第59話 決めないという決定
朝、読書室の前に小さな紙が置かれていた。
「利用時間は設けません。譲り合いでお願いいたします」
簡潔な一文。
署名はないが、筆跡は昨日の帳簿と同じだった。
私は立ち止まり、少しだけその紙を眺める。
決まりを作らない、という決まり。
遠回しでもなく、強くもない。
ただ、置かれている。
エマが後ろからやってきた。
「……時間、決まっていないのですね」
「ええ」
「その方が、落ち着きます」
彼女はそう言って、先に入っていく。
以前なら、きっと不安になっていた。
今は違う。
午前中、庭で管理人とユリウスが話している。
「本当に、細かい規則は不要でしょうか」
管理人が確認する。
「今の利用状況を見る限り、必要ありません」
ユリウスの声は平坦だ。
「争いは起きていませんし、利用も偏っていない」
「そうですね」
「決めることで硬直する方が、問題です」
私は少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
以前、読書室を巡る小さな衝突があった。
あのとき、誰も正しさを決めなかった。
今は、その姿勢が一つの方針になっている。
午後、共有スペースで二人の滞在者が椅子を譲り合っている。
「どうぞ」
「いえ、お先に」
声は穏やかだ。
誰かが監督しているわけではない。
でも、空気は乱れない。
夕方、ユリウスが私の前を通る。
「ご不便はありませんか」
事務的な問い。
「ありません」
「承知しました」
それ以上は続かない。
彼は私を特別扱いしない。
意見も求めない。
ただ、確認だけを置いていく。
夜、庭に立つ。
彼が隣に来る。
「決まりが増えましたね」
「ええ。決めない、という」
「不思議なものです」
私は小さく息を吐く。
決まりがないことを、決める。
それは誰かを縛るためではなく、
縛らないための選択。
窓を開けると、夜風が流れ込む。
私は何も提案していない。
何も指示していない。
それでも、空気は整っていく。
決めないという決定。
ここでは、それがいちばん静かで、
いちばん強い形だった。
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