第百二十話 脱出決行
・一九八六年 七月二十九日 午後七時二十分 認識力研究所一階 リビングスペース五号室
【神の視点】
「……なっ?!」
両手でつかんだベッドシーツを勢いよく捲り上げた春日井大和は、即座に言葉を失った。驚愕に顔を歪ませ、両目を見開き、わなわなと唇を震わせる。
焦燥、後悔、絶望……、頭の中に渦巻き、交錯していた様々な負の感情が、一瞬にして停止した。
なぜなら、そこに横たわっているはずの人間の姿が、影も形もなかったからである。
意識不明だというNo.5は、ベッドにいない。シーツの中は、初めから誰もいなかったかのようにもぬけの殻だ。
ベッドの上の不可解な膨らみは、他の部屋から持ち出したと思しき数枚のシーツが入れられてできたものだった。
つまり、誰かが、意図的に、大和を騙そうとしたということである。
では、誰が?
「ど、どういうことだ……?」
思考がまるで追い付かず、その場で呆然自失に立ち尽くす。
力なく注がれた彼の視線は、依然、空のベッドに注がれたままだった。
* * *
・一九八六年 七月二十九日 午後七時二十分 認識力研究所一階 リビングスペース 四号室
【No.5の視点】
「――っ」
目の前で閃光が弾けたかのように視界が白む。
同時に、世界の様子を俯瞰で見下ろす“神の視点”から、作戦に従ってリビングスペースの四号室で息を潜めていたぼくのもとへと意識が戻る。
夢から覚めるのにも似た感覚。
――今だ。
まさしく千載一遇のチャンス。この好機を逃したら最後、二度と脱出の機会は訪れないだろう。
自分の置かれた状況を瞬時に理解したぼくは、当初の予定通り、早速、行動を開始した。
弥生の手を借り、今まで無人の四号室に隠れていたぼくは、急いで部屋を抜けて素早く廊下に躍り出ると、わずかに開いた五号室のセキュリティドアの隙間から、慎重に中の様子を探る。
狙い通り、春日井さんは、ぼくが意識不明で倒れていると思い込んでいる。あれが、研究所の人間をかく乱させるための誤情報にもかかわらず、だ。
脱出計画を実行に移すに際し、ぼくは、次のような作戦を立てていた。
『弥生に、“No.5が倒れた”というデマを流してもらい、研究所の職員を誘い出した上で、カードキーを奪取する』
胸の痛みで危うく気絶しかけるという迫真の演技をしながら、弥生にこの作戦を持ちかけた時、彼女はあまりいい顔をしなかった。まあ、当然と言えば当然だ。
「余計な心配させないで」と、目をつり上げてむくれる弥生をなだめるのには苦労した。
(もっとも、ぼくの身体の調子があまりよろしくないのは、れっきとした事実なんだけど)
じくじくと痛む左胸を、そっと、手で押さえる。
弥生の前では大袈裟に強がってみせたものの、実際、かなりキツイ。普通に呼吸しているだけでも胸が外から押し潰されるような圧迫感があり、体力を激しく消耗する。
次にいつ発作が来るのか、それはわからない。
だからこそ、急ぐ必要があった。
まさか、春日井さんがこっちに来るとは思わなかったけど、それはむしろ好都合。
一か八かの賭けに、ぼくは勝利する。
(彼には悪いけど、これも、ぼくたちが生き残るためなんだ)
気配を殺して五号室に侵入し、シーツ片手にうろたえる春日井さんの背後に忍び寄ったぼくは、彼の無防備な後頭部に向けて狙いを定める。
そして、あらかじめ部屋から持ち出していたステンレス製のトレイを、力任せに思いきり振り上げた――!
* * *
・一九八六年 七月二十九日 午後七時二十七分 認識力研究所二階 会議室
【神の視点】
「しかし、まァ、No.5が意識不明とはねェ」
会議室の中央に置かれた長机の上に両肘をつき、悠然と構える拝戸幸伸は、ため息まじりにやれやれとかぶりを振った。肝心の会議が遅れ、大事な被験者が倒れたと聞いても、まったく冷静さを欠かず、余裕の態度を崩さないのは、さすが、多くの場数を踏んでいるだけのことはある。
「それというのも、貴殿の監視の目が充分に行き届いていないからではないですかな、浅間クン?」
片眼鏡越しの鋭い視線が、向かいの席に座る浅間有一を貫く。
「吾輩は、貴殿に被験者の管理を一任していたはず。であれば、当然、貴殿に責任の一端が及ぶと考えられますが、いかがですかな?」
「まさか、とんでもない」
至って涼しげな顔で幸伸の追及を退ける。
「以前に申し上げたように、被験者の中に秘められた潜在能力を最大限まで引き出すためには、時に生命が脅かされる劣悪な環境が必要不可欠なのです。大戦時における強制収容所のような、飢えと恐怖で心身を蝕み、脳髄に絶望を植え付け、最終的に死さえも望むほどの極限状況を再現できる環境が、ね」
「なるほどなるほど、心理学のエキスパートである貴殿がそこまでおっしゃるのなら、まァ、今回の件は不問といたしましょう」
開き直った浅間のふてぶてしさに感服したとでも言いたげに、幸伸はあっさりと引き下がる。
どうやら、初めから被験者に対する責任問題を問うことが目的ではなく、浅間がどのような反応をするか試していただけのようだ。
――相変わらず、食えない男だ。
幸伸は、仏頂面を浮かべて腕組みする浅間に不審なものを抱きながら、少し前からそうしているように、引き続き、その動向に注視した。
というのも、この、浅間有一という冷静な男は、幸伸の父である久三と手を組み、自分の研究とは趣を異にする独自の実験を行っているようだったからだ。
まさか、所長の幸伸を裏切るような背信行為に及ぶ度胸までは持ち合わせていないだろうが、警戒するに越したことはない。
今はあえて泳がせておき、しかるべき時期を待って、ここぞという場面で獲物を網にかける。
手柄は、全て、所長である自分のもの――。
計算高い幸伸は、自分の企みなど何も知らずに父と共謀する浅間の姿を見て、にやりとほくそ笑んだ。
「……それにしても、春日井クンは何をしているのでしょうかねェ」
ちら、と壁にかかったアナログ時計を目に入れ、そう独りごちる。
彼をNo.5のもとに向かわせて、すでに十分が経とうとしている。被験者を収容している五号室には、会議室から片道五分もあれば辿り着けるはずだ。
それなのに、一向に音沙汰がない。すぐさま会議室に戻るのは無理だとしても、内線での連絡すら寄越さないとは、どういう了見か。
「まったく、どこで油を売っているのやら……最近の若者には困ったものです」
人の命をゴミか何かのように軽んじる冷血漢の幸伸も、自身の心血を注いだ被験者が犬死にしては困るのだろう、一秒でも早く、その安否を確認したいようだ。
すると、その思いが通じたのか、壁に備え付けられた内線電話のコール音が、「トゥルルル」と、静寂の会議室に鳴り響いた。
「おやおや、噂をすればなんとやら、ですなァ」
口元を持ち上げ、「クッ」と笑う幸伸は、皆に先んじて席を立とうとした芥川研究員の動きを手で制し、背を曲げながら内線電話のところまでゆっくり歩くと、丁寧な手つきで受話器を取る。
「どうですか、No.5の容体は?」
先に結論から聞こうとした幸伸が、受話器に向かってそう尋ねた時だ。
『あ、拝戸幸伸所長ですか?!』
電話口から返ってきた言葉は、幸伸の予想に反したものだった。
「……その声、春日井クンではありませんね?」
異常事態を察し、眉をひそめた幸伸は、声を低くして問い返す。
すると、その声色の変化に驚いた電話の主は、「ひっ」と短く悲鳴をあげた。
『は、はい、自分は夜勤の者で、その……』
「自己紹介は要りません、要件だけを述べなさい」
『し、承知しました』
口調の厳しい幸伸にぴしゃりと蓋をされた職員は、少し萎縮したように口ごもった後、おずおずとこう答えた。
『じ、自分は、No.5の様子を確認しに向かわれた春日井先生の帰りが、えっと、あまりに遅いものですから、何か予期せぬトラブルでも生じたのかと思い、慌ててリビングスペースの五号室に向かったところ……』
「そこで、何があったというんです?」
『そ、それが、その……』
「はっきりしない男ですねェ、吾輩は、あなたのようにどっちつかずの中途半端な人間が大嫌いなのですよ」
『す、すみません、自分は、少し動揺していて……』
「あなたの事情など知りません。言い訳など見苦しい。そんなに解雇通知が欲しいのですか?」
『い、いや、それだけは勘弁してください!』
「だったら、早く話を進めなさい。こっちも暇ではないのですよ」
『で、ですから、その、じ、自分は、五号室で見てしまったのです!』
「それはいいですが、主語を述べなさい、主語を。あなたが興奮しきりに“見た”と言っても、それが一体何なのか、吾輩にはちっとも伝わりませんよ」
『し、失礼しました! 春日井先生が倒れていたのがショックで、うまく思考がまとまらなくて……』
「……なに?」
幸伸の眉根が、ピクリと跳ねる。
「あなた、今、なんとおっしゃいました?」
『え? その、うまく思考がまとまらなくて……』
「違います、その次です。……誰が、倒れていたと?」
『か、春日井先生です』
「春日井大和が、倒れていた?」
幸伸の発した声に、浅間と芥川の意識が向かう。
『は、はい、そうです、そうなんです! 自分が五号室に向かった時には、すでに春日井先生が床の上に倒れていて……』
「……No.5は?」
『……え?』
「No.5は、どうしたのです?」
苛立ちを隠せない幸伸が、鼻息荒く問いかける。
『は、No.5、ですか?』
「あなたもわからない人ですねェ、春日井クンは、意識不明だという被験者の容体を確認しに五号室を訪れたのですよ? そのNo.5がどうなっているのかわからなければ、彼を現地に向かわせた意味がないでしょう?」
『す、すみません、失念しておりました!』
「安い謝罪など結構、あなたは我々の知りたい情報だけを伝えなさい。それが金で雇われた社会の歯車たるあなたの役目であり、上司の命令に従うしか能のない、あなたのような意志薄弱の俗人に与えられた唯一の価値です」
『ぐ、ご、ごもっともです……』
「だったら、四の五の言わずに報告を続けなさい」
『そ、それが……、No.5は……、ええと……』
「だから、No.5は何なのです? もったいぶらずに早く言いなさい!」
『な、No.5は、自分が確認した限りでは、その……』
気の弱い男性職員が、またも声を詰まらせて発言を躊躇した直後――。
『一体何があったのか、彼が今までいたはずの五号室から跡形もなく、姿を消していました……』
おっかなびっくり発せられたまさかの報告に、幸伸は自分の耳を疑った。
思わず、受話器を取り落としそうになる。
「なに?! No.5が……姿を消した!?」
目を見開き、辺りに怒声を響かせる。
「所長、今、何とおっしゃいました?」
幸伸のそばに寄った芥川が眉間にしわを寄せ、恐る恐る尋ねる。
「それに、春日井先生が倒れたと聞きましたが……?」
怒りに震える幸伸は質問に答えることができず、額に青筋を浮かべるのみ。受話器から漏れる声も、彼のもとには届かない。
「逃げたんだよ」
席に着く浅間が、ぽつりと言った。
幸伸と芥川の視線が、一気に浅間の方に向く。
まるで息をするようにして自然に吐かれた、浅間の何気ないひと言は、しかし、にわかに紛糾しつつあった会議室にあって、まさに鶴の一声だった。
「逃げた、と言いますと?」
「わからないか?」
いまだに事態を飲み込めない芥川に、浅間は冷たい笑みを浮かべて言った。
「自分を仮病と偽ったNo.5が、何も知らずに様子を見に来た春日井大和を襲って、研究所から脱出しようとしているのさ」
「なんですと、No.5が……?!」
ようやく事情を理解したのか、不健康な白っぽい顔を青くして驚愕する。
またもや、会議室は騒然とした。幸伸も芥川も、まるで予想だにしなかった春日井大和の昏倒とNo.5の脱走というふたつの緊急事態に対応できず、その思考を停止させている。
ただひとり、浅間有一だけが、初めからこうなることがわかっていたとでも言いたげに、平然と腕組みながら椅子に座し、黙然と前を見据えていた。