第百十四話 決断
・一九八六年 七月二十九日 午後六時二十八分 認識力研究所一階リビングスペース五号室
手狭な正方形に区切られた、窓のない小部屋。
蒸し風呂のような熱気がこもった五号室で、ぼくは机に向かう。
(そうだ、もう一度、ぼくが置かれた立場を整理するんだ)
心機一転、ぼくはバシバシと頬を叩き、集中する。
すでに、意識は冴え渡っていた。背筋をピンと伸ばし、力いっぱいに両目を見開き、顎を上げ、前を向き、視線の先にある白壁を穴が開くほどに凝視する。
被験者であるぼくの汗くさいニオイが染みついた、傷ひとつない、真っ白な壁。それを無地のキャンバスに見立て、思考のペンを走らせる。机に転がる実物のペンを握り、そのペン先を日記の紙面に転がす力と手間が、惜しかったからだ。
(少しでも、体力を温存しておかないと……)
患者衣のような淡い水色をした薄手の衣服の上から左胸に手を当て、思う。
なおも心臓は早鐘のごとく律動を繰り返し、ぼくの肉体が着実に極限状態へと追い込まれていることを示唆する。
正常な判断能力が残っているうちに、わかっている範囲での情報を整理しておきたい。
(ぼくのこの意識がいつまで保てるのかも、わからないからな……)
前置きはこれくらいして、本題に移ろう。
ぼくが洗い出すべき疑問点は、次のようになる。
1.ぼくの身に何が起こっているのか?
2.研究所の人間はぼくに何をしたのか?
3.研究所からどうやって脱出するか?
まず、最も手近な問題と言える1から順に解決していこう。
ついさっきまで机に向かっていたはずのぼくが眠りについていた時、一体、何があったのか?
ぼくの記憶の限りでは、あの、くぐもった笑いが特徴的なしわがれ声の老人、拝戸久三は、一切の身動きが取れないNo.4(ぼく?)に対して、とある話を囁きかけていた。『化け物』と人々から呼ばれ、恐れられた、自分自身の過去を……語っていた。
(と、すると、拝戸久三本人がその足で五号室を訪れ、机に突っ伏して深い眠りに落ちているぼくの横に立ち、自らの思い出話を吹聴していたのだろうか?)
確かに、そう捉えるのが自然だろう。
普通なら。
けれども、『それは違う』という確信を抱いていた。
なぜなら、ぼくは、普通じゃないから。
ぼくには、わかっていた。拝戸久三が訪れた部屋というのが、この、五号室じゃないことを。
では、彼は、どこにいたのか? どの場所で、
(それは……)
ぼくの頭の中にでかでかと明示される、とある文字列。電光掲示板のそれのように、くっきりと映し出される。
(――私設研究室)
認識力研究所の二階にある、所長のみが使用を許可された一室。
彼は、拝戸久三は、その部屋でぼくに話しかけていた。
当てずっぽうの推測とか、そうであればいいとの願望とか、そういう次元の話じゃない。
知っているのだ。
あれは、あの出来事は、こんな、閉塞感に満ちた息苦しい五号室じゃない、こことはまったく別の私設研究室で繰り広げられたものだということを。
(……しかし、なぜ?)
疑問はさらなる疑問の呼び水となってぼくの心に波紋を広げる。
(どうして……、どうして、そんなことが、ぼくにわかるんだろう?)
拝戸久三の話を聞いている時、辺りは闇に染まっていた。視覚が、まったく機能していなかったのだ。
視覚から入手できる外部情報は、約80%を占めると言う。
正しい空間認知に必要不可欠な視覚抜きに、そこが私設研究室だと確証させる判断材料は皆無に等しい。
それが証拠に、ぼくは、あの時、唯一無事だった聴覚だけを頼りに、自分の置かれた状況をどうにかして汲み取ろうと努力していた。
(それなのに、なぜ……)
なぜ、ぼくは、知っているのだろうか? 拝戸久三の話を聞いた場所が、この五号室ではなく、私設研究室だということを。
うまく、説明できない。
例えるなら、それは、生まれつき目の見えない人間に、赤や青といった色彩の情報を伝えるようなもの。自分では当たり前だと思っていることを証明する難しさともどかしさに、ぼくは直面している。
知っているから、知っている。
ナンセンスな同語反復。
けど、そうとしか言いようがない。
(ひとつ、考えられる可能性があるとすれば……)
ぼくに与えられた、あの能力。今、この瞬間を待ち構えていたかのように脳裏をかすめる。
ひとつは、『幽体離脱』。
そして、もうひとつは――。
(『神の視点』……)
いつからかぼくに宿った、不可思議な能力。自分の肉体から意識が抜け出るだけではとどまらず、ぼく以外の別の誰か、あるいは、その誰かを含めた全てを客観的な視点から俯瞰する、『絶対精神』とでも言うべき概念。
なぜ、ぼくに、そんな能力が備わっているのか?
ここで、疑問は1から2に移行する。
ぼくに、人間離れした能力がある理由。
平たく言えば、先天的か後天的か、そのいずれか。
答えは、すでに出ている。
(……人体実験……)
それしか、ない。
No.1とNo.2も、ぼくたちの実験に先んじて行われた脳の手術によって特殊な能力を発現させ、そして、死んだ。(これもまた、拝戸久三から聞いたものだ)
ぼくは、研究所の連中が行った実験によって、『幽体離脱』、浅間有一の言うところの『離魂病』よろしく、意識が身体から抜け出し、ぼく以外の誰かの視点に立てるという、特別な能力を獲得した。
そして、幸か不幸か、その能力のおかげで、ぼくは、普通じゃ絶対に知ることのできない、いろいろな秘密や情報を手に入れられた。
つまり、こう考えることができる。
ぼくが気絶するようにして机に突っ伏した直後、例の『幽体離脱』をして、知らず知らずのうちに五号室を抜け、二階にあがり、私設研究室に侵入し、そこで、拝戸久三の話を盗み聞きしていた、と。
それも、ぼくとは異なる、誰か、別の人物の視点に立って……。
(じゃあ、その『誰か』とは、一体、『誰』なんだ?)
当時の状況を、よく、思い返す。
真っ暗な部屋……。
動かせない身体……。
暗黒に響く、拝戸久三の声……。
『No.4』
そうだ。
確かに、あの時、ぼくは、ぼくじゃない、けれども、ぼくに酷似した人物……No.4と呼ばれる、『誰か』の視点から、拝戸久三の話を聞いていた。一切の身動きが取れない身体で、何も見えない暗闇の中、ぼくは……、たくさんの情報を受け取っていた。
間違い、ない。
だが、ここで、最大の疑問が立ちはだかる。
それは、ぼくの存在を根底から揺るがす、根本的な問いだった。
(あの時、どうして……)
どうして、拝戸久三は、私設研究室にいるその人物に向けて、何度も、No.4と呼びかけていたのか? この場合、No.4とは、一体、誰のことを指しているのか?
私設研究室で拝戸久三と一緒にいたであろう、あの、『ぼく』とは、一体、何者なのだろうか?
記憶と事実の不一致。
致命的な齟齬。
(もう一度、よく考えてみよう)
仮に、私設研究室にいるであろう『ぼく』こそが、正真正銘のNo.4だとすると、幽体離脱したぼくが資料室で聞いた浅間の計画などは真っ赤な嘘となり、ぼくに与えられたNo.5の識別子が、結局は正しいということになる。ぼくが、No.4であるとの前提が、覆されてしまうのだ。
(でも、果たして、本当にそうなのだろうか?)
ぼくに残された記憶の痕跡は、この五号室に誰も来ていないという事実を指し示す。
加え、私設研究室で起きたであろう一連の出来事が単なる妄想の類だとは、一概に否定できない。
というのも、ぼくは、以前の『幽体離脱』で、私設研究室にいた、拝戸久三の息子であり、研究所の所長でもある拝戸幸伸と、被験者に同情的な中立的立場にある春日井大和、この両者の密会を、覗き見たことがあるからだ。
一台のコンピュータから放たれる明かりに照らされた、薄暗い室内。用途不明の実験器具や、分厚い書物が大量に収納された書架に覆われた部屋の中央には、手術台を思わせる寝台が不気味に鎮座し、その上に、誰かが、全身に布を被された状態で横たわっていた。
(その人物こそ、おそらく……)
本物の、No.5。
もっとも、ぼくがNo.4じゃないのなら、代わりに、私設研究室にいた人物こそが、やはり、No.4ということになる。
(どっちだ?)
私設研究室にて、被験者と思しき誰かにNo.4と語りかける拝戸久三。
かたや、資料室で、No.4をNo.5と誤認させるよう仕組んだと話した浅間有一。
(どっちが、正しいんだ?)
あるいは、どちらも間違いか。
(いや、待てよ……)
たった今、重要なことを思い出した。
どうして、このことを念頭に置いていなかったのか。
(そうだ……おかしいじゃないか)
拝戸久三と、浅間有一。過去に『AZ』という秘密結社に属し、暴力革命の実現を目指した、事実上の師弟関係にある二人の話には、ある共通点があった。
同時に、おかしな個所も、また。
それは、こうだ。
拝戸久三は、No.4に対して手術を行い、他人の記憶を植え付けた、と言った。
しかし、浅間有一は、No.4に、他人の記憶を埋め込む薬品を投与する予定だ、と語った。
この、奇妙な類似性。
(どういうことだろう?)
不自然だった。不可解、と言い換えてもいい。
拝戸久三の言うように、手術によって記憶の移植が成功したのなら、浅間有一が、No.4に、同一の被験者に、記憶を操作する薬品を投与する理由が、わからない。少なくとも、それが意味のある行為だとは、思えない。
(そんなことをしたら、一体、どちらの実験が当人の記憶に影響を与えているのか、わからなくなるんじゃないか?)
または、相互の実験が干渉し合うことによって、実際の効果が相殺される可能性だってある。
(むしろ、それを狙っている……?)
どうなんだろう?
単純に、彼らのあいだで意思疎通がほとんど行われていないがために発生した、偶然的なバッティングだと捉えられなくもない。
しかし、多大な手間と費用のかかる合同研究で、そんな偶然が起こるだろうか?
ヒトの命を扱っているんだ、可能な限り、リスクを回避するものじゃないのか?
そう考えると、やはり、No.4とNo.5という、それぞれ異なる被験者に別々の実験を行っていると捉えるのが合理的だ。その方が辻褄が合う。
やはり、どちらか一方が、間違っている。もしくは、嘘をついている。
(それが、単純な間違いであるなら、いいんだけど……)
厄介なのは、後者……、拝戸久三と浅間有一の、どちらかが意図的に噓をついている場合だ。
No.5をNo.4と誤認させて、一体、彼らにどのような得があるのか?
その答えは、彼らが求めた結果から推論される。
(同一性の喪失、か……)
ここでもまた、拝戸久三の語った例の話が、いびつに歪んだ記憶の扉をトントンと叩く。
彼は言った。ヒトは、誰でもない、誰かであるからこそ、もっと直接的で具体的な、確固たる何かであることを欲する。自分ではない何かに、変貌を遂げようとする。主体性のない奴隷から、主体性そのものである主人になろうと、決意する。
(この場合、『誰でもない、誰か』とは、No.4とNo.5のあいだを浮動するぼくのことを指す)
固有名詞を失ったぼくは、常に宙吊り状態にある。不確かなその存在性は右に左に揺れ動き、振り子のように定まらない。ただ、「何者かである」という単なる可能性のみが、互いに距離を隔てた両端に提示されている。
けれども、やつらが、ぼくを、自分たちの望んだ枠組みに無理やりはめ込もうとするのなら、ぼくはそれを真っ向から否定しないといけない。
やつらのやっていることは魂の殺人であり、れっきとした犯罪だ。ヒトを、死に、追い込もうとしているのだから。
到底、許されることじゃない。
(当人から他人への移行は、その人の死にも等しい……)
そう、『死』。
そこに、その一点にのみ、やつらの狙いが凝縮されている。
ヒトが、他人によって規定された偽りの自分じゃない、本当の自分自身を獲得しようとする何よりの契機は、当人が『死』を意識し、生命の脈動を自覚する瞬間だという。
(『死』、ね……)
改めて、辺りの様子を目に入れる。
小さな正方形に切り取られた、息の詰まる閉鎖空間。簡易なベッドにトイレなど、ヒトが生きるのに必要最低限の設備だけが用意された室内は、さながら、実験用のマウスか何かを飼育するゲージを思わせる。
嫌でも死を直視するように整えられた、最低最悪の環境……。
(仕掛け人は、拝戸久三か、浅間有一か……)
二人の実験は、手段や方法は異なれど、共に同じ目的地を目指している。
(そのヒトの中で確立された自己同一性の解体と、その再構築。『自分が自分でなくなる』というプロセスを、ぼくという被験者を使って実証しようとしている)
二人の意識は、明らかにその方向を向いている。
(だから、ぼくは、こんなにも苦しんでいる……、自分がわからず、こうしてよろめき、動揺している……)
他人の視線が、「彼は○○だ」という思い込みによる志向性が、その人の存在性を規定する。
No.4?
No.5?
それとも、まさか、それ以外?
ぼくの……本当の名前は? その正体は?
「ぼくは、誰?」
気が付けば、また、その疑問が口をついていた。
自分が何者なのか、ぼくは未だにわからない。
機械の製造番号よろしく割り当てられた無機質な識別子は、ぼくから個性を剥奪し、その存在性を希薄にさせる。
記憶喪失。
幽体離脱に、神の視点。
『誰でもない、誰か』
(……No.4か、No.5か……)
それとも……。
(このように、ぼくの記憶が飛び飛びで、明らかに他人のものも含まれているのは、すでに、記憶の移植手術が成功しているからなのか……?)
それに、拝戸久三の言う、並行世界の生成を可能とする、波動関数発生装置とは……?
(ぼくは……誰だ?)
またしても頭によぎる、ぼくという存在の不確定性。
いずれにせよ、あまり考え込んでいる時間はない。
浅間有一の言葉を信じるなら、No.4、つまりぼくに、これから、偽りの記憶を埋め込むことになっている。
IMAGEと名付けられた試薬は、投与された人間の記憶を書き換える効果があるという。
(ぼくが、浅間有一の言う通り、やはり、No.4であるならば、ぼくは、じきに、自我を失ってしまうだろう)
ぼくが、ぼくでなくなる。
それは、『死』だ。
精神の『死』。
その恐ろしさは、ぼくが一番よく知っている。
(記憶のないぼくだから……)
他人の記憶が、ぼく自身を形成する。
もはや、それは、ぼくじゃない、別の誰かだろう。
(仮説はこうして立証されていく……)
ぼくという存在の死を、踏み台にして。
想像して、ぶるっと身震いする。
「これ以上、やつらの思い通りにさせるもんか……」
手遅れになる前に、ぼくは、ここから逃げ出さなければならない。
ぼくは扉の方を向く。
重たく口を閉ざした鉄製の扉。
首にぶら下がったカードキーでは、扉のセキュリティを解除することはできない。
それぞれの区画と部屋を自由に行き来するためには、そのレベルにあったカードキーと、扉ごとに設定されたパスワードが必要だ。
ぼくは、両方、持っていない。
では、どうするか?
(それは……)
と、その時だった。
――コンコン
扉がノックされた。
姿勢を低くして身構えていると、扉の向こうからくぐもった声が届く。
「……わたしよ」
No.3だ。
彼女が、今、扉の向こうに立っている。
緊張に、背筋が震えた。
ゆっくりと椅子から降り、忍び足で扉の前に進む。
「食事を持ってきたわ」
感情の起伏に乏しい無機質な声が、扉の前に立ったぼくの耳に届いた。
ドッドッドッと、心臓が早鐘を打つ。
最初にして最後のチャンス。
確約された、脱出への糸口。
(……いよいよか)
どうやら、決行する時が来たようだ。
3つ目に用意された、最後の疑問、その追及。
つまり、この研究所からの脱出を。
策は、ある。
そして、疑問に対する解決策は、No.3を抜きにしてはありえない。
ぼくと同じ被験者の立場にありながら、その被験者を世話する役目を持った彼女になら……。
(きっと、いや、絶対に……)
小さな希望の光が、絶望に淀んだ世界に灯る。
いまにも消えてしまいそうなほど頼りない光。
(ぼくが、きみを救う)
この、終わらない悪夢から。
(その目を、覚まさせてやるんだ)
みんなと、一緒に……。
鈍色の鉄扉を真っ直ぐに見据え、ギュッと握りこぶしを作りながら、ぼくは覚悟を固めた。