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第百十六話 ノミナリズム

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時四十分 認識力研究所一階リビングスペース五号室


「……落ち着いた?」

「……う、うん」

 静寂の五号室は、肌が蒸されるような湿度の熱気が充満している。

 汗ばんだぼくの腕の中、胸元にもたれかかるようにして抑え込んでいた感情を発露させたNo.3は、ひとしきり嗚咽を漏らして泣いた後、ゆっくりと身体を離し、恥ずかしげに目を逸らしながら、こくり、と頷く。

 雪解けの慎ましい笑顔。うっすらと華やいだ赤の頬が、氷細工のように透明感のある白い肌に映えて綺麗だった。

 かすかに涙のあとが残るNo.3の恥じらいだ面差しは、長らく彼女の素顔を隠した「自己暗示」という名の仮面が剥がれ落ちたことを物語る。

「でも、どうして……」

「うん?」

 扉を背にして目を伏せるNo.3が、ぼくのことをちらちらと見ながらつぶやく。

「どうして、わたしが……、その……」

 胸の前に手を当て、口ごもる。

 まだ、上手に自分の気持ちを言葉で表現できないのだろう。No.3は、お預けを食らった子犬みたいにぼくの様子を慎重に探り、弱々しく視線を宙にさまよわせる。

 やがて、意を決したようにして、胸の上に置いた手をギュッと握りしめると、ぼくの方を真っ直ぐに見つめながら、おずおずと口を開いた。

「わたし、あなたに何も自分のことなんて話さなかったのに、どうして……」

「『どうして、自分の本当の気持ちを知っているのか』、だろう?」

 そのものずばりと言ってやると、No.3はハッとしたように目を丸くさせた。

「……また、そうやってわたしの心を見透かして……」

 眉根を寄せた不満げな表情を浮かべ、お餅みたいにぷくっと頬を膨らませる。

「それに、No.1とNo.2が死んでしまったことも、あなたは知っていた。過去の記憶が一切ないはずなのに……」

 真剣な眼差しを向けるNo.3は、矯めつ眇めつ、ぼくの顔をしげしげと覗き込む。

 確かに、彼女からしてみれば不思議でたまらないだろう。No.3本人にしか知りえない情報を把握し、その上、失っているはずの記憶さえも、あたかもそこにあるかのような口ぶりなのだ。不審に思わないわけがない。

「詳しいことを話すと長くなるから、手短に説明するね」

 宙を仰ぎ、ぼくは言う。

「まず、重要なことを、ひとつ」

「……ええ」

「ぼくはまだ、記憶を取り戻してはいない。ぼくが誰なのか、どこから来たのか、そして何より、いまだに自分の本当の名前さえ、思い出していないんだ」

「……そう、なのね」

 落胆したような小さな吐息が、天井の白を見上げるぼくの耳に入る。

 ちょっとだけ、気まずい空気。

 ぼくは顔の位置を正面に戻し、目の前のNo.3を見た。彼女は難しそうな表情で居尽くし、不安げに言葉の続きを待っている。

 やっぱり、子犬のようだ、と思った。

「えっと、ここからが本題なんだけど……」

「……な、なに?」

 期待に満ちた目をぼくに向けると、泣き腫らした顔をグッと近付ける。

 固く結んでいた口元を緩め、どことなく、嬉しそうな顔つき。

 本当の自分を取り戻し、劇的なまでに態度を軟化させたNo.3は、ころころとその表情を変える。

 ぼくに大きな信頼を寄せているのがわかって、なんだか、気恥ずかしい。

(これが、No.3の本来の姿……)

 顔全体に熱いものがじんわりと広がるのを感じながら、ぼくは緊張に唾を飲む。

「これからぼくの言うことを信じてもらえるかどうか、わからないけど……」

「ううん、そんなことない。わたし、あなたの言うことなら何でも聞く、何でも信じるから」

(いや、それはそれで困るけれども……)

 食い気味でぼくの言葉を遮るNo.3に、ちょっとした不安を覚える。

 彼女の精神は、依然として危うい。もともと依存心が強いのか、この環境がそうさせるのか、自分の考えよりも他人の意見を優先する傾向がみられる。

 まだ子供だからと言えば、それまでだけど。

(ともかく、ぼくがしっかりしないと……)

 彼女の心が再び乱れるか安定するかは、これからのぼくの行動にかかっている。生半可な覚悟や中途半端な態度を示せば、たちまち動揺に囚われてしまうだろう。

 だから、今までよりもさらに強い口調で、こう言った。

「ぼくは、()()()()()()()()()()()()()()。そういう能力が、あるんだ」

「視点? それって……」

「ぼくには、他人の心が……、彼らの考えや、見ている世界のことが、わかる」

「え……、それじゃ、今も?」

 意外そうな顔で前のめりに尋ねるNo.3を制するように、ぼくは首を横に振る。

「いや、常にそうだっていうわけじゃない。たとえば、こうしてぼくの意識がはっきりしている時なんかは、他人の思考が読めない状態にある」

「あ、なんだ……、それならよかった」

 表情を和らげ、ホッとひと息。

「よかったって、なにが?」

「う、ううん。なんでもない、こっちの話」

 前かがみの姿勢を戻したNo.3はぎこちない笑みを浮かべ、わたわたと両手を振るう。

「……だって、わたしの気持ちがあなたにバレてたら、恥ずかしいじゃない……」

 赤らんだ顔を背け、ボソッとつぶやく。

「……今の、聞こえてるよ」

「きゃっ」

 No.3が顔を逸らす動きに追従し、そっと耳元で囁いてやると、彼女は小さく身を跳ねらせ、可愛らしい悲鳴をあげた。

「な、なによ、びっくりするじゃない……」

 心臓が飛び出さないようにでもしているのか、控えめな胸を衣服越しに押さえながら、うらめしそうにぼくを睨む。耳まで顔を真っ赤にさせた様子は、さながら熱したヤカンのようで、頭の上から湯気がシュッシュッと出そうな気さえする。

 いつも怖いくらいに冷静だったNo.3の印象とは真逆の反応に、ぼくはいよいよたまらなくなった。

「ふ、ははは……っ」

「ちょ、ちょっと、何がおかしいのよ……っ」

 いきなり笑い出したぼくに噛みつかんばかりの勢いで、むくれた表情のNo.3が詰め寄る。

 すねた小さな子供のように口を尖らせるNo.3は年相応のあどけない少女らしく、また、どこまでも人間らしい。

「やっぱりさ……」

「え?」

「やっぱり、そうやって、怒ったり、笑ったり、泣いたり、恥ずかしがっている方が、ずっといいよ」

「……ど、どうしたの、急に……」

「いや、単純に、そう思っただけだよ」

 戸惑いがちに目をしばたかせるNo.3に向かい、ぼくは真面目くさった表情で馬鹿正直に答えた。

 実際、裏表のない率直な気持ちだった。何ひとつとして、取り繕ってなどいない。

 ぼくがここにいるように、ぼくの心もそこにある。

 自己を他者として分離させるような下手な誤魔化しが、ここで一体、何の意味を持つだろう?

(理屈じゃない、世界との確かな繋がりが、ぼくや、そのヒトの中に、ある)

 だから……。

「誰にも遠慮なんかせず、素直に喜怒哀楽を表現した方がいいよ。その方が、もっと、ずっと、きみらしいから」

「……わたし、らしい?」

「そうさ。だって、きみは“人間”なんだから」

「……人間……」

「やつらの言いなりになる都合の良い“人形”なんかじゃない、れっきとした“人間”。それが、きみだ」

「わたし……人間……」

 視線を外し、うつむいたNo.3は、深く、噛み締めるようにしてつぶやいた。

 魔法の効力を持ったその言葉は、頭上から注がれる親の温かな眼差しのように、身体を介して心に向かい、やがて、全体に浸透していく。

 言葉は、そのヒトを突き動かす原動力になる。

 無機質な人形に、言葉を受け入れる心はない。与えられたものをそのまま跳ね返す、(かたく)なに硬直した姿勢があるばかりだ。

(ヒトはそれとは反対で、外部から受け取った言葉、情報に応じて自分を変える、生き生きとした柔軟性が備わっている)

 そのことを、ぼくは知っている。

(ヒトから与えられた情報は、自分の現実を変えていく……)

 記憶のないぼくが、他者によって規定されたNo.4とNo.5の識別子のあいだで揺れ動くように。

(だから、ぼくは、本当の自分自身を、自分が本来認識すべき世界を、こうして、ずっと、追い求めている)

 ぼくが全ての記憶を取り戻した、その時。

 ようやく、ぼくは、心の底から自分の存在を信じることができるようになるだろう。

 自分のことを認めたNo.3が、そうであるように。

 ぼくも、また。

「そう、ね……」

 神妙な表情を浮かべるNo.3もまた、心の底から納得したのだろう。両目をつむり、静かに小さく息を吐き出すと、やがて、大きく頷いた。

「わたし、人間だもの……、泣いて、笑って、怒って……、それが、当然よね……」

 深く、自分に言い聞かせるように。

 もう二度と、現実から目を逸らさないように。

(だって、彼女の作り出す現実は、他でもない、“言葉”によって構成されるのだから……)

 自分で自分を認めるということ。

 素直な気持ちをありのまま受け入れるということ。

 それが、“ヒト”であるための最低条件だと、ぼくは思う。

(ぼくも、本来の“ぼく”を……、失った記憶を、取り戻さなければ……)

 そうでないなら、以前までのNo.3と同じ、他人が用意した偽りの現実に人形として生き、やがて、意識を飲み込まれることだろう。

「……ありがとう」

 そう言って顔を上げたNo.3の顔は、夏の青空のように雲ひとつない、晴れ晴れと澄み渡ったものだった。

「わたし……あなたに言われて、ようやく、気が付いた」

 曇りのない、透き通った笑顔。

「もう、傷付きたくない、悲しみたくない、誰も、苦しむ姿を見たくない。……だからって、わたしがわたしを殺しちゃ、それこそ、本末転倒よね」

 かすかな苦笑と共に吐露される本音の言葉は、他でもない、『ぼく』と、『彼女』に向けられている。

「……うん、そうだね」

 ぼくもまた、小さく微笑んだ。

 笑いあう二人。

 ぼくたちの現実は、目に見えない、けれども、確かなもので結ばれていた。


   *    *    *


 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時四十六分 認識力研究所一階リビングスペース五号室


「ところでさ、No.3」

「うん?」

 部屋のベッドの縁に腰を下ろしたぼくが、隣に座るNo.3に尋ねると、彼女は子犬がするような仕草でちょこんと小首を傾げる。

 あれから――。

 このまま立ち話もなんだからと、ぼくとNo.3は部屋のベッドに腰掛け、二人、並び合っていた。

 究極的に単純化された栄養摂取とも言える食事は、すでに取り終わっている。足元に置かれた空の容器と銀色のトレイが、何よりの証拠だ。

 天井に下がった照明の明かりを受けて輝くトレイのすぐ横には、それとまったく同じ食事道具一式が並べて置いてある。

 別に、ぼくが二人分の食事を取ったわけじゃない。

 No.3の提案で、彼女が運んできた夕飯を一緒に食べたのだ。

 薬品臭い人工的な味わいも、No.3と食べれば不思議とおいしく感じられた。

 食事の最中は、特に会話はなかった。

 お互い、疲れているというのもあったし、状況も状況だ。まさか、ピクニック気分でのんびり食事の時間を過ごすわけにもいかない。

 でも、それでも。

 二人一緒に肩を並べて、同じ瞬間を共有する、ただ、それだけで、心が満たされるような、そんな気がした。

 そして、今は、食後のゆったりとした時間を噛み締めている真っ最中。

 彼女の存在を、その体温を、より近くに感じられる。

 いつまでもこうしていられたらいいのにと、柄にもなく、そんなことを思う。

 でも、あまり悠長にしてはいられない。

 ぼくは、ぼくたちは、もうじき、この研究所から脱出しなければならないのだ。やつらの監視の目をかいくぐり、危険を承知で外界に向かう。その時が、もうすぐそこまで迫っている。

 嵐の前の静けさとも言うべき、不吉な前兆をはらんだ異様な空気。急速に熱が引くようにして甘い夢想が立ち消え、むせ返るような現実が代わりに現れる。

 物言いたげなNo.3の真っ直ぐな視線を受け、ぼくは口を開く。

「ひとつ、きみに、聞きたいことがあって」

「聞きたいこと?」

 ぼくは頷く。

「すごく、ものすごーく、今さらなんだけど」

「なに、言ってみて?」

「その、きみの名前についてなんだけど」

「名前?」

「そう、名前」

 あまり要領を得ないという感じで目を白黒させる彼女の反応を目に入れながら、ぼくは言葉を続ける。

「ほら、せっかくこうして打ち解けたのに、ずっと『No.3』って番号で呼ぶのも堅苦しいし、それに、変でしょ? だから、やつらにとって管理しやすい記号じゃなくて、きみのご両親につけてもらった本当の名前を知りたいと思ってさ」

 ポリポリと頬を掻きながら言うと、No.3は表情を曇らせる。

「あ、そっか、そうだったわね、あなた、記憶がないんだものね……。あの時のことも、みんな、忘れちゃったんだ……」

 眉を八の字に曲げ、顔全体を悲しみの色に染める。

 彼女の言う「あの時」とは、ぼくたちがこの研究所に連れて来られてすぐ、春日井さんの計らいで被験者のみんなと自己紹介を行った時の出来事を指す。

 記憶を失う前のぼくも、その時、自分の名前を名乗ったのだ。

(もっとも、今となっては、彼女の口から名前を聞き出さないと、ぼくが誰かもわからないんだけど……)

 日記には、ぼくを含めた被験者全員の名前が書かれた痕跡はあるものの、日記の中身を閲覧する権限を持つ浅間有一が、名前に該当する部分を黒い線で塗り潰してしまっているため、今では判別不可能というありさま。

(それにしても、相変わらず、感情が顔に出やすい子だな)

 ぼくの顔を覗き込み、その様子を窺うようにして不安げに瞳を潤ませるNo.3の姿は、しゅんと耳を垂れて主人の命令を待つ小動物そのもの。

 やっぱり子犬みたいだな……とかなんとか思いながら、ぼくは肩口にのしかかる重たい空気を振り払うようにして、大きく頷いてみせた。

「うん、だから、改めてきみの名前を教えてくれないかな?」

「いいわ、そういうことなら、もう一度、教えるわね」

 事情を察したNo.3は、物憂げに暗く沈んだ表情から一変、明るい笑顔で承諾する。

「えっと、わたしの名前はね……」

「う、うん」

 No.3は床に目を向け、そっと、胸の前に手を置く。

 ぼくは思わず姿勢を正し、固唾を飲んで続く言葉を待つ。

 なぜだろう。

 とても、緊張する。

 ただ、名前を聞くだけだというのに。

 こめかみの辺りで鳴り響く「ドッドッド」という心音がうるさくて仕方ない。

(なんだ? この感じは……)

 胸が、ざわつく。

 たとえばそれは、医師が病名を宣告するのを待つ患者。期待よりも不安がはるかに勝る、あの奇妙な感覚。ぼくは、今まさに、それを味わっている。

(どうして?)

 ただ、名前を聞くだけ。

 それだけだ。

 ぼくが緊張する必要なんて、微塵もない。

 それなのに、ぼくはまったく生きた心地がしない。

 不安定な宙吊り状態。

 彼女が自分の名前を告げた瞬間、ぼくは地面に真っ逆さま。そんな、不吉な想像さえする始末。

(……くそっ)

 ぼくは全神経をNo.3に向けて集中させ、彼女のかすかな息遣いが聞こえるほどに耳を傾ける。

 突如として込み上がった得体の知れない不安から、目を背けるように。

 永遠とも思える瞬間。

「……い」

 果たして、均衡は破られた。水を打ったような静寂に、彼女のよく通る声だけが響き渡る。

「……よい」

「……え?」

「聞こえなかった? “弥生”、よ」

「……や、よい?」

「そう、旧暦の三月を意味する言葉って、死んだお母さんから聞いたことがあるの。響きが綺麗で、風情があって、わたし、とっても気に入ってるのよ」

 どこか晴れがましそうに自身の名前の由来を語る彼女だったが、その言葉がぼくの心に届くことはなかった。

 ただ、「弥生」という、彼女にとって唯一無二の固有名詞が、ぼくの中でエコーが掛かったように幾重にも渡って鳴り響き、小刻みに波紋を広げていく。

 やよい……。

 弥生……。


   *    *    *


()()()()

「はい、先生」

「お前には引き続き、()を監視する役目を与える」

「はい」

「私立瀬津大学附属病院に入院する()が、我々が投薬した『IMAGE(イマージュ)』によって植え付けられた偽りの記憶を発現させるように取り計らえ。くれぐれも、我々の計画や正体が露見するようなことがあってはならない。心しておくことだ」

「はい」

「頼んだぞ、神崎弥生。我が人形“No.3”」

「はい」


   *    *    *


 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時四十八分 認識力研究所一階リビングスペース五号室


「くっ……」

 額を押さえ、うめく。

 ()()()()()()()()

 不意に流れ込んだ情報の波に溺れかけ、見当識を失いかける。

 ここは、どうやら研究所の五号室のようだ。見慣れた白の床が、空の食器が、顔を俯かせたぼくの視界に入る。

「……だいじょうぶ?」

 声のした方を見ると、そこには不安そうな面持ちのNo.3……。

「いや、弥生、か……」

「そう、わたしは弥生。()()()()よ」

 No.3の識別子を付与されていた、自らを「弥生」と名乗る少女は、にこりと、優しく微笑んだ。

 嘘偽りのない、本当の素顔。

 反面、ぼくは気が気じゃなかった。

(あの記憶……、あの話……)

 口の中いっぱいに苦いものが広がる。

 彼女の名前を知って嬉しいはずなのに、ぼくの気分は最悪だった。

 どうにも、嫌な予感がする。背筋に冷たいものを当てられたような気持ち悪い感覚が拭えない。

(弥生……)

 心の中で、そっと、その名をつぶやいてみる。

 胸の奥が、小さくざわめく。悪天候で海が荒れるようにしてさざめき、波立ち、黒々と渦を巻く。

(なんだ……? ぼくは、何を知っている……?)

 考えても、思い出せない。記憶に通じる唯一の入口は、すっかり蓋をされている。

(じゃあ、この感じは、なんだ? ぼくが「弥生」に対して抱く、この、得体の知れない感情の正体は、何なんだ?)

 わからなかった。

 けれども、わかることが、ひとつだけある。

 それは、ぼくが「弥生」という人物を少なからず恐れているということ。

 猫が、本能的に、長細い物体を恐怖するように。

 ぼくもまた、「弥生」に恐怖感を覚えている。

(……どうして?)

 理由は、やはり、わからない。

 確実なのは、彼女の名前をスイッチとして、ぼくの記憶が呼び起こされたということ。

(もっとも、あの記憶――、というか、情報が、本当にぼくのものなのかどうかは、わからないが)

 いずれにせよ、ぼくの失われた記憶が、そういった諸々の疑問を解決する糸口になるのだろう。

 しかし、困ったことになった。

 彼女の名前を聞いただけでもこれなのに、もし、ぼくが自分の名前を知ってしまったら、一体、どうなってしまうんだろう?

(彼女は……、弥生は、ぼくの名前を、その正体を知っている……)

 聞かなければいけないのに、聞いてはいけない。そんな、アンビバレントな感情が、ぼくの内部を引き裂かんと両極端でせめぎ合う。

 ぼくは、弥生に意識を向ける。

 彼女は、ぼくを見つめている。

 笑顔で。

 神崎弥生という少女は、本来の自分自身がそうであるように、ただ、純粋に、まぶしいばかりの笑顔を浮かべ、ぼくを一心に見ている。

 でも、今のぼくには、彼女のその純真さが、その笑顔が、なぜか、ひどく恐ろしくてたまらなかった。

 言葉は現実を変える。

 今まで「No.3」だった少女が「神崎弥生」という名前を得てぼくの前に現れたことで、ぼくの世界はたちまち一変した。

 ……恐ろしい不安に満ちた現実が、ぼくの前に迫っていた。

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