる。もしこの村がそれを拒んでも、またどこか他の村が生け贄に選ばれる。でももし貿易港と工業地帯を設けなければ、この国は内側から崩れ出すか、それを待たずに他国に侵略されてしまうだろう。全てが一連の流れの中で、否応も無しに進んでいる。仕方なく進んでいく。誰が幸せになる訳でもなく、誰が望んだ訳でもなく、ただただ仕方なく、疾っくに我らの手を離れて、勝手に勝手に進んでいく。この世界はどこに向かうのか?何処へ向かってしまうのか?僕はそれがとても恐ろしく思う。終いには全てを破壊し尽くして、我らの子孫は到頭生きていけなくなるのではないか?自ら、自らの種族の首を絞めて滅びるのか?それも自ら自身ではなく、今は無き自らの子孫の首を絞める事によって、我らは今を繁栄している。そんな愚かしい、馬鹿げていて恥ずかしい滅亡に我らは自ら進んでいるのではないか?そんな思いが堂々巡りに僕の脳裏を練り歩いていた。だが、だからといって、僕に何を出来ようか。流れは止められない。誰にも。救いがない。救いようがない。救われない。僕らは。そんな考えが僕の中に明確に芽吹いた。
「……リオ」
トモエさんは留まる事なく振り向く事もなく唐突に僕の名を呼んだ。
「はい……」
返事をしても、トモエさんは暫く何も言わなかった。
「――いや、何でもない……」
そう言ったトモエさんの手は強く握り締められていた。まるで何かを握り潰すように。
「私たちは忘れないでいよう。この村の事を」
「はい」




