第70話 エピローグ ―王都の高台で―
夜の王都は、騒がしかった。
戦いが終わってから数日。王城の外では壊れた石畳の補修が続き、外壁の上では兵達が交代で見張りをしている。
王になったばかりのアリスの机には、朝から晩まで書類が積まれ続けていた。ようやく最後の一枚に目を通し終えた時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……疲れた」
誰もいない執務室で、小さく呟く。
王になってからまだ数日しか経っていない。それなのに、もう何年も眠っていないみたいに身体が重かった。
けれど、不思議と嫌じゃない。逃げる気もない。
ここはもう、自分が立つべき場所だと知っているからだ。
机の上にペンを置き、アリスは大きく息を吐いた。
「少しだけ」
そう言って、外の空気を吸いに出た。
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向かったのは王城の高台。王都を一望できる場所だ。
冷たい風が頬を撫でる。
見下ろした王都には、あちこちに灯りが残っていた。仕事をしている者。見張りをしている者。遅くまで鍛冶場を回している者。泣いていた子どもをあやす母親。
戦いは終わった。だが、ここから本番だ。
ここから立て直さなければならない。
「まだ起きてたのか」
背後から声がして、アリスは振り返った。
いつもの軽装で、剣を腰に携えているラズ。
相変わらず気配が薄く、その割に最近は見つけるのが簡単になったのは、気のせいではないだろう。
「それ、こっちの台詞よ」
アリスが言うと、ラズは肩をすくめた。
「見回り中だ」
「便利な言葉ね」
「事実だ」
事実なのだろう。
でも、それだけじゃないことも、もうアリスにはわかっていた。
ラズは柵の方へ歩いてきて、アリスの隣へ並ぶ。
二人で王都の灯りを見下ろした。
少しの間、言葉はない。それが気まずいと思わなくなったのは、いつからだったのだろうか。
「そういえば、シグレから連絡が来たわ」
アリスが先に口を開く。
「魔物の討伐は順調そのもの。あと数カ所で戻れるみたい」
「イオリはどうしてる?」
「いっぱい働かせてるって。ラズよりシグレの方が厳しいらしいわよ?」
「それはそうだろ。俺は優しいからな」
「よく言うわ」
アリスが小さく笑う。
それから少しだけ、息を整えた。
言おうと思っていたことがある。最終日のあの日、民の前に立つ前にも、戦いのあとにも、ちゃんと言えなかったこと。
「ラズ」
「なんだ」
「前に言ったでしょ。全部終わったら、もう一回言うって」
ラズがゆっくりとアリスに向き直る。
アリスは視線を逸らさなかった。
「ラズ、その……。私は、ラズのこと」
「待て」
短く、ラズが言った。
アリスは目を瞬かせる。
「ラズ?」
「言いたいことはわかる」
「だったら」
「だからこそ、今は聞けない」
その言葉に、アリスはわずかに眉を寄せた。
止められ、傷ついたというより、少し腹が立った。不満を浮かべる表情だ。
ここまで来て、またはぐらかすのかと。
しかしラズは逃げなかった。真っ直ぐ目を見つめたまま、口を開く。
「アリスはアルゲンティアの王だ」
風が、二人の間を抜ける。
「王都も、バステリオンも、セレスティアも……。全部を背負う立場になった。アリスの気持ちを今ここで受け取るわけにはいかない」
アリスは複雑そうな表情を浮かべるも、静かにそれを聞く。
「それに対して、俺は名も無い騎士にすぎない」
「そんなこと」
「事実だ。だから、今はまだ聞けない」
アリスは唇を噛んだ。
反論したい。そんなこと関係ないと言いたい。
だが、ラズが言っていることの意味もわかってしまう。
わかるからこそ、悔しい。
「じゃあ、ずっとこのままなの?」
思わず、そんな言葉が漏れる。
「王でいる限り、私は言っちゃいけないってこと?」
「そうは言ってない」
ラズの返事は、思っていたよりずっと早かった。
「ただ」
そこで一度、ラズは言葉を迷わせた。
考えるように視線を彷徨わせてから、再び目を合わせて伝える。
「アルゲンティアが平和になったら、その時は俺から言う」
アリスの心臓が、小さく跳ねる。
一瞬、風の音すら消えた気がした。
アリスは何も言えなかった。ただ、ラズの顔を見る。
いつもと同じように静かな顔。でも、その言葉だけは、冗談でも誤魔化しでもなかった。
「……ずるいわね」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「そっちが言うの?」
「その方が嬉しいと思ったんだが」
「……そうね。その方が嬉しいかも」
想像して、思わず笑みが零れてしまう。
「なら、逃げないでよ。終わるまで」
力強く伝える。
ラズは、余裕の笑みを見せて答える。
「俺がアリスから逃げたことがあるか?」
その返しに、アリスは瞳を閉じる。
「俺はずっと、アリスを隣に立ってたぞ」
今までを振り返り、そして、ゆっくりと笑う。
「……なかった。貴方は一度も私を見捨てなかった」
「そうだ。俺はアリスを見捨てない。これからも、ずっとだ」
それだけの言葉。だが、今はそれで十分だった。
今すぐに何かが変わるわけじゃない。
明日もアリスは王として机に向かい、ラズもまた騎士として動く。シグレ達もノースホルムから帰れないし、王都も、バステリオンも、まだ立て直すことばかりだ。
それでも、未来に置いた約束がある。
そのことが、アリスにとって、心強かった。
「だったら」
アリスは、もう一度王都の灯りを見下ろす。
「早く平和にしないとね」
「そうだな」
「忙しくなるわよ」
「わかってる」
「手伝ってよ」
「最初からそのつもりだ」
当たり前のように返すラズに、アリスはまた少し笑った。
少し、迷って。それから、そっとラズの袖をつまむ。
引き留めるほど強くはない。ただ、ここにいると確かめるように。
ラズは、何も言わなかった。振り払うこともしない。
むしろ、少しだけ身体を寄せるようにして、風が直接アリスに当たらない位置へ立つ。
「……なによ」
「風が強い。冷えたら業務に支障が出る。俺がアメリアに怒られる」
「……そう。なら、そういうことにしておくわ」
「そうしておけ」
王都の夜景が、風に揺れる。
壊れた街は、まだ完全には戻っていない。けれどその灯りは、前よりもずっと温かく見えた。
アリスは柵に手を置き、まっすぐ前を見た。
王としてやるべきこと。守るべき人達。立て直すべき国。
その全部がある。
王都の上を、冷たい夜風が吹き抜ける。
けれど、もう寒くはなかった。
アルゲンティア王国の新しい日々は、まだ始まったばかりだ。
王の仕事も、バステリオンの魔物も、片付いていない問題は山ほどある。それでも、戦いの先にある約束を信じられるだけで、前よりずっと未来が明るく見えた。
冷たい夜風の中、二人はしばらく並んで王都を見下ろしていた。
その先に待つ平和を。
そして、その先で交わす言葉を、同じように思い描きながら。




