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第百十一話 遍歴――波動関数発生装置

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時四十九分 認識力研究所二階私設研究室


()()()()()()()()――」


 一切の身動きが取れない暗闇の中、しわがれ声が笑って言う。

 対象の情報を改変し、ヒトの相互理解を困難にさせる、『認識』という名の一種の壁に隔たれて孤立している、ヒトとヒト。

 他人の理解不可能性。

 此岸(しがん)と彼岸のような絶対性をもって対立している主観と客観をつなぎ、既存の世界を拡張させ、これを作り変えようとした男が起こした革命と、その失敗。

「“世界は存在するのではなく、世界として生起する”」

 笑いながら、声は続ける。

「自分の見ている世界とは別の世界を人為的に生じさせ、これをひとつに切り結ぶ、禁断の理論。素粒子における同一性の欠如と、ヘーゲル弁証法や実存主義哲学などが提唱するヒトの意識の二重性に着目し、『自分は他人になることが可能であり』、『自分が見ている世界とは並行して存在する世界を構築し、そこに移行できる』と結論付けた男は、勤めていた研究所で論文を書き上げ、その理論を実現させようと様々に策を講じ、ついには革命まで起こしたわけですが……、くっ、く」

 痰が絡んだような、例の、あの笑い。

「常識的なヒトの意志の力では、世界を変えることはおろか、それを正しく認識することさえできない。男は、革命の名を借りた暴力で他人を蹂躙し、無軌道な放逸に狂った人々の姿を目の当たりにして、ようやく確信しました。ただのヒトでは、自分の理想に適った働きをすることができず、むしろ、その理想自体に飲み込まれてしまうのだ、と」

 声は、笑っている。

「男は考えました。ヒトではない、化け物でしか、この世界を作り変えることはできない。獅子たる天才が烏合の衆たる凡愚(ぼんぐ)な民草を率い、正しい方向に導かなければならないように、一部の選ばれた存在でしか、頂点である世界の真理に到達することはできない。なら、どうすればいいのか?」

 くっ、くっく、と。

 不敵に、笑い続けている。

「答えは、すでに出ていました」

 笑いが、一層、強くなる。

「他人という存在が、男の掲げた理想を背負うことのできない単なる凡夫でしかなく、化け物である男のことを理解するのはおろか、その化け物にすら近付こうとしないのであれば――」

 そして、言った。

()()()()()()()()()()()()()()()()。く、くっく、く」

 ――ゾッとした。

 喉が枯れたような低い笑い声が、彼の言葉をひときわ不気味に演出する。

「男は決意しました。以前のように、あくまでも他人の自由意志に依存した、あくびが出るくらいに悠長で、温室のように生ぬるいやり方ではなく、もっと強硬な、ともすればヒトの死すらもいとわない、最も恐ろしい方法で他人を

を根底から作り変え、化け物にし、そのうえで、自らの理想を体現させようと。くっく、っく……」

 笑い声が、どんどん強くなる。

「ほどなく、絶好の機会が訪れました。男は、かつて自分が嫌悪していた権威者と手を結び、自らの計画を今度こそ達成させるべく、上辺だけの協力関係を築きます。男に残された時間は、残り僅か。もはや、手段を選り好みしている場合ではなかったのです」

 笑い声は、止まらない。

 闇を揺らす静かな忍び笑いは、次第に高らかな哄笑(こうしょう)となって辺り一帯に響き渡る。

「早速、男は、唯一の理解者()()()大学時代の友人に協力を仰ぎました。いえ、『協力』というよりは『利用』と言い換えた方がいいかもしれません。男はもとより、友人の同意があろうとなかろうと強引に自らの計画に引き入れようと考えていたからです。彼の身体が不自由で、車椅子がなければまともに生活できないのをいいことに、もし誘いを断れば、その自由を剥奪するべく脅迫してやろうと、卑劣にも一計を案じたわけです」

 車椅子の……?

 白紙みたいに真っ新だったぼくの頭に、とある人物の姿が思い浮かんだ。

 まさか……。

「男の思惑を知ってか知らずか、友人は、久方ぶりの再会に破顔し、しわだらけの頬を綻ばせると、二つ返事で男に手を貸しました。おそらく、男の企てた計画が、イマジナリウム原石という鉱石を脳内に埋め込む、彼の肉体と精神を侵食する危険な人体実験を前提としたものだとは、思いもよらなかったのでしょう。そういうお人好しなところが、昔から友人にはありました。男は、そこに付け込んでいたのです」

 そ、それは……。

「『()()()()()()、昔からお前は口先だけの理論家であり、実践なき思想家であり、この現実を見て見ぬふりする憎き偽善者のひとりだった』。山奥に作られた研究施設、そこに集められた数人の被験者を対象とした実験の後、意識を失い、後遺症によって視力をも失った友人に対し、男は口元を愉悦に歪めて言い放ちました」

 愕然とした。全身の血の気が引くように、意識がぐらりと大きく傾く。

 声の主は、あくまでも冷淡だった。それが、ぼくを恐怖の底に突き落とした。

 彼の言葉の節々に、怒りでも悲しみでも、とにかく、この惨たらしい話に即した何らかの感情が込められていたら、どれだけよかったことだろう。そうすれば、まだ、彼から人間味を感じることができた。心の機微を読み取ることができた。

 でも――。

 そんなことは、なかった。

「くっ」という、獣じみた笑い声が、ぼくから一切の希望を奪い去る。

 どうして……。

 どうして、そんな、残酷なことができるのだろう……?

 どうして、こんな……。

 こんなに、楽しそうに語るんだろう……?

 あんなに、ひどいことを……。

 どうして……。

 心が、急速に冷えていく。

「男の完璧な理論とは裏腹に、実験は、失敗しました」

 声は、それでも、ぼくに語りかける。

 きわめて執拗に、そして残酷に。

 ぼくの心を、邪悪な念で埋め尽くすようにして。

「もっとも、結果的に失敗したとはいえ、部分的な成功はありました。友人を始めとした被験者たちは、それこそ『化け物』と呼ぶに差し支えない特殊能力を、実験によって獲得することができたのです。視力を必要としない空間認知能力に、未来予知――。ヒトの持つ、虚数の因果律エネルギーを増幅させる効果があるとされるイマジナリウム鉱石を用いて得られたそれらの能力は、男の予想をも上回る、非常に素晴らしいものでした。少なくとも、能力の発現に限って言えば、満点をつけてもいい成果でしょう。くっく、く」

 どこか遠くに聞こえる、彼の言葉、笑い。

 嬉々として話しているように聞こえるのは、きっと、気のせいじゃない。

「ただし、強大な力には代償も伴います。男のかつての友人を筆頭とした被験者たちは、実験の負荷に耐えられず、脳に埋め込んだイマジナリウムに対する拒絶反応もあり、ひとり、またひとりと、次々に命を落としていったのです」

 嫌な感覚が、ぼくの内部を満たしていた。

 視覚を始め、五感のほとんどを失っているにもかかわらず、ムカデやクモといった節足動物が全身を這い回っているような、そんな気持ち悪さがあった。

「男は考えました。もう、失敗は許されない。しかし、実験は確実に行わなければならない。自分の打ち立てた理論を、ヒトの意識に干渉し、並列世界の生成と移行を可能にする波動関数発生装置(ジェネレーター)を完成、実用化させるためには、どうしても、ここで踏みとどまるわけにはいかない」

 寒気がする。

「男には、もはや、前進の道しか許されていませんでした。弓の弦を引きたわめるための準備期間は、とうに過ぎ去っています。事態を静観している暇はありません。間髪入れずに一の矢、二の矢を放ち、変化に乏しい現実世界に風穴を開けなければなりません。穿(うが)った的の表層がひび割れ、そこに生じた裂け目から、新しい現実が顔を覗かせるのです。たとえ、その先に待つのが破滅の深淵、自分を含めた全てを飲み込む虚無の大穴であっても、ここから後退するわけには、いきません。革命を鼻で笑った日和見主義者のように、定見を持たず、自ら率先して動きだそうとしない、ただ時間に流されるだけの卑劣な風見鶏になるわけには、いかないのです」

 外から流れ込む情報を遮断しようと耳を塞ぎたかったのに、身動きの取れないぼくは、それさえも叶わない。

「いずれにせよ、慎重かつ迅速な行動を余儀なくされた男は、まず、残った被験者全員に対し、波動関数発生装置(ジェネレーター)の制御装置にも使用されているイマジナリウムの特性に耐えうるかどうかの適合実験を実施し、拒絶反応が起きないかどうかを検査しました」

 ぼくが抵抗できないのをいいことに、しわがれ声は、一枚の紙をぐしゃぐしゃに丸めるみたいに、ぼくの気持ちを簡単に踏みにじる。

「結果は、すぐに出ました」

 憎い。

 何もできないぼく自身が、どうしようもなく憎い。

「男は、歓喜しました。ひとりの丙種合格を除けば、念願の甲種合格がふたりも現れたのですから。しかも、そのうちのひとりは、波動関数発生装置(ジェネレーター)の適合率が80%を超えているという、まさに逸材とも言うべき数値を示していた」

 もう、たくさんだった。

 やめて。

 やめてくれ。

「私が待ち望んだ波動関数発生装置(ジェネレーター)の適合者、それは……」

 懇願むなしく、声は残酷に告げる。

N()o().4()()()()()()()()()

 ぼくは今にも泣きたい気分だった。

 ここからすぐにでも逃げ出したい。

 でも、逃げられない。

 どうしようもなく無力な自分が、憎らしくてたまらない。


「憎みなさい」


 声が囁く。


「憎みなさい」


 闇に囚われたぼくを、さらなる闇の淵に誘い込むように。

 ぼくは、初めて、明確な殺意が芽生えていることに気付いた。それは別に、ぼくを絶望に追い込む声の主だけに向けられたものじゃない。


 殺したい。


 ぼくを追い詰める人間を。

 ぼく以外の人間を。

 ぼく自身さえも。

 全て。

()が、手術によって植え付けられた人格に食いつくされるか、あるいは、本当の自分自身を確立するのか、それは、あなたの因果律エネルギー……、すなわち、意志の強さにかかっています」

 声は、乾いた笑いと共にそう言った。

「心することです。()の意識が別の人格に飲み込まれたその時、是非とも、殺さなくてはならないのですから」


 殺す。


 ぼくが、殺す。


「そうです、殺すのです」

 深く、深く、心の奥底に刻み込むように。声は『殺せ』と執拗に語りかける。

 でも、()()

 当然の疑問に、声の主は、とても恐ろしいことを言ってのけた。

 ぼくが、殺すべき相手。

 それは……。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まるで、息でもするように。

「くっ」と、低く、笑いを漏らしながら。

 老人は、かつての男は、あの恐ろしい“化け物”は、静かにそう言った。

「全ては、私の計画通り……、くっ、くくく……」


 声が、どこか、遠くのものに感じられる。


 ――意識が、なんだか、朦朧としてきた。


 まるで、ぼくの中に潜んだ別の何かが、満を持して意識の水面下から顔を覗かせ、力任せに這い出ようとしているかのよう。

 胃液が逆流するのにも似た不快感。

「もしも、あなたが、あなただけの意識ではなかったら、私の言っていることの意味がわかるはずです」

 わからなかった。

 わかるはずがない。

 何も、何も、わからない。

 男がどうしてこんな話をぼくにするのか、ぼくがどうしてヒトを殺さないといけないのか。

 わからない。

 わかりたくなんて、なかった。

()の部屋に、あるものを置いておきました」

 今すぐこの場で泣き叫びたくなるぼくのことなどお構いなしに、声の主は意味不明なことを次々と並び立てる。

「それを使って目的を達成させるのも、いいでしょう」

 目的?

 ぼくに、殺せというのか?

 ヒトを?


「殺しなさい」


 殺す?


「殺しなさい」


 殺す。


「殺しなさい」


 コロス。


「殺しなさい」


 声が、エコーでも掛かっているかのように幾重にも響きわたる。

 まるで、逃げ場を失くすように。

 闇を包囲する声はぼくに覆いかぶさり、思考に蓋をし、そして、溶け出す。

 ずぶずぶと。

 内部に、侵食していく……。


「あなたが無事に幸伸を殺した暁には……」


 声の主は、ノイズ混じりの歪んだ声で、こう言った。


()()()()()()()


 くぐもって聞こえづらい声は、しかし、確かにそう言った。


「最初に、幸伸を、そして――いつの日か、この、私を」


 殺す。


 殺す、殺す。


「殺しなさい。我が最愛の孫娘、美羽のために。私の理想を実現させるために、私と、幸伸を、どうか殺してほしいのです。く、くっく……」

 不気味に、笑う。

「果たして、ヒトの中にある意志の力は、環境という名の因果律を覆すだけのエネルギーが備わっているのか、それが、これから明らかになるのです……」

 笑い、続ける。

 痰が絡んだような笑い声が、闇の中に反響する。

 湿り気のある雨粒のようにひたひたと押し寄せ、まとわりついて離れない。

 全身に絡み付く、粘着質なおぞましい悪意……。


“暴力なくして理想の実現はありえない”


 ぐずぐずに溶け出した意識の表層に昇るのは、化け物である男が自らの後継者と目した若者の掲げたイデオロギー。

 奴隷は主人に打ち勝つため、ついには革命を志す。

 自らの死を恐れず、それを直視し、立ち向かう……。


『――()()()()()? ()()


 ……え?

 男の歪んだ笑い声に混じって届く、誰かの声。闇を震わせ、意識を揺らし、ぼくの中で静かにこだまする。

 こいつは、誰だ?

 わからない。

 やっぱり、なにも、わからない。


『死は、人生を、運命に変える』


 曖昧な「ぼく」という存在を揺るがす謎の声は、一段と大きくなり――。

 意識は、また、闇の中。

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