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第百十五話 溶解、抱擁

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時三十五分 認識力研究所一階リビングスペース五号室


「さあ、食事よ」

 鉄扉をほんの少しだけ開け、腕が一本通るぐらいのわずかな隙間からステンレス製のトレイを差し出す。

 四本の細長い固形食品と、いかにも人工的ですと言わんばかりの衝撃的な色合いをしたペーストが、アルミ製のボウルに盛り付けられている。トレイの端に置かれた小さな紙コップの中には、生命の源である待望の水が注いであった。

「ねえ、No.3」

 食事にありつくのは、まだ早い。

 ぼくは、紙コップの内側で小さく波紋を広げる透き通った水を喉に流し込みたくなる欲求を必死にこらえ、細長い腕だけのNo.3に言った。

「ひとつ、聞いてもいいかな?」

 彼女には、どうしても確かめなきゃいけないことがある。

 扉と壁とのあいだに生じた隙間から伸びた白い腕が、動きを止めた。

「私語は厳禁よ」

 返ってきた言葉は、にべもないものだった。

「ちゃんと残さず食べることね」

 問答無用に腕を引っ込め、扉を閉めようとする。

「待てよ」

 強い口調で制止する。

「少しくらい話したって、別に構わないだろう?」

 ぼくの剣幕に驚いたのか、腕の動きがピタリと止まった。

 この様子だと、彼女も迷っているようだ。

 よかった――ぼくは安堵する。

(まだ、ヒトとしての心が残っている……)

 なら、そこに賭けるしかない。

「だいじょうぶ、少しだけだから」

 情に訴えかけるように言う。

「本当に……少しだけでも」

(頼む……)

 逡巡(しゅんじゅん)するような間があった。

 じりじりと背筋が徐々に焼けこげていくような、じれったさ。

「……そうね」

 やがて、腕が引っ込むと同時に、No.3は大きく息を吐いた。

「五分だけよ」

 隙間を維持したまま、No.3が言う。

「わたしも自分の食事があるから、あまり長話はできないわ」

「なに、五分で充分さ、ありがとう」

「お礼を言われる筋合いはないわ」

「それでも、ありがとうだよ。研究所の規律に反してまで、ぼくの要求に応えてくれたんだから」

「…………」

「No.3は優しいね。他の大人たちとは大違いだ。本当に、あいつらときたら――」

「……言いたいことは、ただの愚痴?」

「いや、違うよ。――ああ、もちろん、それもあるけど、本題はもっと別のところ」

「なら、早くそれを話した方がいいんじゃない? 時間はあまりないわよ」

「そ、そうだね」

 なるべく明るい声で言いながら体勢を変え、扉に背を預ける。硬く、ひんやりとした感触が、汗ばんだ背筋に伝わった。

 ほとんど扉越しに行われる意志疎通。腕がギリギリ通るぐらいに生じた隙間だけが、彼女とぼくとを繋ぐ唯一の接点だ。

 ぼくは考える。

(どうやって、彼女を説き伏せるか……)

 No.3が持つカードキーとパスワードは、このリビングスペースのセキュリティをすべて解除するだけの権限がある。

(ぼくが、ぼくたちが研究所から脱出するためには、彼女の協力がどうしても必要だ)

 力尽くでは、ダメだ。たとえ暴力に訴えかけたとしても、No.3は応じないだろう。

 彼女の細い首に下がるカードキーは手に入るかもしれないが、肝心のパスワードはその小さな頭の中にだけある。彼女が口を割らなければ、それでおしまいだ。

 もっとも、今のぼくの体力では、仮に相手が同年代の女の子であっても、勝てるかどうか怪しいが。

(それに……)

 さきほどNo.3の視点に立って見た、彼女が書いた日記の内容を思い出す。

 No.1とNo.2の相次ぐ『死』。それは、同じ被験者のNo.4が企てたという脱出計画が発端だと、彼女は思い込んでいる。

 実際は、計画如何にかかわらず、もともと危険な人体実験を行う手筈になっていたので、No.3の認識はまるっきり誤っているわけだが。

 でも、それが彼女にとっては事実なのだ。『自分のせいで二人が死んだ』。あの時、臆病にならず、脱出計画に賛成していれば。初めから、研究所の人間に媚びていれば。そうすれば、誰も傷つかずに済んだのかもしれない。死なずに済んだのかもしれない。そういった後悔が、良心の呵責が、No.3から考える力を奪い取り、過去に縛り付け、前を向いて前進する行為を、阻害している。浅間の操り人形に甘んじる原因となってしまっているのだ。

 ひとり、責任を感じている少女。彼女の首は、見えない鎖で繋がれている。過去という杭が打たれた、その場所に、釘付けとなっている。

 そして、このように重荷を背負うことで、彼女は自らを救おうとしている。犯した罪に対応する罰を受け、自らも苦しむことで、死んだ二人に、取り返しのつかない選択をしてしまった自分自身に対して許しを乞い、それによって間違いを犯した自分を慰め、必死に認めようとしている。

(自らを十字架に繋ぐこと。それが彼女なりの贖罪(しょくざい)であり、自己不信に陥った自分の救済であり、現実逃避の手段なのだ……)

 ある種の自傷行為にも似かよう偏った認識を変えない限り、彼女の世界は、依然、硬直し続けたまま。変化も発展も見込めないだろう。

 ぼくがこの研究所から脱出しなければならないように、彼女がこの研究上に居続ける理由もまた、ない。

 みんなで一緒に逃げ延びないといけない。

(ぼくに与えられた能力が、それを可能にしてくれる……)

 そう、信じて。

「……ねえ」

 扉の向こうから声がして、ぼくは現実に連れ戻される。

「あと四分を切ったわよ」

「え、もうそんなに経ったの?」

「あなたが黙り込んでいるあいだにね」

 重たい扉の向こう、呆れたように息を吐く。

「特に話がないなら、もう行くわね」

「あ、待って、待ってよ」

 慌てて引き止める。

「ちょっと、頭を整理していただけだよ、どんなことを話そうか、迷っていただけ、うん、そういうことにしておこう」

「ふーん。それで、答えは出たの?」

「もちろん」

 自信たっぷりに答える。

「No.3、きみに話したいことというのはね」

 大きく、息を吸い込む。

「じつを言うと、最初から決まっていたんだ」

「…………」

「いいかい? これからぼくが言うことは、決してウソでも冗談でも寝言でもない、紛うことなき本物の本当の本音だ」

「随分と回りくどいわね、時間もあまりないのだから早く言えば?」

「ぼくはここから脱出しようと思っている」

 沈黙が、彼女の返事として跳ね返った。

「……正気?」

「だから、そうだって言ったじゃないか」

「で、話はそれだけ?」

「ぼくは、きみと一緒にここから脱出する」

「…………」

「ウソじゃない」

「……じゃあ、妄想症による空虚な虚言ね」

「ぼくは本気だ」

「……バカバカしい」

「バカなのは、ぼくでもきみでもない、ぼくたちを苦しめる研究所の連中だ」

「……あまり勝手なこと言うと、あなたの大嫌いな研究所の人たちにお仕置きされるわよ?」

「ぼくは暴力なんて怖くない」

「口では何とでも言えるわね」

「痛みで体を屈服させても、ヒトの心は支配できない」

「そんなの、ただの強がりよ」

「ぼくは戦う。奴隷はゴメンだ」

「よく言うわね、今も部屋に閉じ込められているくせに」

「肉体は檻の中だろうと、心まで一緒に閉じ込めることはできない」

「…………」

「いい加減、自分を騙すのはやめろ」

「……一体、何のこと?」

「過去の過ちにばかり目を向けていたって、ダメだ。自らを懲罰しても、前には進めない。それは現実から目を背ける卑劣な誤魔化しで、卑怯な自己欺瞞(じこぎまん)だ」

「…………っ」

「罪を犯した昔の自分と、その罪を償う今の自分とを対置させることで分裂させ、置き去りになった過去の自分を嘲笑し、安全地帯に立っている今の自分を不当に正当化させる。きみは過去そのものを人格化させ、今を生きる自分と切り離し、それぞれを他人に仕立て上げた。要するにきみは、他人となった自分自身に、全てを押し付けているだけなんだ」

 だから、ぼくが現に接しているNo.3は、内容空疎の人形なのだ。少なくとも、浅間によって、そう思い込まされている。やつの手が、彼女の過去と現在とを強引に引きはがしているのだ。

「でも、いくら自分の存在を他人化させたって、きみは、きみなんだ。それで相手を騙せても、自分を騙し切ることはできない」

 互いに離ればなれの彼女を、ひとつに統合する。

(そして、それができるのは……)

「だって、きみは、きみでしかないんだから」

「わたしは、別に、騙してなんて……」

「騙している。『わたしは心のない人形だ』と、自らに言い聞かせることによって」

「……っ、あなたに、わたしのなにがわかるというの?」

「わかるさ、きみが本当は心の優しい女の子ってことぐらい」

「……どうしてよ」

「言っただろう、きみは、きみなんだ」

「……わたし?」

「うん。きみの心は、本当の気持ちは、どこでもない、きみの中にあるんだ」

「わたしの……なか……」

「自分の声に、耳を傾けるんだ。意識を遮断しちゃいけない。孤独に震える小さな自分自身に、そっと、寄り添ってあげるんだ」

「でも……わたしは……」

「怖がらなくていいよ、ただ、自分に素直になるだけ、たった、それだけでいいんだ」

「そんなことをしたら……わたし……」

「だいじょうぶ、きみは別にどこにも行きゃしないし、消えもしない」

 だって……。

「きみは、ぼくと一緒の世界にいるから」

「え……」

「ぼくときみは、同じ世界にいる」

「…………」

「今は壁に隔たれているかもしれないけど、心は通じている」

「…………」

「きみはひとりじゃない」

 ひとりなんかじゃ、ない。

「ぼくが……ぼくたちがいる」

 だから。

「どこにもきみは行かない。ぼくが現にここにいるように、きみは確かにそこにいるんだ」

 浅間の姑息な洗脳術なんかで、彼女の本当の気持ちを消し去ることはできない。

「実際、きみは、こうして、ぼくと話をしている。このことが研究所の人間に知られれば罰を受けるかもしれないのに、それでも、きみは、ぼくと話すことを選んだ。きみが本当は心の優しい女の子だっていう何よりの証拠だ」

 彼女の心は、確かに、そこにある。

「きみが自分を責めるのは、よくわかる。No.1とNo.2がいなくなって不安なのは、ぼくも同じだ」

 そう、だからこそ。

「もう二度と誰も失いたくないという願いも、一緒だよ」

 沈黙が、漂っていた。

 沈黙はやがて緊張にその姿を変え、空間を一本の線にまで凝縮させていく。

 神経が、いやでも研ぎ澄まされる……。

 どれくらいの時間が経っただろうか。感覚にして、それは永遠のように思えたし、一瞬のようにも感じられた。

 扉が、ゆっくりと、しかし、ぼくの身体をしっかりと押し返す頼もしい力強さでもって、大きく開かれる。

 ギィ、と乾いた音が静寂の中に響く。

 廊下の白い壁を背にして、No.3が立っていた。

 No.3は、泣いていた。

 雪のように真っ白だった頬を赤く染め、お人形さんみたいに透き通った両目からキラキラと輝く涙をいっぱい流して、泣いていた。

「う、うぅう……」

 まぶたを腫らし、唇を噛み、肩を震わせ、泣きじゃくっている。

「ご、ごめんなさい……、ごめん、なさい……」

 涙ながらの謝罪は、ぼくというより、彼女自身に向けられたものだった。

「わたし……怖くて……、痛い目にあうのが嫌で……それで……」

 ピンと張り詰めた緊張の糸は、もう、すっかり解けていた。

「いいんだ」

 泣き腫らすNo.3に微笑みかけながら、ぼくは言った。

「これ以上、自分を責めなくて、いいんだ。悪いのはきみじゃない、きみや、ぼくたちを苦しめる、研究所の連中なんだから」

「う、うぅ、ううぅ……っ」

 No.3は、声にならない声で、ただ、泣いた。

 生まれたての赤子のように泣くこと。それが、今まで無理に押し殺していた彼女が心から望んだことであり、本当の気持ちだった。

 彼女は、今まで、人前で泣くことすら許されなかった。

 自分には、その権利がないと思い込んでいたから。周囲の大人に、そう思い込まされていたから。

 だから、彼女は、No.3を演じ続けていた。大人の目に適うように、自分自身を偽っていた。何か感情を抱いたり、それを表現することさえ許されない、冷たい機械のような役割を、自分に課していた。

 でも、彼女の表情豊かな側面を上塗りする、無骨で硬質な仮面を装着するのは、もう、おしまい。

 春の日差しで雪に埋もれた地表が顔を出すように。冷たく凍り付いていた彼女の心は、固く閉ざされた心のドアは、降り注ぐ温かな言葉によって氷解し、その本当の中身を覗かせる。

「わたし……っ、あなたに、何かあったらって思ったら……っ」

「だいじょうぶ」

 子犬のように弱々しく震える彼女を、そっと抱きしめる。

 彼女は耳元で小さく「あっ」と声を上げ、ぼくの顔を不安そうな目で覗き込んだが、やがて、その身を預けた。

「泣きたかったら思いきり泣いていい。辛かったら辛いと言っていい」

「う、うぅ……っ」

「それを咎める権利は、ぼくにも、きみにも、ううん、誰にも、ないんだ……」

 本来なら……。

「ううぅ、うああぁあ……っ」

 No.3の冷たい身体が、涙でぐしゃぐしゃの顔が、火傷しそうなくらいに熱い吐息が、ぼくの胸に強く押し付けられる。

 細い、しなやかな身体だ。ちょっとでも力を込めればすぐにでも折れてしまいそうなぐらいにか弱く、誰かの支えがないと今にも倒れてしまうんじゃないかと思うぐらいに頼りない。

 だから、ぼくは、今にも消えてしまいそうな彼女の身体を、壊れ物を扱うような慎重さと、我が子を慈しむような繊細さ、そして何より、男が女を抱擁する際に用いる、本能的に絶妙な細心の力加減で、その全身を包み込んだ。

 艶のある、癖のない、長い黒髪。丸みを帯びた小さな頭頂部。それが、ぼくの腕の中でもぞもぞと小刻みに動いている。

 彼女から漂う、お日様が照らす野原のような優しいニオイをいっぱいに吸い込みながら、ぼくはその柔らかい身体を両腕で包み込む。

 ようやく現れた本当の彼女を、この場に繋ぎ止めるように。

 もう二度と、離さないように。

 ギュッと……。

 この手で、抱きしめた。

「なにも、心配はいらないよ」

 彼女の頭を優しく撫でながら、言う。

「ぼくは、死なない」

「うん……」

「きみのことも、死なせやしない」

「うん、うん……」

「みんなで、生きて、帰るんだ」

「うんっ……」

 しばらく、ぼくたちは、抱きしめ合ったままでいた。

 ぼくと、彼女の世界は、それぞれの体温、息遣い、重なる肌と肌、そういったもろもろを通じて、ひとつになっていた。

 自分の汗臭さとか、体面とか、そんなことは些細な要素だ。ぼくたちを遠ざける要因なんて、自分の中にも、外にも、もはやない。

 互いに足りないものを補填し合うように、分け与えるように。ぼくたちはひたすらに他人を求め、磁石のように引きつけ合う。

 人類に共通する、たったひとつの『愛』によって。

 異なるヒトとヒトは、まさに、同じ世界の中でひとつに溶け合い、融和していた。

 世界は、まさに、そこにあった。

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