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第百八話 遍歴――概念の現実化

 ・一九八六年 七月二十九日 午後六時三十五分 認識力研究所二階私設研究室


「主体と客体という絶対的な壁を、いかにして乗り越えるのか? 男が大学時代に突き当たった最大の疑問は、しかし、ヘーゲル弁証法や実存主義哲学を援用することによって、ようやく氷解にまで至ります」

 あやふやな「ぼく」の存在をドロドロに溶かす、闇の空間。

 ひとり、老人は、とある男の辿った人生を語る。人々から天才と呼ばれ、その天才性ゆえに周囲から孤立し、孤独に生きることを余儀なくされた男の半生を。

 ひとり、男は、寡黙に学問の道を究めようとするも、その途上で、ある種の壁に行く手を阻まれる。明晰で知られる男の頭脳をもってしても理解不能な学問が、あったのだ。それが、量子力学だった。

 ひとり、自分だけの世界を生きていた男だったが、じつは、世界は、自分が見ているものだけじゃなく、無数に存在するという、素粒子における自己同一性の欠如から着想された時間発展論に衝撃を覚え、以後、量子力学の持つ魅力に憑りつかれたようにしてこれにのめり込み、その証明に心血を注ぐことになる。

「世界の中に生まれた、もうひとつの世界とも言うべきヒトの意識は、単なる主観に過ぎない自分自身を飛び越え、その自分に対して存在する『自己意識』を獲得し、やがて、世界全体を構成する『精神』に到達します。そして、『精神』は、主体的な実践を通じて新たな世界を作り出すのです。このようにして、主体は客体を構築するまでになり、客体はさらなる主体を生み出します。世界は、ひとつきりではないのです」

 それが、男の導き出した解答だった。

 世界は、自分と他人は、決して、情報の伝達が不可能な断崖絶壁を介して存在しているんじゃない。互いに孤立しているように見えるそれらは、接近し、融和し、理解し合うことができる。

「そして、男は、自身が打ち立てた仮説を実践に移す段階にまで、ようやく、こぎつけたのです」

 闇の中、しわがれ声が高らかに告げる。

「さて、紆余曲折(うよきょくせつ)、様々な回り道を経て、ひとつの真理に到達したと確信した男は、それこそ、人が変わったように、他者、そして、世界との接続を求めるようになりました。たとえ、自分のことは理解されなくてもいい。拒絶され、否定されたって構わない。もとより非難の目を向けられるのは覚悟の上。男のこれまでの排斥的(はいせきてき)な人生観を(かんが)みれば、他者に忌避(きひ)されるのも仕方ありません。これまでの自分は、あまりにも他人に冷たすぎました。そんな非情な人間が、いくら他人に歩み寄ったところで、すぐに心を開いてくれるわけがない。むしろ、何も裏がないと考えるほうが無理な話です」

 男の歩んだ道のりは、まったく平坦なものではなかった。今までぞんざいに扱っていた他人と関わることを選び取ってしまった以上、もはや足を踏み入れるのも困難な、いばらの道を進んでしまったと言える。

「それが証拠に、男は、ヒトから、避けられ続けました。ヒトから寄せられるのは、まるで恐ろしい『化け物』を見るような、怯えた視線。あるいは、見世物小屋に飼われた珍獣を見るような、悪意に満ちた好奇の視線。そのどれもが、男を彼らのもとから引き剥がす、遠心分離機のような力を持った脅威の『眼差し』として作用しました」

 視線が、ヒトを規定する。

 異なる可能性の重なり合った量子状態が観測によってどちらか一方に確定してしまうように、そのヒトの見る世界が、視線で固定されてしまうからだ。

 見る者と、見られる者。

 双方の存在は互いに等質的じゃなく、他方が他方に対して優位性を持っている。他人が、男を『化け物』とみなした時、男は『化け物』になるのだ。

 逆に、男が、自分のことを『化け物』じゃないと知っていても、それは他人の認識に何の影響も及ぼさない。

 かつての男が、他人を『書き割り』とみなし、もはや存在しないのも同然と扱っていたように。

 ヒトの認識が相対的である以上、そこに生じる落差は必然的と言うしかない。

 伝えることが、なにより、重要だった。

 見る者の意識が変われば、認識もまた、変容する。

 だから、男は、他人との接触を試みた。

 自分は、『化け物』なんかじゃない、他の人たちと同じ、人間なんだ、と、自ら、証明するために。

 けれど――。

「男を、自分たちと同列とみなそうと考える人間は、どこにもいませんでした」

 事実が示す非情さに反して、妙に淡々とした口調だった。

 どこか他人行儀の冷たさを感じさせる言葉遣いで、声は続ける。

「男と、それ以外の存在は、依然、対立していました。近づけば近づくほど、理解しようとすればするほど、ますますそれは遠ざかっていく。ヤマアラシのジレンマにも似た状況に、男は、途方にくれていました。悩み、苦しみ、傷つき、結局、ヒトとヒトはわかりあえないのかと、絶望さえしました」

 自分と他人とのあいだにぽっかりと開いた、断絶。

 もはや絶対的とも思えるこの落差を埋めることに、男は、生涯、苦心した。

「他者から『化け物』と畏怖される男と真剣に向き合おうとする者は、もはや、どこにも存在しませんでした。誰も、男と、男の理論を理解しようとしません。男に哲学を教えた唯一の友でさえ、自分と他人、世界と世界を繋ぎ合わせようとする男の考えに難色を示す有様でした。彼からすると、男の理論は、具体性を欠いた理想論に過ぎず、正確な現実を捉えそこなっている。ヒトの心というものは、個人がどうこうできるように単純なものではなく、もっと複雑に入り組んでいるのだと、他人の理解可能性を説こうとする男を否定します。それは違うと反論し、食い下がる男の目を冷静に見据え、友は言います。『あなたに、ひとつ、忠告をしておきます。ヒトが、世界を自由にできるなどと、ゆめゆめ、思わないことです。確かに、ヒトは、自分自身の世界を支配する神になることはできるでしょう。しかし、他人の神になることはできません。他人の認識を矯正し、その在り方を個人の一存で左右しようなど、思い上がりも甚だしい。ヒトは、所詮、ヒトでしかないのですよ。全知全能でも、不老不死でもない、ひとつの、か弱き存在なのです』。それだけを言い残し、以降、友は、男から距離を置きます」

 自分の理解者に一番近かった人間にも、遠ざけられる。

 男は、やはり、孤独だった。

「挙句の果てに、男は、その才能を疎んじた心ない人間たちから命まで脅かされるようになります。また、それと時期を同じくして、大学卒業後、研究職に就いた男の地位を横取りしようと、研究所の中でも特に保守的な人間たちが結託し、男を表舞台から追放しようと画策し始めます。常人では計り知れない、類まれな知能を持った男の存在は、他人にとって目障りでしかなかったのです」

 男の周囲には、敵しか存在しなかった。

「幸か不幸か、男の身に危機が差し迫っていることを事前に報告した同僚の人間がいたため、この件は大事には至らなかったのですが、しかし、もっと性質の悪いことに、男に組織の内情を密告した同僚も、結局は男を利用するために恩を売ったに過ぎず、それが証拠に、彼が属した研究チームの派閥抗争の駒に仕立て上げようと、男を執拗に自分の陣営に誘い、やがて、その願いが叶わないとなると、やはり、他の人間と同じように、男を目の上のコブとみなし、その存在を疎ましく思い始め、最終的に排除しようと目論むのでした」

 他人は、どこまでいっても他人だった。自分を正しく理解するどころか、道具か何かのように扱うだけ。当人たちにとって都合が良い場合はもろ手を挙げて歓迎するも、そうじゃないなら、明確な悪意をもって追い出そうとする。

 理解も何も、あったものじゃない。

「男が他人と積極的な関わりを持つようになってからというもの、以前のような安寧の日々が訪れることはありませんでした。男は、その明晰な頭脳を生かし、他人の考えを深く理解し、たとえそれが困難な場合でも、最低限の理解を示そうと様々な引出しを用意して対話と共鳴を試みているにもかかわらず、他人はその努力を最初から放棄し、自ら心を閉ざしているからです。『きみとぼくは他人同士だ。しかもきみは天才で、ぼくは凡人。要するにそれは水と油のような関係で、決して交わることがない。結局のところ、考え方の異なる人間同士がわかりあうことなど、できるはずがないのだよ』。男と同じ研究チームに所属していたある人物は、男の抱いた理想を聞いてすぐ、苦虫を嚙み潰したように表情を変え、やがて、吐き捨てるように言いました。もはや、取りつく島もありません。その人物は男に背を向け、足早に立ち去っていきます。まるで、男との理解を拒むように。異なる人間同士のあいだに生じた距離感を、実際に示すように。男のもとから、遠ざかっていきます」

 どうにかして他人を理解しようとする男の、涙ぐましい懸命な努力は、ともすれば、相手不在のむなしい独り相撲となって、空回りを余儀なくされる。男はともかく、他人が同じ土俵に立とうとしていないからだ。それは、男に、自分が見ている世界と、他人が属している世界の違いを、まざまざと見せつける結果となった。

 自分と他人は、やはり、分断している。互いが過ごしている階層が、その世界が、まるで異なっているのだ。

 だからこそ、男は、自分と他者を分離させるそのずれを、それを生み出す認識の誤差を改めようと、躍起になっている。

 孤独だから、他人を、他人との、繋がりを、求めた。

 求めたけど、届かなかった。

「さて、男に痛烈な現実を突きつけた同僚の、徐々に遠くなっていく後ろ姿を呆然と見据えていた、まさにその時、男は、はたと気付きました。『待てよ、これは、私が置かれた今の状況は、ひょっとすれば、以前とまったく同じなのではないか? 私は、他人を、それこそ自分のことのように理解できる、あるいは、極力、理解しようと努めているのに、当の他人は、私をちっとも理解しようとしない。なぜかと言うと、それは、彼らに私を理解するだけの知識がまるで足りていないからだ。つまるところ、私を取り巻く環境は、私が子供の頃と何ひとつ変わっていないのだ』、と」

 無情とも言える突然の自覚は、男が立っている地面の表層をひび割れさせるのに充分だった。

 男と、他人を分かつ、大地に走った稲妻形の亀裂。

 それは断絶。

 真っ二つに割れた地面の裂け目から顔を覗かせるのは、『理想』というフィルター越しに見えるきらびやかな世界じゃない、ただの、現実。底の知れない黒々とした深淵が、獲物を待ち構えるようにして大きな口を開けている。

 想起するのは、男が、周囲の大人たちから“天才”と評された幼少期。

 天才という、いかにも耳に心地よいその呼称は、しかし、内容的には、男を『化け物』と(さげす)んでいるのとさほど変わらない。天才も化け物も、『普通』とはかけ離れた存在のことを指しているからである。

 男に対して注がれた視線と、他人がくだすその評価。

 それは、男と、それ以外の人間たちとのあいだに生じた区別を明確にする、罪深いまでの威力を備えていた。

「『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』。訴えかけるような男の叫びは、しかし、人々の耳に届くことはありませんでした」

 化け物じみた頭脳を生まれ持った男は、普通を求めた。

 それが無理なら、せめて、普通のヒトと関わりを持ちたかった。

 けれど、そのどちらも叶わなかった。

 世間はどこまでも残酷で。

 他人はあくまでも非情だった。

 大は小を兼ねる。けれど、その逆はありえない。古今東西、あらゆる知識を詰め込んだ男の器は、他人の思考やその傾向を包含(ほうがん)する大きさと深さを備えている。

 しかし、他人はというと、決して、そんなことはない。一時的に知識を入れておくだけの器、その許容量が、男のそれと比べて圧倒的に小さいのだ。

 そこに、ひとつの宇宙を包括するほどの膨大な量と質を兼ね備えた男の知識を入れてしまえば、たちまちに壊れてしまう。

 なら、どうするか。

 拒むしかない。

 普通のヒトでは、巨人のごとく男の存在に耐えられない。それは全てを飲み込む特異点――ブラックホールに等しい。隣に肩を並べるや否や、途端に自分の存在が消滅することだろう。

 こんなことで、他人に、男を理解するという考えが、生じるはずもない。

 他人が自分の考えを理解できないから、自分も他人の理解を諦めた。

 そして、今、かつての現実、その再現を、実際に目の当たりにしている。

「二次元を構成する線、それ自体が、単なる『点』ではなく、『線』であることを知るには、自身が二次元であることをやめ、三次元という、さらなる高次元に立たなければならないように、ヒトが、世界の全貌を見るには、一度、世界から、離れなければなりません。無論、ヒトとの関わりも、また……」

 ヒトとは違う、『化け物』だった男だから。

 ヒトという存在を簡単に噛み砕き、解体し、バラバラになった諸要素を繋ぎ合わせてこれを再構築するような、冷淡で明瞭な理論を作り上げることができた。

 しかし、皮肉なことに、『化け物』なるものが人知を超えた存在を形容する言葉である以上、その化け物の恐るべき考えを本当の意味で知るためには、ヒトもまた、化け物にならなければいけない。ヒトと、化け物とのあいだに引かれた境界線を乗り越え、同じ目線に立たなければならない。

 他人には、それができなかった。

 誰にも理解できない理論など、何の価値もない。

 男が長い年月をかけて組み上げた、ヒトと世界の理解可能性に関する一連の理論は、自分と他人を切り結ぶのではなく、むしろ、これを決定的に切り離してしまったのだ。

 しばしの沈黙。


「それでも、男は、諦めませんでした」


 暗闇に一筋の光が差すように。

 声は、絶対な自信をもって、そう告げた。

「男の固い信念が、こんなことで折れるはずがありません。男は、もはや、昔の自分自身とは、決定的に異なっていました。なぜなら、男は、知っていたからです。ヒトにとって一番大事なのは、過度に現状を悲観するのでも、ましてや楽観視するのでもない、あくまでも目の前の事柄を凝視し、それに意識を傾け、自ら、心を開くことだと」

 心を……。


『全てを無にする恐るべき『死』。この、自らを引き裂く否定的なものの圧力に耐え、目の前に留まり、これを凝視した時、ヒトは、自身をも無化する否定性すらも存在性に転じさせる、いわば“魔力”を持つことになるのです』


 ぼくは、彼が以前に語ったことを思い出す。

 自らを否定するものから逃げ出さず、これに立ち向かった時、否定性は存在を肯定するものへと“回転”する。

 だから、男は、他人からいくら恐れられようとも、そして、邪魔者扱いされようとも、愚直に彼らと向かい合う。

 否定もまた、自分を肯定するものに変わる、その可能性が秘められているから。

 男は、なおも、世界を凝視し続ける。

「視線を、送る。一点に、意識を注ぐ。それ以外に世界を正しく把握する方法なんて、ありません。恐るべき『死』への恐怖が、得体の知れないその不安が、逆説的に自身の存在を見据えさせ、非存在を存在に転化させる魔力を生み出すまでになるように、ヒトが、世界を、本当の意味で理解するには、自らを否定するものから目を逸らすのではなく、その否定性を否定しようとその場に踏みとどまり、いくら雨風に晒されようが逃げも隠れもしない草木のように、自らを押し潰そうと押し迫る強烈な圧力に、ひたすら、耐えなければなりません。そして、それは、何も、特別なことではないのです」

 高らかに断言した。

「ほら、子供をご覧なさい。彼らは何にでも興味を抱き、疑問を覚え、そして、知ろうとします。直接、目で見て、耳で聞き、手に触れ、肌で感じる。余計な不純物が入り込む余地のない、純然たる接触。寛容、受容、是認、吸収。子供はそうして自らの世界を広げ、拡張していく。自ら可能性を閉ざさない限り、その先に続く人生という名の広大な道筋が絶たれることは、決して、ないのです」

 世界は、他人という別の世界を通じて、その規模を徐々に増大させていく。

 世界は世界と繋がり、ひとつになり、それぞれが数珠つなぎとなった巨大な円環を作り出す。

「いつしか、男は、こう考えるようになりました。今は、まだ、自分の考えが理解されなくてもいい。しかし、いつの日か、自分の理論を理解しようとする者が、必ず、現れるはずだ。それが一年後か、十年後か、はたまた百年後かは、わからない。それでも、いや、それだからこそ、残さなければならない。託さなければならない。かつて、パスカルが言ったように、ヒトは、知識を通じて、それぞれの世界、それぞれの時代を隔てて、密接に繋がっているのだから」

 男は、目の前の現実から過去と未来を即座に見通すだけの強力な視線を持っていた。歴史に深々と貫入する男の豊富な知識が、それを可能にしていた。

 自分の考えを受け継ぐ人間が、必要だった。常に現実を、未来を見据えていた男だからこそ、そこに思い至った。

 今、この世界に生きている誰もかれもが、自分の掲げた理念を理解できず、その理想を体現できないというのなら、それが実現可能な人物の出現を待つしかない。

 自分の理論を受け入れることのできる、巨大な器を持った後継者。

 いずれ、現れる。

「さて、男の、外界に対する積極的な行動は、今までの内向的だった自分自身を否定し、これを乗り越えようとする、いわば決別でもありました。定立と反定立、そして、綜合(そうごう)。この時、確かに男は自らを止揚(アウフヘーベン)したのです。これまで、自分の世界にとどまっていた自身の存在を、外の世界に向けて投げ出し、ひとつに結び付けようと試みたのですから」

 男は、信じた。

 信じ続けた。

 ヒトの中に秘められた、世界の理解可能性を。

「この時、男は、初めて世界の本当の姿を目の当たりにすることになりました。自己を無条件に肯定する自分だけの世界、内的な主観と、その主観を無条件で否定する外的な世界、客観との間に生じた、いわば二重構造の壁を打ち砕き、果てしない断絶の向こう側――真の現実へと、到達したのです」

 感慨深げな声だった。喉の奥に引っかかったような例の笑いが、珍しく、その喜びようを表現している。

 彼の話を、ぼくは、ようやく理解しはじめていた。完璧な把握というより、虫食いだらけの本を読むみたいに欠陥だらけで漠然としたものだったけれども、穴の開いた文脈の前後から、その空白部分を読み取ることが徐々に可能となっていた。それは、彼の内面を構成する知識が外に向けて漏れ出し、世界を震わす言葉の旋律となってぼくの内部に浸透していることを意味した。

 本来、存在していたはずの区別はいつの間にか取り払われ、互いに平行していたはずの線がいつしか交わり、ひとつに重なり合う。

「ぼく」は「彼」でもあり、同時に、「ぼく」でもある……。

「主観と、客観。『私』の見る『私』と、他人から見た『私』。相互間の認識の齟齬(そご)()()。絶対的とも思われるこれらの矛盾を克服しようと努力する絶え間ない自己運動が、主観という名の閉じた世界、その内容を変容させ、ちょうど、サナギが蝶に羽化するように、自分の外に広がる客観に向けて自らを開き示します。脈動する意識は外に向けて大きく羽ばたき、はるか上空から世界を俯瞰した後、やがて、こんな疑問を抱くようになります。“果たして、世界はこのままでいいのか? 私が恋焦がれた世界とは、その美しさは、この程度のものなのか?”と」

 それは、つまり――。


「“世界はヒトを満足させず、むしろ、世界を変えようと決心させる”――」


 世界を、変える。

 正しく世界を見ているからこそ込み上げる、変革の強い決意。

「男の企てた計画の主眼は、まさにその点にありました」

 口の端から漏れたような小さな笑いが辺りに反響する。

 闇の広がる空間を震わせるほどの揺るぎない思いは、今のぼくに、強く、重く、響き渡った。

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