とある半人前修復家の決意 ~春の日の門出~
四月一日。
私と先生と和人さんが浜名市立中央図書館でお世話になり始めて、丸一年が経った。
丸一年……。つまり私たちの契約職員としての雇用期間も、昨日でめでたく終わりを迎えたということだ。
水城文庫の修復作業も、先日、どうにかこうにか期間内に無事完了した。
そこで一足先に撤収準備を終えた私は、外に出て図書館の建物を見上げていた。
この一年、毎日のように見てきたこの建物とも、今日でお別れとなる。もちろん、仕事や私用でこれからも幾度となく訪れることになるだろうけど、何だか少し寂しい気分になった。
だってこの図書館は、私に色んな初めてを経験させてくれた場所だから……。
一昨年の夏、私はこの場所で先生と出会った。
去年の春、私はこの場所で初めての修復を行った。
去年の秋には、先生と同じ場所にも立たせてもらえた。
さらに冬には、先生とすれ違い、一度は破門された……。
でも、おかげで修復家として生きるとはどういうことか、知ることができた。
全部、この図書館であったことだ。私が刻んだたくさんの初めてを、全部この場所が受け止めてくれた。
私にとってこの図書館は、人生の節目と門出を与えてくれた特別な場所なのだ。
「今日までありがとうね。それと、行ってきます!」
お世話になった建物へ、誠心誠意の感謝を込めて頭を下げる。
するとタイミングを見計らったかのように、見知った顔が図書館の中から出てきた。
「菜月、こんなところにいたんだ」
「あ、先輩。お疲れ様です」
軽く挨拶すると、先輩は「お疲れ~」と言いつつ、私の隣へやって来た。
「もう片付けは終わったの?」
「ええ、私と和人さんの分は。けど、先生の片付けが少し手間取っていて……」
研修室の惨状を思い出し、思わず苦笑する。
先生は相変わらず片付けが苦手で、しまっていくはずなのに、なぜかどんどん散らかっていっちゃうんだよね。
最初は私と和人さんも片付けを手伝っていたんだけど、私たちがあーだこーだと言っていたら、先生、すっかりへそを曲げちゃって……。「残りの片付けは儂一人でやるから、お前たちは外で待っておれ!」って、追い出されちゃったのです。
で、和人さんは新工房主として改めて挨拶回り、私はここで見納めとなる図書館を見上げていたというわけ。
「先生って、仕事中なら机周りも整然とさせているんですけどね。仕事を離れると、とことんズボラなんですよ」
「豊崎先生も、結構可愛いところがあるんだね」
「当然じゃないですか。何たってうちの先生は、愛されキャラですからね!」
先輩に向かって、自慢げに胸を張る。
私の様子が面白かったのか、先輩は「この先生大好きっ子め」と言って笑った。
「でもまあ、よくよく考えてみると、もう菜月と毎日は会えなくなるんだよね。あんたの賑やかな声が聞けなくなると思うと、ちょっと寂しいかな」
と思ったら、先輩が急にしんみりした顔になってしまった。
先輩に会えなくなって寂しいのは、私も一緒だ。
だけど、ううん、だからこそ、こういう時は笑っているべきだよね。
「むふふ。何言ってんですか、先輩。先輩が会えなくて寂しいのは、私よりむしろ和人さんの方でしょ」
「んなっ!」
ちょっとひやかすように言ってみると、先輩の顔はみるみる赤くなった。
うむ。作戦大成功。しんみりした空気は一気に吹っ飛んだ。
「先輩、すっかり恋する乙女って感じですね。可愛いなぁ、もう」
「菜月……。あんまり調子に乗っていると、私も怒るよ」
「すみません。謝りますから、睨まないでくださいってば」
真っ赤になってこぶしを小刻みに震わせている先輩を、笑ってやり過ごした。
実は先輩と和人さん、先月の頭辺りから付き合い始めちゃったんだよね。
今までそんな素振りは見えなかったから、そりゃもう最初は驚きましたよ。
気になって付き合い出した経緯を聞いてみたら、これまたびっくりだった。先輩と和人さんが仲良くなったそもそものきっかけは、私だったらしい。
何でも、破門された私のことを二人で心配する内に、心の距離が急接近してしまったんだとか。
二人曰く、「手のかかる妹分を持った者同士、何か意気投合した」とのことだ。
私にとっては何とも不名誉極まりない理由だけど、先輩と和人さんには色々迷惑をかけたからね。このくらいのピエロ兼恋のキューピットは、お安い御用というものだ。
先輩と和人さんが幸せになることを、二人の妹分として心から願うとしよう。……というか、喧嘩とかはホント勘弁してほしいな。板挟みにされそうだし……。
「まあいいわ。ともかく、これからも頑張って修業しなさい。もう破門されんじゃないわよ」
「先輩も司書のお仕事、頑張ってください」
差し出された先輩の手を、しっかりと握り返した。
これは誓いの証だ。次にここで会う時は、お互い今よりも成長した姿を見せ合おうという約束の握手だから。
「おい、菜月。そろそろ挨拶は済んだか」
「あ、先生! 和人さんも!」
先輩と健闘を誓い合っていたら、聞き慣れた声が耳を打った。
振り返れば、先生と荷物を抱えた和人さんがそこに立っていた。どうやら、先生も出発の準備が整ったらしい。
「片付けは、ちゃんと終わらせられたんですね」
「当然だろう。儂を誰だと思っているのだ。あんなもの、儂の手に掛かれば造作もない」
先生の得意げな物言いに、私はたまらず吹き出しそうになってしまった。
でも、またへそを曲げられちゃったら敵わないからね。気合で乗り切る。
ふと先生の背後を見れば、和人さんも『よく言うよ』という顔をしていた。
「豊崎先生、この一年間、本当にお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ君には世話になった。ありがとう、石田さん。それと、この馬鹿孫のことを、これからもよろしく頼むな」
「おい、じいちゃん。誰が馬鹿孫だ、誰が」
「はい。任せてください」
「って、お前も何認めてんだよ、葵」
にこやかに会話を交わす先生と先輩の傍らで、和人さんが疲れたように溜息をついた。
そんな和人さんの仕草が無性におかしくて、私たちは声を上げて笑う。
最後は当の和人さんまで釣られて笑い出し、春らしい明るい歓声が私たちを包んだ。
「んじゃ、そろそろ行くとするか。じいちゃん、菜月、車回すから図書館の正門前で待っていてくれ」
「私も、そろそろ仕事に戻ります。皆さん、お気をつけて。菜月、じゃあね」
「はい。わざわざお仕事を抜け出してきてくれて、ありがとうございました」
先輩と和人さんを見送り、図書館の入り口前には私と先生だけが残された。
よくよく考えてみると、私と先生が二人きりになるって、かなり久しぶりだ。破門騒動の後では、何気に初めてかもしれない。
「儂もまた、ここから歩き始めるのだな……」
「え? 先生、今、何か言いました?」
珍しい状況の感慨に浸っていたら、横で先生が小さく何か呟いた。
首を傾げながら聞き返してみたけれど、先生は「何でもない」と首を振るだけだった。
「それはそうと菜月、工房に戻ったら、すぐに修業を再開するぞ。お前には、まだまだ教えねばならないことが山ほどあるからな。一切手加減はせんから、覚悟しておけよ」
「先生こそ、教えている途中でへばらないでくださいね。私だって教えてもらいたいことは、まだまだ山ほどあるんですから」
発破をかける先生に、私も挑戦的な視線で応える。
そしたら先生は、「まったくこの馬鹿弟子は、口ばかり達者になりおって……」と苦笑しながら、私に背を向けた。
「では、そろそろ行くとするか。あまり和人を待たせるわけにはいかないからな」
「了解です!」
正門へ向かって歩き出した先生を追いかけ、横に並ぶ。
ふと横を見れば、穏やかな先生の顔がそこにあった。
今はこうして、並んで歩いているだけだけど、いつの日か修復家としても、こうやって並び立てるようになってみせる。
ううん、それだけじゃない。私はいつか必ず、先生を超える修復家になるんだ!
だって、それが先生との、そして私自身との約束だから。この先にどんな険しい道が待っていたって、私は絶対に前へ進むことをやめたりしない。
すべての始まりの場所へ別れを告げ、私は先生と一緒に門の先へ――果て無い道の第一歩を踏み出した。
〈了〉
参考文献
アニー・トレメル・ウィルコックス著・市川恵里訳『古書修復の愉しみ』白水社,2004
遠藤諦之輔著『古文書修補六十年 : 和装本の修補と造本』汲古書院,1987
中藤靖之著・神奈川大学日本常民文化研究所監修『古文書の補修と取り扱い』雄山閣出版,1998
府川次男著『和装本の作り方』綜芸舎,1989
「防ぐ技術・治す技術 : 紙資料保存マニュアル」編集ワーキング・グループ編『防ぐ技術・治す技術 : 紙資料保存マニュアル』日本図書館協会,2005




