約束
明けて早朝、中沢孫右衛門は、納屋で膝をかかえたまま眠ってしまった琴を起こした。
「そろそろ出よう」
琴は、沈んだ顔で中沢を見上げると、一つ頷いた。
「これからのことは心配しなくていい。君一人くらいは面倒をみられる」
中沢は、なるべく優しい笑顔を作って言った。
琴は立ち上がり、結局使わなかった布団をたたみ始めた。
中沢は、しばらく黙ってその様子を眺めていたが、やがて決心したように尋ねた。
「どこで剣術を習った」
琴は、振り返ったが、哀しそうな眼をするばかりで何も言わない。
「私はこれでも上野国に小さな道場を持っててね。ちょっと気になっただけだ」
中沢は弁解するように言った。
「さあ、顔を洗ってきなさい」
琴は納屋を出ようとして、立ち止まった。
「剣は父に学びました。お侍さんの刀、父上のと同じ模様が入ってる」
「ちょっと、あんた」
表戸を開けて、出て行こうとする中沢の背中に、声が掛かった。
振り返ると、紙包みを持った女将が例の不機嫌な顔で立っていた。
「火鉢の横にこんなもんが置いてあったんだけどね」
「おばさん。それは、政吉から預かった金だ」
「何度も言ったはずだが、こんなもんは受け取れないよ」
「俺だけが生き残って、最後の約束も果たせないんじゃ、俺はあいつに合わせる顔がない」
「別にあんたが気に病むことじゃないでしょ。悪いのはうちの馬鹿息子だ。とにかく、あれが死んでいようが、そんなことは関係ない。あたしは、金輪際あのヤクザ者とは縁を切りたいんだ」
「もっともだが、あいつの気持ちを汲んでやってくれませんか」
中沢は懇願した。
女将は、傍らで黙って話を聞いていた琴に眼を向けた。
「お琴、あんたには、それなりに金が掛かってる。わかってるね?」
「はい」
琴は答えた。
それは本当だった。
「遊郭には遊郭の決まりってもんがあって、女郎がこの街から出て行けるのは、死んだときか、旦那衆に身請けして貰ったときだけだ」
「はい」
「この金は、あんたの身代金として貰っとこう」
「…女将さん」
琴は言葉を詰まらせた。
いつの間にか、禿や新造と言った若い娼妓たちも起き出してきた。
紅梅や亀の姿もある。
「あんたなら、この何倍も稼げたのに、割に合わないよ」
「すみません」
琴は泣きながら、初めて笑顔を見せた。




