第百十二話 人形
七月二十七日の日記
ごめんなさい。
わたしは、決して許されないことをしてしまいました。
いくら謝っても、つぐなえるものではありません。わたしが犯した罪は、永遠に消えることはないのです。それはわかっています。
それでも、どうか、謝らせてください。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
あの時、わたしが、身勝手なことを、言い出しさえしなければ。【――】くんの脱出計画に、反対さえしなければ。
そうすれば、【――】ちゃんと、【――】さんは。
死なずに、済んだのかもしれないのですから。
「きみは取り返しのつかないことをしてしまった」
たくさんの本に囲まれた医務室で、わたしたちのような被験者を管理する、軍人みたいな顔つきの浅間先生に言われ、すごい、ショックを受けました。
話は、今朝まで遡ります。
朝食のあと、いきなり部屋に上がり込んできた白衣の大人たちに腕を掴まれ、そのまま注射をされて気を失ったわたしは、適合実験(手術室のような場所で目が覚めた時、職員の人がそう言っているのを聞きました)というものを受けさせられました。変な味のする薬品を飲まされたり、血を抜き取られたり、ヘルメットのような形をした器具を頭につけさせられたりしました。そのあいだ、ずっと、恐怖で体が震えていたのを、よく覚えています。
それから、背の高い男の人に「安静にしていろ」と言われ、しばらく、硬い、寝台のようなものの上で横になっていました。体は石のように重たくて、まったく動かせませんでした。
どれだけの時間がすぎたのでしょうか。
気がつくと、白衣姿の男の人が、寝ているわたしのすぐ横に立ち、ジッとこちらを見下ろしていました。
仮面を被っているみたいに無表情のその人は、恐怖にすくんで身動きの取れないわたしの腕を掴み、むりやり半身を起こさせると、寝台から引きずり出すようにして床の上まで引っ張り、そのまま、力ずくで廊下に連れ出しました。
男の人に乱暴されるのが怖かったわたしは、一切、抵抗できませんでした。
いいえ、本当のことを言うと、抵抗できなかったのではなくて、抵抗しなかった、のです。
そもそも、このわたしに、彼らが行おうとしていることをジャマする権利があるでしょうか? その資格があるのでしょうか?
わたしが弱虫だったせいで、【――】さんと【――】ちゃんは、死んでしまったのかもしれないのです。
あの時、【――】くんの言う通りに、ここから逃げ出そうと行動に移していれば、こんなことにはなりませんでした。
でも、
わたしは、
このまま、
何もせず、
ここに、
残ることを、
選んで、
しまいました。
つまり、
それは、
わたしが、
研究所の、
人たちに、
何をされても、
いいと、
認めたのも、
同然なのです。
それなのに、
わたしが、
わたしだけが、
こうして、
生き抜こうと、
することに、
どんな、
意味が、
ある、
でしょう?
わたしが、
死なずに、
生きること、
それは、
【――さん】と、
【――ちゃん】に、
対する、
裏切り、
では、
ない、
でしょうか?
そのことを指摘するかのように、ぐいぐいと、引きずられるような形で医務室に連れてこられたわたしは、この日記を通してすべての事情を知る浅間先生に、さきほどの言葉を言われたのです。
「きみは取り返しのつかないことをしてしまった」、と。
自然と、涙があふれていました。
「きみは人殺しだ」
イスに座ってわんわんと泣きじゃくるわたしの耳元に、そっと顔を近付けた浅間先生がささやきました。
『人殺し』
本当に、その通りだと思います。返す言葉もありません。
「きみのせいで、No.1とNo.2は死んだんだ」
わたしの、せい。
改めて言われると、気が遠くなるような感じがしました。
事実は、事実だからこそ、深く、わたしを追い詰めます。
ひっく、ひっくと、赤ちゃんみたいにしゃくりあげるわたしに向けて、浅間先生は小さくため息をつきます。
「せっかく訪れた最大のチャンスをふいにしたんだ。彼の、No.4の意見に反発などせず、黙って従ってさえいれば、今ごろきみたちは研究所の外……、もとの生活に戻れたのかもしれないのだからね」
ずきりと、胸が痛みます。針のような鋭さを持った浅間先生の声が、ぐさりとわたしの心を突き刺します。
「辛いかい?」
うん、と頷きます。
「そうだね、辛いだろうね」
うんうんと、頷き返します。
「実験中に死んだNo.1とNo.2は、きみの苦しみの比ではなかっただろうけどね」
そう言われ、わたしは大きく身震いしました。心臓がドクンと跳ね、全身の血の気が引くのがわかりました。
「きみは、卑怯な子供だ」
耳元の優しい声が、わたしの胸を大きくえぐります。
「そうやって泣いていれば、すべてが許されると思っている。本当に愚かだ」
浅間先生はわたしから顔を離すと、そのナイフのように尖った目を向け、小さく笑います。
「子供のくせに大人に逆らおうとするから、こうして痛い目にあう、涙を流す羽目になる」
叱るような言葉とは裏腹の笑顔が、たまらなく恐ろしかったです。
「だから、死んだんだ」
静かな浅間先生の声が、二重に聞こえます。
「逃げるなら、逃げる。戦うなら、戦う。どっちつかずの中途半端な行動が、一番、悪い」
すごく、耳鳴りがします。この日記をつけている今も、頭が痛いです。手がぶるぶると震えて、上手にペンを握れません。
それでも、わたしは、日記をつけることをやめるわけにはいきません。こうして日記をつけることが、わたしたち被験者に義務付けられているからです。
この義務を放棄したらどうなるのか、考えたくもありません。
そして、そんなわたしの弱虫な心を、浅間先生は見抜いていたのでしょう。目をこすり、えんえんと涙ぐむわたしに向かって、こんなことを言いました。
「自らが傷付くことに恐怖し、生きるという行為に及び腰で、挙句、本来負うべき責任を放棄して恥ずべき『事なかれ主義』になびいた、その、きみの主体性のなさが、お友達を殺した。違うかな?」
ニコニコと笑う浅間先生に言われたこの言葉を、わたしは、一字一句、鮮明に覚えています。忘れられるはずがありません。
今すぐにでも忘れたいのに、今もまだ、頭の中でひびき渡ります。
「だから、きみは、責任を負う必要がある。『選ぶ』ということの重要性を、知る必要がある。『誰かが何とかしてくれるだろう』とか、『多分、きっと、どうにかなる』などとという、バカげた希望的観測にまみれた受動的姿勢では事態がまったく好転しないのだと、学ぶ必要がある」
涙が止まらず、おえつするわたしに、浅間先生は突き放すようにして言いました。
「それができないなら、今までと同じく、永遠に、無力な人形のままでいるといい」
ゾッとするような、冷たい声でした。
「そう、人形だ」
もう一度、浅間先生は言いました。
この時、首筋に氷を当てられたような寒気が走ったのを覚えています。
「No.3、きみは人形だ。自分の頭で物事を図ることができず、他人の言いなりなることでしか動けない、哀れな人形なのだ」
眉がつり上がり、目つきがキツネのように細くなります。大人が子供を叱る時のような、厳しく、険しい顔でした。
「意志なき人形であるきみは、適合実験の結果が示したように、主人の道具となることでしか、社会の発展に寄与できないだろうな」
責めるような言葉と違って、口元が楽しそうにつり上がっているのが、わたしの中で印象に残っています。
そのあとも、いろいろと浅間先生に言われた気がしますが、あまりよく覚えていません。
ただ、「おまえは人形だ」という言葉が、ぐるぐると、頭のまわりを回ってました。
頭が、割れるように痛かったのを記憶しています。
痛みのあまり、どういう経緯で浅間先生の話が終わり、どのようにして自分の部屋に戻ったのか、そんなことさえもわかりませんでした。
七月二十八日の日記
夜の日課、日記の記帳。
わたしは、今、とても不思議な気持ちで、この日記を書いています。
今までのイヤな苦しみが、ウソみたいに消えてなくなっているからです。
わたしがこの研究所に来る前に見た、夏の澄み渡った青空のように穏やかな気持ちで、わたしは、自分の記憶を辿り、順を追って、今日、起こった出来事を書きつけようと思っています。
昨日の夜は、ほとんど、眠れませんでした。
昨晩から、ずっと、頭が痛かった覚えがあります。
もちろん、今はそんなことはありません。黒いもやもやが晴れたように、頭の中はすっきりしています。
それまでは、【――】さんと、【――】ちゃんのことが、ずっと、頭から離れなかったような気がします。浅間先生に言われたことも、確か、朝までは強く耳に残っていました。
今は、全然、気にしていません。
そういえば、食事も、全然、ノドを通りませんでした。水と一緒に、むりやり飲み込んだ気がします。
朝食のあと、また、浅間先生に呼び出されました。
昨日と同じように、白衣を着た男の人たちに連れられて、また、あの狭い医務室の中に入ったわたしは、丸いイスの上でぶるぶると震えていました。今、思い返すと、随分とこっけいな格好です。
「人殺し」
わたしに向けてにっこりとした笑顔を浮かべる浅間先生が、そう言ったような気がしました。
もちろん、これはわたしの気のせいで、本当は「こんにちは」と口を開いただけでした。
バカでマヌケだったわたしはそうとは知らず、勝手にショックを受け、気づけば、ぼろぼろと涙を流していました。
「辛いかい?」
涙でにじむ視界に浅間先生の笑顔がグッと近付き、わたしの肩がびくんと跳ねます。
昨日とまったく同じ問いに、わたしは「はい」と頷こうとしましたが、体がまったく動きません。
「きみの大切な友達の命を奪ったのは、どこの誰だ?」
浅間先生の鋭く細められた目が、そう言っているような気がしました。
わたしの目から、ぼろぼろと涙があふれました。
「ごめんなさい」
自然と、口が動いていました。
「そうだね、辛いだろうね」
石像みたいに固まるわたしを見て、浅間先生は、また、昨日と同じ言葉をつぶやきます。
「大事なお友達を二人も殺しておきながら一丁前に苦しむなんて、いい身分だね」
はっきりと耳に聞こえたそれが幻聴なのか、今のわたしには判断が付きません。
浅間先生の大きな手が、ゆっくりと伸ばされました。
怖くなったわたしは、キュッと、思いきり目をつむります。
冷たいなにかが、突然、わたしの頬に触れました。
「やはり、人形か」
いつくしむような声と、頬に触れる冷たい感触に、おそるおそる、目を開けます。
視界いっぱいに映るのは、涙でかすむ浅間先生の優しい笑顔。
ごわごわとした触感の指がわたしの頬を撫で、そっと、涙を拭います。
髪をすくような指の動きがとても優しくて、とても恐ろしかったことを記憶しています。
涙が、止まりませんでした。
「きみは、人殺しだ」
恐ろしいヘビのような目つきをした浅間先生が、笑顔で言います。
「No.1とNo.2の死は、臆病なきみの優柔不断さが招いた結果だ」
トゲのある言葉が、ちくちくと、わたしを責めます。
「だからこそ、こうして生き残ったきみが、死んでしまったお友達の分まで、その痛みや苦しみを背負わなければいけないよ。永久に消えない罪と共に、ね」
頬を包む冷たい手に、少し、力が入ったような気がしました。
「それとも、きみは、恐怖も何も感じない『お人形さん』の方が好みかな?」
頬を撫でられ、少しだけ緊張がとけたわたしは、ふるふると、首を左右に振りました。
浅間先生は笑顔を崩さずに、「そうか」とつぶやきました。
「やっぱり、きみは卑怯な子供だ」
うんうんと、頷きます。
「人殺しのうえに、とんでもないウソつきときた」
口元の笑みを深め、ジッと、涙でぐしゃぐしゃになったわたしの顔を覗き込みます。
「本当は、他人の、大人の言いなりがいいんだろう? 私の目はごまかせないよ」
ぶるぶると、今度は強く首を振ります。
浅間先生の手が頬を離れ、がしっと、わたしの肩を掴みました。
「きみは、今、こう思っている。『こんな苦しみからは一刻も早く逃げ出したい。できるなら、嫌なことからはずっと目を逸らしていたい』、と」
え、と驚いたわたしは、思わず顔を上げました。浅間先生は、相変わらず笑顔のままです。
「つくづく無責任な子供だね、きみは」
呆れたようにため息をついて、言いました。
確かに、そうかもしれません。浅間先生が言うなら、きっと、わたしはそうなんでしょう。
できることなら、わたしは、苦しみたくありません。悲しみたくありません。
そうです。
その通りです。
間違いありません。
どうして、わたしが、こんな目にあわないといけないのでしょうか。こんなに苦しまないといけないのでしょうか。
そして、こんなことを考えていたわたしは、浅間先生の言うように、やっぱり、卑怯なのでしょう。
「きみが感じる自責の念は、自由な思考をむしばみ、その行動を過去に限定させる後悔と反省とは似ても似つかぬ、紛い物のまやかしだ。それは、自らの罪を罰しているという思い込みから来る自己満足以外の何物でもなく、自分をいたわり、なぐさめ、落ち込んだ気分を良くするだけの効能しかもたらさない、現実逃避の一種に過ぎない」
わたしの考えを見通したように、浅間先生は言いました。
「要するに、きみは、自分が可愛いんだ」
ドキリとしました。
だって、本当に、その通りだからです。浅間先生の言うことに、間違いはありません。
わたしは、わたしが、一番、大事です。
他の人のことなんて、本当は、どうでもいいんです。
わたしは、わたしが生きてさえいれば、それでいいんです。何事もなく過ごせるのなら、それで、充分なんです。命の危険をおかしてまで生きようだなんて、ただの一度も思ったことはありません。
だから、わたしは、【――】くんの考えに、脱走計画に、反対したんです。
傷つくのが、怖いから。
痛い思いを、したくないから。
「きみという卑劣な人間は、自分の身が大事で、大事で、仕方がない。できることなら、このまま一歩も動かずに、平穏無事に過ごしていたい。何も傷つかず、悲しまず、ただ、時の過ぎゆくままに」
はい、そうです。
「なら、やはりきみは、『人形』だ」
肩を掴む手に、力が入ります。指が食い込むくらいです。
痛みで、どうにかなってしまいそうでした。
「人形なら、もう、何も考えることはない」
今にも骨が砕けてしまいそうな強い痛みから逃れたいわたしは、「はい」と大きく頷きます。
「人形なら、主人である私の言うことを聞きなさい」
がくがくと震えるわたしの体を、両手で思いきり押さえつけるように、浅間先生は、グッと、肩を掴む手に力を入れます。
「私の目を、よく見るんだ」
そう言われて、わたしは、浅間先生の目を真っ直ぐに見つめます。
わたしの苦手なヘビを思わせる目の鋭さに、頭がくらくらしました。
「人形であるきみが、主人の言うことを聞くと約束するなら、私も、きみや、残りのお友達にひどいことをしないと、約束しよう」
はい、と返事します。
「人形であるきみは、自分の意志で考え、行動することを放棄した、さながら奴隷のような存在だ」
はい、と返事します。
「主人の命令は絶対だ。そして、主人の操り人形であるきみは、主人に対して盲目的に従順で、その命令を機械のように忠実にこなす。主人と、主人の下す命令を、まず、疑おうともしない」
はい、と返事します。
「苦しみも、痛みも、悲しみも、怒りも、喜びでさえも、きみは、何も、感じなくなる」
はい、と返事します。
「なぜなら、きみは、人形だから」
そう言われ、一気に全身の力が抜けたような気がしました。
「きみは人形。操り人形。自分ひとりでは何もできない、哀れな傀儡」
わたしは、人形。
「さあ、復唱するんだ、『わたしは人形』、と」
わたしは、人形。
「私は人形」
わたしは、人形。
「私は人形」
わたしは、人形。
「もう、何も感じることはない。なぜなら、きみは、人形だから。中身のない、形だけの存在だから」
わたしは、人形。
そう、わたしは、人形です。
わたしが、人形だからでしょう。気づけば、あれほどわたしを苦しめた肩の痛みも、胸を引き裂くような悲しみも、すっかり消えてなくなっていました。
「よし、いい子だ」
浅間先生はわたしを褒めたのでしょうが、しかし、もう、何も感じません。
なぜなら、わたしは、人形だから。
「では、主人から人形に、命令を下す」
人形であるわたしに、浅間先生は言います。
人形であるわたしには、ある役割が与えられました。
わたしは、この日記を、まるで他人の考えを書きつけるようにして書いています。
面白いくらいに、気分がすっきりしていました。日記の最初に、昨日までの苦しみがウソみたいだと書きましたが、それは本当です。
何も考えなくていいのが、こんなにも楽だなんて。
嫌なことも、悲しいことも、考えさえしなければ、それは何もないのと同じ。
わたし自身も、そう。
わたしが、わたし自身のことを考えなければ、わたしは存在しないのです。
今のわたしは、わたしじゃない。
わたしの姿をした、ただの、人形。
人形であるわたしは、今までのわたしでは、ありません。
さようなら、【――】としての、わたし。
これからは、浅間先生の人形であるNo.3として生きていきます。
その方が、きっと、いいえ、絶対、楽な生き方だから。
わたしは、今、とても不思議な気持ちで、この日記を書いています。
これがずっと続くのであれば、これほど素晴らしいこともないでしょう。
とても、清々しい気分でした。
* * *
・一九八六年 七月二十九日 午後六時二十分 認識力研究所一階リビングスペース三号室
「そうよ、これで……よかったのよ」
つぶやいて、わたしは、No.3と呼ばれるこのわたしは、今まで手に取って眺めていた日記帳を、そっと、閉じた。
顔を上げれば、そこは、窓のない窮屈な室内の様相。わたしの意識とは無関係に、否応なく、目に入る。
「あなたは、わたしが守るから」
白に埋め尽くされた正方形の部屋で漏らしたそれは、一体、誰に向けられた言葉だろうか?
真相は、全てを俯瞰し、透徹する、“神”のみぞ知る――。