明智軍、南下ス……あれ?
明智光秀は天正3年(西暦1575年)7月3日、惟任の家名と日向守の官職を織田信長より賜っていた。
「おいハゲ鼠。頭の良いお前なら、この意味が分かるよな」
ニヤリと笑う信長公の言葉にハゲで鼠に似た顔つきの光秀は答える。
「成功報酬の手形、で御座いましょうか」
ポンと膝を叩いて信長公は立ち上がると光秀に言った。
「励めよ」
「御意」
平伏する光秀の脇を機嫌良く信長公は通り抜けて行く。
豆腐メンタルと言う言葉がある。それは打たれ弱い根性無しの生きる価値の無い崩だ。光秀は違う。
主君の期待に応えようと光秀は丹波攻めで励んだ。光秀を支える重臣は明智左馬助秀満、斎藤内蔵助利三、溝尾庄兵衛茂朝等の名将揃い。戦働きで明智軍に不安は無い。
「おいハゲ。猿が見え透いたごますりで泣きついて来おった」
信長公は光秀に書状を見せた。
「筑前殿で御座いますか」
筑前守、羽柴秀吉は中国攻めで山陽道攻略の先鋒を命ぜられていた。そして現在、備中の高松城を攻囲している。敵の守将の清水宗治は頑強に抵抗し、羽柴軍を寄せ付け無かった。
「やる事は分かってるな」
「毛利の援軍を阻止し御味方の進撃を援護せよ。で御座いましょうか」
信長は鼻を鳴らして意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前の領地は召し上げる。行け」
帰る場所は無い。その分だけ、自分の力を誇示し武勲をあげて来いと言う発破をかけられたのだ。
胸を熱くして光秀は馬を走らせた。
天正10年(西暦1582年)5月17日、中国攻め参加を命じられた光秀は戦の準備に取りかかる。
「急な出陣で御座いますな」
秀満の言葉に光秀は具足を身に付けながら言葉を返す。
「そうでもなかろう。上様は毛利征伐を前々から決められていた」
池田恒興、中川清秀、高山重友と言った諸将も先手として出陣を命ぜられている。信長自らが出馬する大戦だと光秀には理解出来た。
「戦働き次第で恩賞は思うままよ」と家臣を鼓舞した。何しろ中国の先には九州が、日向の国が待っているのだ。奮起して近江、丹波の所領34万石から動員された兵力は13,000人と大盤振る舞いだった。
かくして6月1日の夜半、亀山城と坂本城より集結地に向けて軍勢が出発した。暗闇の中に松明の篝火が用意されていた。先手として出発した斎藤利三の手配だ。
「利三め、気が利いておるな」
6月2日に日付が変わる頃、老ノ坂が見えてきた。
「むっ、面妖な」
突然、周囲の景色が揺らぎ始めた。次の瞬間、明智軍の長い隊列が姿を消したのであった。
†
昭和16年(西暦1941年)、邪悪な大日本帝国は暗黒の野望に囚われ、小癪にも偉大なアメリカ合衆国や大英帝国に牙を向いた。アジアの蛮人らしい思考で対話では無く暴力による解決を図ったのだ。
緒戦に行われた南方作戦はジャワ、スマトラ等を制圧する事で資源を確保しようと言う目的があった。戦争遂行の資源を確保し戦争を行う。何とも皮肉な事だ。
英米を相手に戦争する。その事に陸軍内部で反対する意見もあった。
「行けって言うなら、ジャワでもスマトラでもどこでも行って見せよう。しかしシンガポールにはイギリス様の軍隊が駐留してるのではないかね」
イギリス、それは世界をリードする七つの海を支配した世界最大の植民地帝国である! そのイギリス様にとってシンガポールは、東洋のジブラルタルと言える戦略上、重要な拠点であった。
しかし戦争をやると決めたのだ。第一次世界大戦で工業力、生産力を見せ付けたアメリカも敵に回す以上は、全てを同時に攻撃する以外に選択は無かった。先制攻撃で主導権を握る為だ。
慎重論に対して主戦派は楽観的だった。
「なあに心配は御無用、イギリスも慢心してる。マレーやシンガポールに配備されているのは植民地の二線級部隊ばかりだ。皇軍の精鋭ならジャングル地帯を突破してシンガポールを陥落してくれるわ」
分析から予想した敵兵力は歩兵2個師団、砲兵3個連隊、戦車1個連隊で、此方も自動車化部隊を投入して電撃的にシンガポールを攻略する計画だった。マレー半島はほとんどが山とジャングルで、沿岸部の都市さえ制圧すれば良い。橋を確保し道路を南下すれば、シンガポールまですぐだ。
「大陸で百戦錬磨な我が皇軍だ。気合いが違うよ」
事実、イギリスの正規軍とは言えない植民地のインド、マレー、連邦を構成するオーストラリア地域軍をかき集めただけだった。国を守ると言う郷土愛も足りない弱卒と言えた。
12月8日、マレー半島に在る要衝──英領マレーとタイの国境から北にあるシンゴラ、その南にあるバタニ、コタバルに皇軍は上陸開始した。シンゴラに上陸したのは山下兵団麾下、松井中将の精鋭第5師団、バタニに上陸したのは安藤部隊だった。
タイ警察のチャンギス大尉は、正体不明の武装集団が大挙して移動中の報告を受けると、部下を連れて現場に向かった。
なるほど、確かに大規模な武装集団が国道を西に進んでいる。チャンギス大尉は日本軍の前に立ち止まった。
「止まれ!」
ビャムリル巡査は上官の姿勢を堂々としていて格好良いと思っていた。しかし日本兵に言葉は通じなかった。
「敵だ! 撃てっ」
陸揚げされたばかりの九五式軽戦車が猛然と立ち向かった。たちまち正確な射撃でチャンギス大尉の片腕が吹き飛んだ。
「うわああああああ!?」
腕を拾うとチャンギス大尉は慌てて逃げ帰って来た。
タイ警察を蹴散らしたのは日本の戦車史に不滅の栄光を刻む野口戦車隊だった。
皇軍はタイ領内で弱冠の抵抗を受けたが、強引に抵抗を排除してタイ領の通過を認めさせた。皇軍は無敵である!
「うははは、タイなど帝国の敵では無いわ」
初戦の快調な上陸報告を受けて爆笑するのは、マレー方面陸軍最高司令官山下将軍であった。
問題は英領のコタバルだ。第9インド師団の第8インド歩兵旅団を基幹とする部隊が待ち受けていた。皇軍は敵前上陸の犠牲を覚悟して、兵団主力の進捗を援護すべく侘美支隊を差し向けた。
コタバル上陸正面には敵の堅固な陣地(トーチカの類い)が存在し、沿岸部には野砲、山砲、高射砲まで備わっていた。沖の輸送船から大発に分乗して海岸を目指すが、インド兵はカレーを食べて気力、体力もみなぎっていた。猛烈な砲撃と銃撃を浴びせて来たのである。
「ちょ、待てってばよ!」
竹槍でB-29を撃墜出来る、南京で30万人を虐殺した等と最強伝説を築き上げる日本兵だが、濃密な火網に飛び込んだ皇軍はカスの仲間入りである。大和魂も銃弾の前では無に等しく、水際に日本兵の死体がプカプカ漂った。岸に向かって泳いで進むも地獄だった。
まさに一大血戦、海の203高地であった。身を以てトーチカの射界を塞がんとする勇敢な兵士も姿を現すが、上陸は苦難と成った。敵前上陸何だから犠牲があっても当然と言えた。
右翼の第3大隊と共に連隊本部は上陸した。第12中隊と機関銃1/3、通信隊主力が付近に展開していた。
「おのれ、鬼畜米英! かくなる上は天皇陛下万歳を叫んで突撃してくれん!」
綾戸山丸から上陸した歩兵第56連隊長の那須義雄大佐は、決死の覚悟で部下に号令をかけようとした。その時だった。
敵の後背で罵声や怒声、叫び声が上がった。迂回した味方では無い。
どんよりと曇った灰色の空だが、しっかりと見えた。ゴム林から飛び出して来たのは甲冑に槍や刀を持った侍と足軽だった。旗指物には桔梗が見えた。しかし歴史好きや葬儀屋でも無ければ家紋は理解出来ない。
「何だ、ありゃ」
分かったのはイギリス軍では無いと言う事だけだ。
「退くで無い。怯むな、囲んで討ち取ってしまえ。かかれ、かかれ」
騎乗して下地をする武者は明智軍本隊の右翼を守る藤田行政、明智茂朝等の率いる2,000の兵だった。長槍を構えて突撃する足軽は、イギリス軍の銃撃を浴びてバタバタと倒れるが怖じ気づく者は居なかった。
光秀は藤田から伝令を受け取ると、応援に向かった。
「敵は何処の兵か」
「南蛮人との事です」
堺で交易を許していた南蛮人が、兵を率いて攻めてきたと言う考えが浮かんだ。
(すると、先ほどの現象は南蛮人の操る妖術の類いか)
激しい銃声や騒音が聴こえてくる。
「申し上げます。右備え藤田様より、御味方の軍勢が現れたとの事です」
日本軍とのファーストコンタクトだった。
松井兵団主力はシンゴラからハジャイナを経て、国境を突破。西海岸方面要衝を12月10日、ジットラ付近で戦闘、13日にはアロールスター付近、15日にはグルン付近で戦闘を経験した。
バタニに上陸した安藤支隊は15日には国境を突破して、26日にはカンバル付近の戦闘に加わっている。
一方、コタバルに上陸した牟田口兵団は明智軍に接触したのであった。侘美少将は、参謀の佐藤不二雄少佐を軍使として明智軍に派遣した。
ファーストコンタクトは、こちらに敵意が無いと言う意思が無事に伝わって始まった。
「見たところ、日本人の様ですね」
同行していた連隊旗手佐々木中尉の言葉に佐藤少佐も頷く。
「我等は織田家、明智の兵じゃ。貴殿等は何処の家中の者か?」
「家中?」
姿格好そのままに古臭い言葉使いをすると佐藤少佐は思った。
「我々は大元帥陛下にお仕えする大日本帝国の軍人です」
徳川幕府によって戦国時代が終わり、その幕府も大政奉還で明治新政府が誕生し、帝──天皇を中心とした日本が出来た事を伝えた。
「はい、そうですか」といきなり納得する事は難しいが、光秀は状況証拠から、ここが少なくとも日本では無いと言う事を理解した。植生が畿内とは違いすぎていたからだ。
牟田口兵団は明智軍を加えて南下を開始し、トレンガヌ、ケママン、クワンタンと東海岸の要所を攻略する方針を硬めていた。怪しい連中を放置出来ない。ならば、同行させた方が監視も出来ると言う判断だった。
会談の結果、明智軍は協力を約束した。
「先ずは敵飛行場とコタバル市内を制圧しましょう」
方針が決まると行動も早い。第3大隊は明智軍から斎藤利三の隊を伴って移動開始した。具足の音を鳴らして続く戦国時代の軍勢を目にして、日本兵達は目を丸くしていた。




