第87話 責任の手放し方
朝、ラウルは同じベンチにいた。
昨日と同じように、何も持っていない。
ただ座っている。
だが、今日は目が開いていた。
何かを考えている顔ではない。
ただ、起きているだけの表情。
私は小道を歩き、そのまま川辺へ向かう。
少し遅れて、足音が近づいた。
「……昨日の続きになりますが」
ラウルだった。
「ええ」
彼は私の隣には来ない。
少し離れた位置に立つ。
「何もしないと決めて、一日過ごしました」
「そうですか」
「崩れませんでした」
その言葉は、確認のようでもあった。
「ええ」
私は水面を見る。
ラウルは少し黙る。
「ですが、何もしていないのに」
「ええ」
「なぜ、何も問題が起きないのでしょう」
私は答えない。
問いは彼の中にある。
しばらく川の音が続く。
「私はずっと」
ラウルがゆっくり言う。
「問題が起きないように動いてきました」
「そうでしょう」
「判断して、調整して、責任を持つことで」
彼は手を軽く握る。
「それをしなければ、崩れると思っていた」
私は少しだけ視線を向ける。
「今は?」
ラウルは川を見る。
「崩れていません」
それは事実だった。
庭も、食堂も、時間も、
何も変わっていない。
「では」
私は言う。
「持たなくても、大丈夫かもしれません」
ラウルはその言葉を聞いて、目を閉じる。
長くはない。
ほんの数秒。
だが、その間に何かがほどけた。
「……持たなくてもいい」
彼は小さく繰り返す。
「はい」
「責任を」
「ええ」
ラウルはゆっくり息を吐く。
「それは、初めての感覚です」
私は何も言わない。
初めてのものは、言葉で固めない方がいい。
午前中、ラウルは再びベンチに座る。
だが今日は、時々空を見上げている。
足を動かさない。
周囲を気にしない。
ただ、そこにいる。
昼過ぎ、食堂に入る。
ラウルは席に座る。
誰とも話さない。
誰にも話しかけられない。
それでも、不安そうではない。
ユリウスが通り過ぎる。
「ご不便はありませんか」
「ありません」
迷いのない声。
午後、庭に戻る。
ラウルは立ち上がることなく、言う。
「今までは」
私は足を止める。
「責任を持っていることで、自分を保っていました」
「そうですか」
「ですが、持たなくても」
彼は少しだけ笑う。
「崩れないと分かりました」
私は頷く。
夕方、川辺に立つ。
ラウルは少し遅れて来る。
今日は距離が近い。
「手放すというのは」
彼が言う。
「失うことではなかった」
「そうですね」
「ただ、持たないだけでした」
私は水面を見る。
夜、部屋に戻る。
窓を開ける。
風は変わらない。
責任を手放す方法。
それは難しいものではなかった。
ただ、持たないと決めるだけ。
私は灯りを落とす。
ラウルはもう、気づいている。
だが――
そのまま、ここに留まるのか。
それとも戻るのか。
まだ、決めていないようだった。
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