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第百十三話 揺籃

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時二十三分 認識力研究所一階リビングスペース五号室


「……っは?!」

 慌てて上半身を起こす。

 顔の右半分が、妙に熱い。頬から下顎の辺りにかけて、ピリピリと痺れるような感覚があった。

 まるで、頬杖をつきながらうっかり転寝(うたたね)をしてしまい、そのままずっと同じ姿勢で居続けた時のような……。

 ――って。

(そ、そうだ……、ぼくは……)

 半ば屈伸するように背を曲げて椅子に座っていたぼくは、壁際に設置された質素な机の上で、顔の右半分を下にしながら眠っていた。――そう気が付くのにも、わずかな時を要した。

 全身の毛穴から噴き出る焦燥の汗、汗、汗。

 反射的に首を左右に回し、両目を細め、注意深く、視線を辺りに巡らせる。

 白い、正方形の部屋。天井は低く、中央部には頼りない明かりを放つ電灯がぶら下がっている。

 狭苦しい、密室のワンルーム。

 間違いない。

 ぼくは、例の、あの部屋にいる。

 虚飾にまみれた象牙(ぞうげ)の塔、その内部。身体中の水分がカラカラに枯渇するほどの異様な暑さが魔法瓶みたいに閉じ込められた五号室に、ぼくは、いる。

(……五号室?)

 全身にじっとりとまとわりつく汗の不快感に眉を寄せながら、軽く首をひねる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 そう、No.3。彼女が過ごす三号室の中で、ぼくは、日記を……。

(いや、そんなはずは……)

 混乱の波に揺れるぼくの視線は、救いの矛先を求めるように緩やかな弧を描いて、つーっと、セキュリティドアの方に向かう。

 堅牢に閉ざされたドア。部屋と他とを明確に区切る鉄扉には、蟻の子一匹通さない厳重なセキュリティが施されている。

 研究所に飼われた被験者であるぼくが、無断で勝手に部屋を出ることは許されない。

 ()()()()……。

(っく……)

 慢性的な水分不足のためか、相変わらず、頭痛がひどい。

 目の前がぼんやりとかすみ、頭がくらくらする。

 まるで、自分が自分じゃないような、足元のぐらつく不安感。

 つま先から頭のてっぺんまで、困惑に揺らいだぼくをすっかりと覆い尽くしてしまうほどの真っ黒で巨大な影が、音も立てずに忍び寄る。

(ぼくは……、また……)

 また……()()()()()()()()()()……。

 それも、No.3の……。

(……いや、それだけじゃない)

 順を追って記憶を遡る。

 No.3の視点で物事を見る前に、ぼくは、もっと、違う場所にいた。

 たとえるなら、それは、純粋な悪意に満たされた空間。芯まで氷水に浸かるような、身も心も凍り付く場所。

 できることなら、思い出したくもない。

 けれども、不安定で不完全なぼくの記憶は、はっきりと、あの時の出来事を覚えていた。

 そう、あの、外耳(がいじ)をなぞってもぞもぞと入り込み、その名の通りカタツムリに似た形状の蝸牛(かぎゅう)を通って脳髄に浸透する、地の底から響くような、老人のしわがれ声を……。


()()()()()()()


 あの男は、最後に、そう言った。

 笑いながら。

 確かに、そう言っていた。


 ――殺しなさい、と。


(……どうして?)

 全身に冷水を浴びせかけられたような、肝の縮み上がる寒々しい感覚。

 夏の暑さと逆行する悪寒に、ぼくは小さく身震いした。


 殺す。


 殺す。


 ()()()()


『息子である幸伸と、そして、この私を』


 ――殺しなさい。


 頭の中で釣鐘が鳴ったかのように反響する低い声と、あの、痰が絡んだような特徴的な笑い。

「……くそっ」

 記憶が錯綜し、もつれ合い、あたかも首が締め上げられているかのような錯覚に襲われる。

 たまらず、頭を抱えた。

(それにしても……)

 このまま窒息してしまいかねない閉塞感と息苦しさに触発されるようにして、ぼくは、ふと、こんなことを考えた。


 ――本当に、ぼくは、ぼくなのだろうか? と。


 朦朧とした意識も手伝ってか、ぼくは、ぼくという存在に自信が持てずにいた。

 ぼくがぼくであることを担保する、唯一の記憶。その記憶が飛び飛びのせいで、ぼくは自分がわからない。

 こんがらがる記憶の細い糸。

 水中に垂らしたテグスの先、そこにくくりつけた釣り針が根がかりしてしまったように、どれだけ必死に手繰り寄せてもテグスがピンと張るだけで、一向に突端が見えてこない。

 引っ張っても、引っ張っても、岸壁と一体化した岩を持ち上げようとするのにも似た、空虚な手応えがあるばかり。

 ぼくの視線の先にある、妙に骨ばった、土気色の自分の指先さえ、どこか他人のもののように思えてくる。

 ぼくが、正真正銘、「ぼく」であるということの明証性。普通の人には当然あるべきものが、ぼくにはすっかり欠落している。

 虫食いだらけの、本のように。

(けど、それでも、確かなことが、ひとつだけある)

 朝もやのように判然としない「ぼく」という存在を繋ぎ止める、ただひとつの事実。はっきりと、自覚している。

 それは……。

(ぼくは、どういうわけか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ぼくは、それを知っている。

 確かにぼくは、虫に食われた一冊の書物みたいなものだろう。穴の開いた箇所からは、向こう側が見通せる。文脈に沿わないページの先が、意図せず、読み取れてしまうのだ。それは他人の心境だったり、物語の全体図だったり、場合によって様々だ。主観、客観の区別はおろか、時系列さえ、時にはバラバラ。

 ぼくは、「ぼく」であると同時に、「ぼく」じゃ、ない。

 だけど、いや、だからこそ、ぼくは不安だった。

 連続性の断絶は、そのまま、同一性の喪失を意味する。物体は延長であり、意識とは持続そのものだからだ。

 しかし、ぼくは、その前提のどちらにも一致していなかった。

 いくら期間が限定的とはいえ、ぼくの意識は、ぼくという肉体を離れ、挙句、「ぼく」を保証する肝要の意識さえも別人のものと同一化する。

 肉体と意識の分離、断裂。

 つまり、ぼくのこの身体、この意識は、ぼくのものじゃない、まったく別の誰かのものなんじゃないかと思えてくるのだ。

 ぼくには、過去の記憶がない。

 記憶のないぼくの脳裏に残留しているのは、あろうことか、他人の記憶。

(もしも、記憶が、意識が、その人の存在を証明する一種の手形なのだとしたら……)

 じつは、この、ぼく自身でさえも、ぼくじゃない、別の誰かによって、視点を借りられているだけで……。

 ひょっとしたら、本当のぼくは、どこにもいないんじゃないかって……。

 そんな、取り留めのない考えが、沸々と湧いてくる。

 心の中では、「いや、そんなはずはない」と否定するのだけども、心のもっと根深いところでは、その可能性の否定を否定しているぼくがいた。

 ぼくは、他でもない、ぼく自身を疑っている。

「う、あ……あ」

 だらりと開いた口の端から、声にならない声とよだれが漏れる。

 気付けば、ぼくは、傷付いた小動物のようにうずくまっていた。床の上に視線を落とし、小刻みに震えながら膝を抱える。

 たちまち真っ暗になる視界。


()()()……()?」


 ぼくじゃない、別のぼくが、耳元でそうつぶやいた、ような気がした。


「ぼくは……誰?」


 また、声が聞こえた。

 弱々しいが、しかし、明確な意志を持った声。

 意識が――分裂する。

 ぼくがどこにいるのか……まるでわからない。

(いや……)

 糸の切れた操り人形みたいに身体を二つに折り、机の前でぼうっと居尽くしていたのも束の間、ぼくは、背中に覆い被さる重たい不安を振り払うように顔を上げ、ぶるぶると首を横に動かす。

「ぼくは、ここにいる」

 自分の存在を証明するように、真っ直ぐ、前を向いて、断言する。

(ぼくは、ここに、こうして、存在している。椅子に座り、机に向かい、真っ白な部屋の一角を見据えている)

 それが、それだけが、真実だ。

(ぼくは他人じゃない……ぼく自身なんだ)

 そして、被験者No.5と呼ばれるぼくは、認識力研究所に設けられた劣悪な環境のリビングスペース、その五号室で、半ば監禁状態に置かれている。

(……そういう、ことなんだ)

 ぼくは、ぼく。

 ひとつの世界とも言えるその輪の中に、赤の他人が介入できる余地はない。ぼくの苦しみを、この、全身を貫き、震撼させる、途方もない痛みと不安を背負うことができるのは、ぼくだけなのだ。

(ぼく以外の人間が、それを知ることはない……)

 万が一、知れるのだとしたら、そいつは、きっと、神だけだろう。

 ぼくでありながら、かつ、ぼくではない、誰か。

 ぼくという主観でありながら、同時に、ぼくを見つめる客観でもある、絶対精神の持ち主……。

(そして、皮肉なことに、ぼくは、それを……)

「……はあ、はあ」

 いつの間に、ぼくは肩で息をしていたのだろう。

 身体が、異様に重たい。まるで、全身が(なまり)になってしまったみたいだ。ガチガチに筋肉が凝り固まり、もはや、身じろぎひとつままならない。

 少しでも関節を動かそうものなら、たちまち、電流のような鋭い痛みが身体中を駆け巡るのだ。

 洒落にならない、この状況。

 以前にも増して体調が悪化しているのは、明白だった。

「……負けて、たまるか」

 唇を噛み、その直後に走った痛みで、他の痛みを相殺する

 休んでいる暇はあまりない。ぼくに残された時間は、決して多くはないのだ。

「はぁ……、ふぅ……」

 ひとまず、過呼吸気味に乱れた吐息を整える。

 換気のできない室内は、お世辞にも空気が良いとは言えないけれど、深呼吸のひとつもしなければ、気分も落ち着かないだろう……。

「ふぅー、はぁー、ふぅ……」

 一度、二度、三度……ぼくは何度か、五号室の淀んだ空気を肺に取り入れ、そして、吐き出す。

 自律神経を正常に戻す一連の運動が功を奏したのか、深呼吸するにつれて次第に明瞭になる視界と、意識。山の湧き水のように澄んだものとまではいかないまでも、どうにか濁りは取り除けた。

 ここは研究所の五号室。すっかり見慣れた正方形の内観が、辺りに視線を這わせるぼくの目に改めて飛び込んでくる。

 しかし、すぐさま別の問題が水面下から浮上した。

(……()()()()()()()()()()()()()()?)

 不意に、ぼくは、自分が気絶するようにして机の上に突っ伏していたことを思い出す。

 数秒か。

 数分か。

 あるいは、もっと?

「っぐ……」

 額を押さえ、思わず、うめく。

 目の前でパチパチと弾ける火花。

 立ちくらみに似た症状。

 脳細胞を働かすのに必要な体力や栄養素が欠乏しているのか、今にも脳神経が焼き切れそうだった。

(考えろ……)

 眉間を揉み、歯を食いしばる。

(考えるんだ……)

 白くかすんだぼくの記憶に色濃く残っているのは、視界の全てを包み込む、一色の、闇。

 地上の光が一切届かない深海を思わせる暗黒に響くのは、とある老人のしわがれた声。


N()o().4()


 声は、確かに、そう言った。静かな、しかし、重々しい口調で、その番号を告げた。

 ……()()()()()()

 脳裏に弾ける疑問の閃光。うすもやに覆われたぼくの意識を吹き飛ばす火花が、茶色く錆び付いた思考回路に着火し、神経細胞同士をつなぐニューロンパルスとなって脳全体に拡散する。

 No.4。

 字面通りに受け取れば、何のことはない、特定の被験者を表す識別子。変わったところなんて、別段、あるはずがない。

 けれども、ぼくには、どうしてもその番号を看過できない事情があった。

 No.4。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 確証はないけど、確信はしている。

 研究所の連中にNo.5との識別子を与えられていたぼくだったが、本当は、No.4なのだ。

 そのことは、ぼくが時おり見る白昼夢じみた夢……不可解な『幽体離脱』現象によって説明できる。ぼくのような被験者を管理する研究員、浅間有一が、自らの理論を実現させようとぼくの認識を阻害し、これを捻じ曲げ、ぼくをNo.5と誤認させるように画策していたのだ。

 人の認識が、己を、そして、世界を作り上げ、これを変えていく。

 ぼくは、そのための実験台だった。

(じゃあ、やっぱり、あの老人の声は、ぼくに語りかけていたのか?)

 一旦はそう考えるも、すぐに疑問が襲い来る。

 何かが、おかしい。

 魚の小骨が喉に刺さった時のように、無理にそれを飲み込もうとすればするほど、嫌な感覚が募っていく。

 咽喉(いんこう)に食い込む、不快な違和感の塊。

 その正体は、一体、何だ?

 顎に手を当て、考え込む。

 いや、正確には、考えようとした。

 いざ物思いに(ふけ)ろうとした瞬間、ぐらっ、と目の前が大きく揺らぐ。

 グワン、と鉄の板がたわむような感覚。ぼくの視界は、そんな感じにぐにゃりと歪んだ。

「うっ……」

 照明が切れたみたいに暗転する視界。

 反射的に、両目をギュッとつむった。

「っぐ……」

 左胸を押さえる。

 心臓が、痛い。

 ドクン、ドクンと、激しいほどに鳴り響く心音が、不調にあえぐ脳を揺らす。

 通常よりも幾分か早い、心臓の鼓動。

 極度の緊張状態にあるためか、はたまた、脳の働かせるのに足りない血液を送り込もうとしているのか。過度に収縮と弛緩(しかん)を繰り返す心臓は、空気の入れ過ぎで膨張しすぎた風船のように、今にも破裂してしまいそうだ。

「はあ、はあ……」

 まるで、激しい運動をした直後のような息苦しさ。

 左胸の奥とわき腹にも、刺すような痛みがあった。

 呼吸はまたも荒くなり、ぜいぜいと、肩で息をするようになる。

 キーンと、耳鳴り。

 何も見えない、暗闇の中。


 ――こんなことを考えて、何になる?


 ぼくじゃない、しかし、ぼくでもある誰かが、うるさいぐらいの耳鳴りを退けて囁いた。


 ――考えたって、苦しいだけだ。


 うるさい。


 ――何も考えずに過ごした方が、ずっと楽だ。


 黙れ。


 ――お前には、何ひとつできやしないよ。


 消えろ。


 ――抗うだけ、無駄なのさ。


 失せろと言っている!!


 ドンッ!!


 しきりにぼくを誘惑する悪魔の声を一心不乱に振り切ろうと、机に思い切り拳を打ち付ける。

 ぶん、と風切り音が鳴るくらいに勢いよく振り下ろした握り拳にじんわりとした痛みが広がり、ぼくは我に返る。

(……落ち着け)

 赤くなった右手を、ゆっくりと、かばうようにして左手でさすりながら、自分自身に言い聞かせる。

 にわかに乱れ始めた意識を、徐々に、徐々に、鎮めていく。

(落ち着け、落ち着くんだ)

 何度も、何度も、言い聞かせ、強力に自己暗示する。

 惑わされちゃいけない。

 自分を見失っちゃ……ダメなんだ。

 No.3のように、苦しみから逃れたいからといって、目の前の現実から目を逸らしちゃ……いけないんだ。

 白と黒、寿命間近の蛍光灯のようにチカチカと明滅する脳裏によぎるのは、彼女が書いた日記の内容。そこには、周囲の大人たちによって無理やり背負わされた罪悪感に苦しむ彼女の本音が、その悔恨が、赤裸々につづられていた。

 これ以上、何も、失わないために、自らが人形であることを選んだ少女。

 自分を捨て、思考を放棄し、諾々と主人に従う、奴隷のような存在。

 そんなふうに、彼女を、No.3を洗脳したあの男を、ぼくは、許すことができない。

(浅間、有一……)

 ぼくの脳裏に、はっきりと、その男の姿が映り込んだ。

 認識力研究所に勤める研究員。口元を不敵に持ち上げ、常に笑みを絶やさない、掴みどころのない人物。

 その正体は、過去にベトナム戦争を経験した反動で、現存するほとんどの人間を敵視し、憎悪する、十数年前の日本に暴力革命を実行しようとした、恐ろしいまでの『狂人』。

 ぼくもまた、やつの企てた()()()()()()()()の頭数に数えられている。

 そればかりか、ぼくの脳は、すでに、やつらの手によっていじくられた後かもしれないのだ。

(甲種合格、ね……)

 首筋をそっとなぞるようにしてをまざまざと蘇るのは、身動きできない暗闇の中での出来事。音叉の奏でる低音みたいに重たく響く、あの声の存在が、閉じた記憶の扉をノックする。

 しわがれ声の老人。痰の絡んだような特徴的な低い笑いを漏らし、自身の遍歴を語った――。

 いや、この際、『あの声』とかいう指示代名詞や、単なる名詞の一種に過ぎない『老人』だとか、他人行儀の言い方はよそう。

 彼の正体の目星は、とっくに付いている。

 直接、出会ったことはない。

 それでも、知っている。いろいろな人物の意識や記憶を経由して。神話の巨人を思わせる圧倒的なまでのその存在感を。歌舞伎などにおける黒衣(くろご)のように、決して物語の表舞台には立たず、裏手で書き割りを作り、配置し、大掛かりな舞台装置それ自体を生み出すような、あの男の存在を。

 嫌と言うほど、頭に刻み込まれている。

 認識力研究所所長、拝戸幸伸の実父であり、浅間有一を革命と狂気の道に引きずり込んだ張本人であり、今なお絶大な影響力をもって多くの人間を操り、支配する、不動の動者。言ってしまえば、すべての元凶たる黒幕(フィクサー)

 人呼んで――『化け物』。


()()()()……)


 表向きは、理論物理学や素粒子物理学を専門とした、著名な学者先生。

 裏の顔は、既存の政治体制を転覆させようと若者たちを率い、学生運動を指揮し、市民革命を蜂起(ほうき)した、悪名高き扇動者(アジテーター)

 かつて、立場の異なるヒトとヒト同士の心を繋ぎ、世界の理解不可能性を超克しようと試みた、悲しき化け物。

 もっとも、その集大成と言える革命は社会の壁に阻まれ、失敗し、今では現役を退いて隠居生活を送っているとのことだが。

 恐ろしい化け物は、自分の同類である化け物を生み出そうと画策している。並列世界生成原理などという荒唐無稽の実験は、その悪魔的な頭脳が結実した果ての落とし子と言えた。忌み子、と言い換えてもいい。

 やつは、人殺しだ。No.1とNo.2を、自身の理論の証明するためだけの踏み台として無下に扱い、挙句、二人を死なせた。

 それに、No.1は、道元さんは、拝戸久三の友人だった……。

(道元、さん……)

 ぼくはその名前に懐かしいものを感じる。

 胸が、痛い。

 ズキズキと患部が膿むような鈍い痛みは、きっと、肉体的な損傷によるものじゃない。

 そう思った。

 No.3がおかしくなってしまったのも、元はと言えば拝戸久三と幸伸が、No.1とNo.2の二人を危険な人体実験の果てに死なせてしまったからだ。

 そして、ぼく……No.4とNo.5もまた、何らかの実験をその身に受けて、今に至る。

 ぼくの身体に、何が起こっているのか? 『幽体離脱』で他人の意識に『憑依』し、その人の記憶を追体験できるのは、一体、なぜか?

 他人の意識と記憶、果ては、世界全体を俯瞰する『神の視点』も、やつらの実験によるものなのか?

(いずれにせよ、このまま、指をくわえて待つわけにはいかない)

 これ以上、やつらの思い通りにさせては、いけない。

 たとえ、やつらがぼくの命を脅かし、絶望と恐怖の淵に追い込もうとも、ぼくから思考を奪い去ることはできない。この意識を消し去ることはできない。

 なぜなら、目の前に迫った死を恐れずに、こうして過酷な現実と向き合っている限りにおいて、ぼくは確かに存在するのだから――。

 ぼくは、いみじくも拝戸久三が語ったことを思い出さずにいられない。

 ヒトは、自らを押し潰そうとする『死』を直視し、この威力に耐えきった場合のみ、『死』という否定的なものを否定する『生』に転化され、自身と、そして、世界そのものを形作ろうとする『精神』に、やがて、変貌を遂げるという。

 逆に、死から自分を遠ざけ、安穏と生きようとするヒトには、生の本質である躍動性と屈伸性が失われ、そのまま、蟻地獄に囚われた哀れな虫けらのように、ずぶずぶと、自身を包含する環境のさなかに飲み込まれていく。

 生は、それが死にかけることによって、初めて、生と認識される……。

 そして、このぼくも、また。

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