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第百九話 遍歴――曙光、そして、斜陽

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時三十八分 認識力研究所二階私設研究室


 室内を墨汁で一杯に満たしたような濃密な暗闇は、「ぼく」という存在を希薄にする。

 ぼくが本当にそこに存在するのかもあやふやな闇の中。誰とも知らないしわがれた老人の声が、どこにいるのかも定かでないぼくに向けて、ある男の昔話を語り続ける。

 ヒトとヒト、世界と世界、それぞれを繋ごうとする、量子力学を志した男が辿る壮大な人生の遍歴。

 世界は、そこにあるのではなく、世界として生まれる、超多時間理論。

 ――『並行世界』の発見。

 どのようにして世界の中にまた別の世界が誕生し、そして、どうしたらその世界を変えることができるのか、その模索。

 声の主は言う。

「さて、自己と他者、主観と客観という、それぞれ同一の時間軸に属しながら、入れ子構造のように多層的な別々の時空間を内包し、互いに固有の時間軸を備えて連なるこの世界を、一種の“並行世界”と位置付けた男は、それを接触不可能で解体できない絶対的なものと捉えるのではなく、むしろ相互に影響を及ぼし合う相対的なものだとする、独自の理論を構築しました」

 例の、虚数の値を持つという因果律エネルギー。

「そして、その内容を数十年の月日をかけてひとつの論文にまとめあげると、苦心惨憺(くしんさんたん)して完成させたそれを自らの人生の総決算、集大成として上梓(じょうし)し、満を持して、勤め先の素粒子物理学研究所を退職します」

 それが、男の最大の転機となった。

「かつては他人を理解しようだなどと思いもよらなかった男ですが、この時は、もう、違いました。自らの殻に閉じこもる化け物じみた男の姿は、すでにどこにもありませんでした。代わりに現れたのは、ヒトに宿る可能性を信じて行動する、真っ直ぐな熱い思いを持った、ひとりの、人間でした」

 化け物ではない、ただの人間。

 あるいは、化け物と人間の要素を兼ね備えた新人類。

 男を規定する他人の視線と、男自身が自らを捉える視線の不一致は、重ね合わせという、どっちつかずな宙づり状態を形成する。

 同一性の欠如。

 それは矛盾した状態だ。

 そこにありながら、同時に、そこにない。

 どちらも正しく、どちらも間違い。

 異なる存在同士が互いにもつれあい、絡み合っている。

 けれども、それはまったく『異常』じゃない。

 現実というのは、ある種の硬質な工芸品のように、すでに完成された、動きのない、静止したものじゃなくて、陶芸家がろくろを回し続けている、あの生き生きとした滑らかな連続性を湛えて、絶えず流動している。

 同一性は喪失しているからこそ、可能性となって現れる。

 そして、その可能性を具現化させるのは、他でもない、ヒトの意識。別の誰かによって規定された既存の事実を否定し、これを反転させようとする、自らの『死』をも覚悟した、強い心。

 矛盾という、自己を引き裂き、分裂させる、暴力的なまでに強烈な現象は、生成と運動という、柔軟性に富んだ原理的なエネルギーとなって自分自身を突き動かし、概念を現実に反転させうるほどの強い運動――回転力を生成する。

 回転が、凹凸(おうとつ)に乏しい平面的な物体を立体化させるように、ヒトの意識もまた、周囲を巻き込み動かす中心力となって現実世界を先鋭化させ、その構造を本質的な要素の部分にまで鋭くさせる。

 舟艇に取り付けられたスクリュープロペラの回転が水を蹴り、後方に螺旋状の水流を発生させる時の反作用によって船全体を動かすように。

 自転する意識は、自身の持つ推力によって自分の殻を破り、トビウオのように水面を打ってそこから抜け出し、自分と、そして、世界を、上空から見つめる。

 その時、初めて、意識は知ることになる。自分が本当は何者で、普段、自分が見ている世界というのは、他の観点から見れば、どのように映っているのかを。

 空間的なねじれを生み出す意識のとんぼ返り。

 巡りめぐって自分の中に戻った自己意識は、自分と世界という、互いに分かれた主観と客観を統一し、本当の主体を獲得するのだ。

 ふたつの異なる要素を混ぜ合わせた、真の実像。

 ――並行世界の統合。

 男は、ようやく、正確な自分自身を手に入れた。

 新たな門出。

「世界を、この現実を正しく理解するため、男は、独自の並行世界理論を書き記した論文片手に日本全国を巡り、人種、性別、年齢、それぞれの区別なく、様々な人々に視線を向け、直接に触れ合い、言葉を交わしていきます」

 この世界の中に隠された真理を発見し、それを取り出そうとする男の目的は、次なる実践の段階に移行した。自身の理論を証明する時が来たのだ。

「世界を理解するには、まず、日本を。そして、この国を本当の意味で理解するためには、内部からの観察とは他に、日本とは別の場所に立ち、そこから改めて日本という国を捉え直さないといけない。内と外、表と裏。背中合わせの両極を切り結ぶ、とんぼ返りのごとく力強い反転変換。そうすれば、自ずと、日本人が持つ国民性、その全容が見えてくる。そう考えた男は、日本全国を巡って、ほどなく、国内を飛び出し、世界各国へと足を運びます」

 世界を正確に把握し、その上で、世界の在り方を変えるという、自らの理想を実現するために。

 あるいは、自らの考えを理解できる人間を、その理想を体現できる人間を、探し求めるために。

 男は、各地を転々とする。

「こうして、東南アジアを始めとしたアジア諸国を放浪する男は、現地の人々に交わり、その土地ならではの暮らしや文化を体験する中で、現実社会のはらんだ矛盾点や問題点に、図らずとも直面します」

 それは――。


「例の、()()()()


 今までよりも一層低い声で、彼は言う。

「男が世界を放浪して間もなく、恐るべき破壊と殺戮が、各地でもたらされました。男が訪れた北ベトナムの地も、例外ではありません。元々、資本主義と社会主義という、両陣営の掲げる政策の明確な違いから南北に分裂し、散発的な小競り合いを続けていた当時のベトナムでしたが、アメリカやソ連といった大国が次々と軍事介入していった結果、全面的な戦争が勃発し、史上最も激しい戦火に晒されることになります。降り注ぐ銃弾の雨に、容赦なく落とされる爆弾。人々は死の恐怖に怯え、飢えに苦しみ、貧困にあえぎました。世界が、地球全体が傷付き、悲痛な悲鳴をあげていました」

 このままでは、いけない。

「もはや人々の心は互いに背き、離れ、分裂していました。一部の権力者は弱者の命を消耗品か何かのように扱い、消費し、使い捨てる。他方で、搾取される側の被支配者層に位置する弱者は、どうにかして現状を打破しようと反旗を翻し、悲愴な覚悟を持って支配者に立ち向かいます」

 主人と奴隷の対立構造。

 戦場に入り混じる敵意と殺意。

 頻発するクーデーターと、樹立する独裁政権。

「そこに、男の望んだ相互理解などという理想論が入り込む余地は、ありません。人々は互いに憎み合い、殺し合い、そして、死んでいく。厳冬(げんとう)の荒野のように寒々しい光景が、辺りに広がるばかりです」

 変えないと、いけない。

「だからこそ、というべきでしょうか。人々は、世界は、まさに変化を求めていました。国家規模の暴力による応酬では、焼き焦げた瓦礫(がれき)と死体の山を築き上げる以外の何も、もたらさない。戦争を自身の地位の樹立と確立、果ては金儲けの手段とする一部の支配者層以外に、誰も、喜ぶ者はいない。そう、気付き始めたのです」

 変えるべき時が、来た。

「弱者をいたずらに傷付け、罪のない人民を不幸にするばかりの不毛な争いを、一刻も早く終わらせたい。そのために、我々は、何をなすべきか? ――人々は、考えました。来る日も来る日も、考え抜きました。そして、最終的に、ある結論を導き出します」

 恐ろしい『死』があちこちに蔓延する、荒廃した現実。自分の存在を容易に引き裂く残酷な否定性から目を背けず、真っ直ぐにそれを直視した時、世界の深層に埋もれた真理に触れることになる。

「人々が導き出した答え。それは、国が主体となって戦うことを是とするのではなく、自らが主体となって戦うことでした」

 国家ではなく、個人として。

 奴隷ではなく、主人として。

 ヒトは、それぞれ、戦うことを決めた。

「――革命の狼煙(のろし)が、各地で(くゆ)っている。あとほんの少しだけ刺激を与えれば、それは爆竹のように大きく弾け飛ぶ、そんな緊張状態が続いていました」

 炸裂は、近い。

「火種が、必要でした。今はまだ分散している人々の行動と、その横溢(おういつ)する思いをひとつに束ね、正しい方向にエネルギーを発散させる、さながら熟練の技術者のような人材が、求められていました。なぜなら、革命とは、自然発生的に起きるものではなく、卓越した技能を持った革命家が組織する人間たちが引き起こす反コスモス的なものであり、既存の秩序を根底から食い破ろうとする、恐るべき混沌の発露に他ならないからです」

 革命。

 現行社会を転覆させ、新たな世界を作り出そうとする、破壊と創造の具体的行為。

「奇しくも、マルクス・レーニン流の革命理論を心得ていた男は、祖国である日本に帰国後、万感の思いを胸に、安保闘争(あんぽとうそう)を機に激しさを増す学生運動、その最前線に立つ勇敢な若者たちと共に社会変革を志し、やがて、これを指揮する指導者となる……」

 声は、無感情に続ける。

「日本のとある地方都市に本拠地を置いた男は、社会を変革するために命を賭して戦う若者たちの中でも、特に才気と勇気に溢れた選りすぐりの精鋭を集め、秘密結社を発足し、彼らを裏から支援することに決めます。この時の男はすでに老齢で、体力的にも限界が近く、もはや、若者たちと一緒に前線へと向かうのは不可能でしたが、それでも、全国各地の公民館や大学などで講演会を開き、多くの人々に権力と戦うことの重要性と理解を求める演説を行うなどして精力的に活動しました。経済の基盤でありながらその存在を軽視され、ともすれば消費されるだけの労働者や、金銭的に困窮する苦学生を援助し、寄り添い、鼓舞する男のことを、若者たちは親しみと尊敬を込めて『教授(せんせい)』と呼び、男もまた、彼らに対する協力を惜しみませんでした」

 今まで、ずっと、他人から煙たがられ、その存在を否定され続けていた男に、ようやく、仲間ができた。意図を同じとする人々が、現れたのである。

「中央集権的な巨大資本が世の中を牛耳り、民主主義とは相反する絶対的な経済格差を生み出す現行社会。資本家が労働者を消費するだけの過酷な現実に立ち向かい、革命を成し遂げんと志を同じくした若者たちの熱気と勢いはすさまじく、普段は冷淡な男を唸らせるほどでした。それが証拠に、生まれも育ちも違う、異なる人間同士が、男が用意した路地裏の手狭なアジトに集い、燻るタバコのニオイが充満する薄暗い室内にて、世界変革の共通目的を目指して、日々、議論を交わし、研究を重ね、切磋琢磨する。死さえいとわない、ある種の共犯関係とも言える運命共同体が、男を中心として構築されました。互いが互いに尊重し合い、その存在を認め合う、男の思い描いた世界が、そこにあったのです」

 男の理想が、ひとつ、実現した。概念が現実化したのだ。

「特に、あるひとりの若者は、男の革命理論をすぐさま理解できる優れた頭脳を持ち、また、その理論を即座に実行に移すような、驚くべき行動力を備えており、瞬く間に組織の中心人物となりました」

 機械じみた冷たい語り口から一転、どこか、昔を懐かしむような口調に変わる。

容姿端麗(ようしたんれい)長身痩躯(ちょうしんそうく)、そして何より、血も涙もない冷酷非道を地で行く彼は、『暴力なくして理想の実現はありえない』というリベラルな思想を標榜し、組織内でも少なからぬ影響を与えるほどの脅威的なカリスマ性を持つ一方で、男の思想に共鳴し、これに従う、男の忠実な右腕として機能しました。彼に課せられた任務は破壊工作で、組織に敵対する、もしくは組織の人間にとって不都合な存在を排除する、特殊工作員の役割をまっとうするのです」

 ……。

「男は、ほとんど感情を表に出さない、常に仮面で素顔を隠したような冷たい表情を浮かべる若者に対して、ある奇妙な感情を抱きました。それは、おそらく、プロイセンの首都ベルリンに向けてイェーナ市街を闊歩(かっぽ)する馬上のナポレオンを目の当たりにしたヘーゲルと、同じだったことでしょう」

 突然、そんなことを言い出した。単調だった語勢に感情が宿り、声が弾む。

「一七八九年のフランス革命後に勃発した、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争。荒廃したフランス国内の統治を目指した革命から発展した運動は、フランス領の拡大及び近代的な市民社会の樹立を目的とする統一戦争にまで規模を拡大し、ヨーロッパ全土を巻き込む形で肥大化していきます」

 興奮したように息巻く。

「歴史の重要な転換点と言えるナポレオン戦争、その主要な戦闘のひとつ、イェーナ・アウエルシュタットの戦いにて、敵対するプロイセン軍を破ったフランス軍は、敵国にとって最後の砦とも言える、首都ベルリンにまで兵を進めていました。自由・平等・友愛の名のもとに、変革の覇気に溢れた勇ましい進軍を続けていたのです」

 文字通り、自由を掲げて戦っていたフランス側に感情移入しているのか、意気揚々と捲し立てる。

「当時、イェーナで哲学の教授をしていたヘーゲルは、まだ完成したばかりの『精神現象学』の原稿を小脇に抱え、イェーナを占領するフランス軍から逃れようと市内を逃げ回っていました。すると、そこに、あのナポレオンが現れたのです。噂に聞いた常勝部隊を指揮する偉大な男が、それぞれ分断されていた世界同士を切り結び、これをひとつに統合するという、自らの理想、『世界精神』を体現する傑物(けつぶつ)が、今、まさに目の前に立っている! そして、男もまた、奇しくもヘーゲルと立場を同じにするように、『並列世界生成原理』という、自身がしたためた論文、その内容を実践する新進気鋭(しんしんきえい)の若者と、現に対峙しているのです! これに運命めいたものを覚えないというのが、無理な話でした」

 この時の男の感情を、どのように表現したらいいだろう。物語の登場人物の出現、概念から現実への反転……。

 端的に言えば、男の理想の現実化。

 彼は、珍しく感情を高ぶらせたようにして、生き生きと言葉を紡いでいく。

「男は、悟りました。彼が、この寡黙な若者こそが、世界を新たに作り出すほどの強い自己意識を持つ人間であり、自分の理論を受け継ぐ後継者に相応しい人間だ、と」

 それこそ、まさに、長年、男が追い求めていたもの。自分の思想を理解し、これを実践する、自らの生き写しとも言える存在が、ようやく、目の前に現れた。

 感無量だったに違いない。

 声は、静かな歓喜に震えていた。

「そして、ここからです。男が、若者に、これまでに築き上げた理論の全てを継承させようと、真剣に彼と向き合ったのは」

 老人と、青年。

 互いに対照的な人物の像をそれぞれの網膜に映し出しながらも、そのじつ、伸ばされた視線は、他でもない、自分自身を捉えていた。光線が鏡面に反射するように。大きく、とんぼ返りを打って、再び、ふたりのもとに戻ってくる。

 老人は青年でもあり、青年は老人でもある。

 ふたりは、共に、鏡合わせ。

「全身全霊を賭して、男は、若者を指導しました。彼の早熟な才能を磨き、鍛え上げ、自身の蓄えた膨大な知識に耐えうる器に仕立て上げようと、全精力を注ぎ込みました。若者は、そんな男の期待に応えるようにして、男の理論を、その考えを、柔軟に吸収していきます。そして、男もまた、若者の瑞々しい感性に触発されるように、自身が老齢であるがゆえにもはや静止していると思われた思想を徐々に軟化させ、ヒトの理解可能性に対する認識を改め、その構造を深化させると共に発展させていきました」

 互いに互いを見据え、そこに歩み寄ることによって成しうる相互理解。

 異なる存在同士という対立、その内部に生じた矛盾は、こうして乗り越えられる。

 ヒトは、他人は、孤立していない。

 自分という世界を通じて、繋がることができる。

 男は、ついに、それを証明した――。

「全ては、順調であるかのように見えました。少なくとも、男の目には、そう映っていました」

 ガラスみたいに透き通る静寂が、辺りに広がる闇を満たす。熱した鉱物が、熱力学的な法則によって徐々に冷めていくように。


「ですが――」


 ためらうような、一瞬の間。


()()()()()()()()()


 声の主は、こともなげにつぶやいた。

 無機質とすら言えるその言葉や口調からは、一切の感情も汲み取ることができない。

 闇は、ますます深まるばかりだった。

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