第百七話 遍歴――虚数の因果律
・一九八六年 七月二十九日 午後六時三十二分 認識力研究所二階私設研究室
「ヒトに等しく与えられた、世界の理解可能性――」
何も見えない、闇の中。
全ての存在を食らい、その一切を否定する空間にあって、老人と思しき声はなおも語り続ける。ある男の魂の遍歴を。喉から絞り出すようなしわがれ声で。失われた歴史を口伝する名もなき語り部のように。さしたる見返りを求めず、ただ、伝える。
「ヒトの理性が、その自己意識を通じて世界を満たす『精神』にまで高められ、これを開示した時、ヒトは、世界全体を正しく把握するのみならず、新たに世界を作り出すことが可能となる。概念を現実化させることができるのです」
世界はひとつじゃない。彼が言っていることは、まさしくそれだった。
ヒトの認識は、世界を写し取るのみならず、これを生み出しもする。世界が現実的であることを知ったヒトの意識は、自分自身もまた、現実的であることを知る。世界の中に、世界が生まれるのだ。
「この事実に気が付いた男は、これまでの身勝手で自分本位な生き方を恥じ、考えを改め、ヒトのために、果ては世界のために生きようと決意します。それは、自分以外の存在にまるで無関心なかつての自分自身とは、まるで対照的でした」
ありとあらゆる学問に精通し、とりわけ物理学に関して天才的な頭脳を持つというその男は、機械のように徹底された合理的な思考回路が仇となり、他者の存在を、まるで耳元に飛び交う羽虫か何かのように邪魔者扱いし、最終的に、その興味を失うまでになった。男と対等に渡り合うのに際し、他人はあまりに幼稚すぎたからだ。少なくとも、正確無比な知能を持った男にとっては。
やがて、他人を一切かえりみなくなった男は、文字通り、周囲に群がる彼らを虫けら同然とみなし、何のためらいもなく排除していく。本人にその気はなくとも、周りの人間から見れば、男は弱者を容赦なく踏み潰す『悪』そのものだった。いい意味でも悪い意味でも、人畜無害な人々にとって、巨象のごとき男の歩みは、あたかも足元のアリを踏み散らす様相と映り、その存在は恐れられて当然と言えた。
だからだろう、男の頭脳を羨望する、あるいは嫉妬する人々から、男は『化け物』と揶揄され、なじられ、後ろ指を指されることになる。
男もまた、どこまでも子供っぽい他人の存在を、現実に対置される一種の記号――『書き割り』とみなし、もはや『ヒト』として扱うこともなくなっていく。
他者を不当に規定する、偏見と軽蔑の眼差し。それぞれに向けられた視線は、個々を一義的な役割に縛り付ける楔となって強く打ち付けられる。
彼らとの距離は縮まることはなく、隔たっていくばかり。
「男は、変わらなければなりませんでした。自分と世界を分断させる、これまでの誤った形式から抜け出し、そして、変貌を遂げる必要がありました」
それは、そうだ。自分を変えずして、他人を、ましてや世界を変えることなんて、できっこない。物事は、そう、自分にばかり都合よく運ぶわけじゃない。せっかく、世界は自分を中心として回っていないことに気付いたというのに、それでは本末転倒だ。
声は言う。
「知識が、すなわち、認識が変われば、対象もまた、変化します。変化というより、修正といった方が適切でしょうか。ニュートン力学からアインシュタインの相対論、そして、量子論に発展していくように、ヒトの知識は、現実をより明確に描写しようと、世界の在り方さえも変えていきます。初めから、全てが正しく規定されているわけではないのです。むしろ、誤っている場合の方が多いでしょう。だからこそ、ヒトは、これまでに犯した間違いを正そうと、既存の規定を否定することができます。知識が、それを可能にします。ゆえに、世界とは、一箇所に固定されたような死した静物などではなく、流動的な波そのものなのです」
ヒトは、自由に思考し、自由に判断する生き物。正解が用意されているとはいえ、必ずしもそれを選び取るとは限らない。問題を間違えることだって、ある。
今まで正解と思われていたものが、じつは間違いだった、ということだって、ないわけじゃない。
それもこれも、今ある知識が絶対ではないから。
絶対じゃないからこそ、それを変えられる可能性もある。
「自分の中に備わる知識を変化させることによって、世界を変えていく。このようにして、ヒトは、徐々に世界の本質――真理に、接近していくのです」
男は、そのことを知った。『原理的に他人は理解不能である』という先入観に囚われていた自分を、変えることができたのだ。
「カニやヘビが脱皮して成長するように、男もまた、今までの古い自分を脱ぎ捨てたわけですが、それだけでは、まだ、自分が変わったとは声を大にして言えません。概念は現実化しなければ、結局は可能性のままでとどまります。男は、自分が変わったことを証明するために、まず、自分から率先して動き、その生き証人になる必要がありました。自分が、ヒトが何のために己を変え、そして、世界を変えなければならないのか。これを、周りの人々に知らしめなければならなかったのです」
ヒトが、自分を変えようとすることの、意味。
それは――。
「視線――」
言葉に込められた意味を強調するように、ゆっくりと言った。
「ヒトは、規定する者であると同時に、規定される者でもあります。どちらが正しくて、どちらが間違いとは、この時点では、まだ、断言できません。両者は互いに承認し合っているということを承認しています。つまり、自分こそが真に存在しているのだと確信しているわけです。そこには一方的な承認があるだけで、相互理解にまでは至っていません。他方が他方を支配しようと企む欲望のみが渦巻き、まさしく他者を飲み込まんとしています。お互い、自分に対して存在している自立的存在としてあるがゆえに、その優位性を示そうと、絶えず、睨み合っているのです」
正解は、ひとつきりじゃない。
「双方の認識のあいだに生じた微妙な差異――“揺らぎ”。その揺らぎを矯正し、ひとつに結ぶため、ヒトは、他人と接触しようと試みます」
ひとつじゃないから、ひとつを求める。
「互いの持つ情報の交換と共有――“交流”。それは言葉という記号を用いて行われます。言葉は行為となり、行為は現象を生じさせます。視線と視線、言葉と言葉。世界と世界は激しく衝突しながら絡み合い、交わり、核融合反応のように、さらなる質量の増加と拡がりをみせることになります」
一は、一でありながら、もとのような『一』ではなく、その規模を、単なる点を空間にまで押し広げたような『一』に変容する。ヒトの意識は、そうやって、数珠つなぎに連なっていく。
声は続ける。
「もちろん、強者が弱者を自らの肥やしとするように、一方が他方を飲み込む場合も、あるでしょう。承認の欲求の果てに待つのは――『死』です。ヒトは、自分の存在を承認させるために、究極的には、他者の死を求めることになります。自然界における存在の承認が、そのまま生死を賭けた闘争に直結するように、ヒトもまた、互いの意識を、その存在を賭して、激しい闘争を繰り広げるのです。自然界から社会に場を移してなお、未来永劫、戦い続けるのです」
捕食者と被捕食者の関係は、人間界も例外じゃない。自分の殻に閉じこもり、何も変えることができないような弱い意識は、時に世界を震撼させうる強い意識の力によって、あっけなく、消滅する。
あるいは、より強い意識に取り込まれ、屈辱的な隷従を余儀なくされる。
生物学的な死か、主人と奴隷の主従関係を結ぶことによる、精神の死か。
いずれにせよ、待つのは――『死』。
弱者は、こうして淘汰される。
(No.3……)
ぼくは、彼女のことを思った。死を恐れるあまり、卑怯な大人の言いなりになり、操り人形のように生きる、No.3の識別子を与えられた、哀れな少女を。
「だからといって、自分の死を、その絶対的な否性を恐れるあまり、互いに向き合うことを拒否すれば、自己と他者の理解可能性すらなくなってしまいます。それでは、理性を持たない獣と一緒です。何のために知識があるのか、わからなくなることでしょう。く、くっく……」
例の、あの「笑い」。人を食った嘲りとも取れるくぐもった笑いが、空間を満たす闇を静かに震わせるようにして低く反響する。
彼の言うように、ヒトには、本能に従って動くだけの獣と違い、理性が、知識がある。
知識は、ヒトを、世界を、その在り方を変えるだけの力がある。弱者が強者に転じると同時に、強者が弱者に転落する可能性が、備わっているのだ。
主人による支配もまた、絶対じゃなく、いつしか、反転する。歴史が、それを証明している。
「現に、獣は、ヒト以外の生物は、自らの世界を、ユクスキュルの言うような『環世界』を、自発的には広げることができません。あくまでも、あらかじめ規定された世界でのみ生きることを強いられています。獣には、他者を理解しようという心が、この現実を変えようとする意志の力が、欠如しているからです」
だから、獣は、力学的な法則に縛られ続ける。弱者が強者に転じることは、ない。
「しかし、ヒトは違います。ヒトは、ヒトに備わった意志の力は、自分と、それ以外のことを知り、そして、世界を変えようと決意します。この世界が絶対ではないことを、知っているからです。そのために、ヒトは、他者を理解し、自分の世界を広げようと、自らの身の危険、すなわち、『死』を顧みずに歩み寄るのです」
死さえ、恐れずに?
……いや、違う。
死を、受け入れているのだ。
声は言う。
「確かに、『死』という恐るべき絶対性を、私たちは非現実的なものとして、視界から退けようとするでしょう。『私という個人は、原理的に死を知ることがない。ゆえに、それはもはや無いのも同然であり、誤っているのだ』と」
それは、詭弁を弄して事実を捻じ曲げようとする、愚かな楽観主義者の考えを見透かしたような言葉だった。
「ヒトの意識が、自分という名の安らぎの檻から飛び出て、広がりを持つためには、このような否定的なものを見据え、真正面から向かい合わなければなりません。『死』は、無いのではなく、全ての存在を無化する効力を持った不可能性として、現に、そこに、あるのですから」
死と、向かい合う……。
「全てを無にする恐るべき『死』。この、自らを引き裂く否定的なものの圧力に耐え、目の前に留まり、これを凝視した時、ヒトは、自身をも無化する否定性すらも存在性に転じさせる、いわば“魔力”を持つことになるのです」
無を、存在させる、魔力――。
「換言すれば、こうなります。死に対する不安が、そして、死という絶対的な主人の存在が、自らを自立的に解放させる契機となる、と」
死が、ヒトを、主体化させる。
矛盾しているように見えて、じつは正しい。
だって、ヒトは、自らが死ぬことを知っている限りにおいて、自分の人生を生きようと決意するのだから。
「否定的なものさえも肯定的なものに転じさせる魔力――『視線』。物事の本質を捉え、それを鋭くえぐり出そうとする視線は、環境に囚われ、それに依存している奴隷しての自分――いわゆる所与状態――から自らを解き放ち、死すらも自分の威力とする『行動する死』、否定の否定性として、他の世界を自己とみなす意識となり、やがて、存在しないものすらも欲望するようになります。その欲望の正体こそ、まさしく存在の欠如の明証性である『無』そのもの。主体は、主体でなかったからこそ、これを真の実体とするために、自らが戦うことを選び取ります。自身の存在を承認させるため、自らを殺す死の主人を打倒しようと、それを一心に見据えるのです」
弱者ではなく、強者となるために。
ヒトは、奴隷から、主人へと、転化する。
「この、自らを外化させ、ともすれば自らを他者化させる意志の力は、並行する互いの世界をひとつに切り結ぶ接点となって作用します」
まるで、磁石のS極とN極のように。
「そうして、自分という狭い枠組みから抜け出た自己意識は、自分自身はもちろんのこと、他者の存在をも自分と同一とみなします。しかし、それは、他者をなきものとするような利己的な性質のものではなく、むしろ、自分以外の存在を認めようとする等質的な承認の働きかけに他なりません。ヒトは、異なる存在同士である自分と他者を、それぞれ相互承認するために、その視線を世界に向け、自らの存在を、そこに、投げ込むのです。世界が、自分が、誰かの支配による一方的な承認によって成り立っているのではないと、自ら、立証するのです」
……理解するために、ヒトは、世界を見る。
互いが孤立している存在じゃない、共につながることができるのだと、証明するために。
ヒトは世界を見て、世界もまた、ヒトを見つめる。
異なる視線が重なり合って、初めて、世界は、真実の姿を現すことになる……。
「そこで、男は、こう考えました。自然界に存在するもの全てに、大小問わず、何らかのエネルギーが保有されているように、ヒトの意識にもまた、固有のエネルギーが、それこそ、無を存在に転化させる、ヘーゲルの言う『魔力』のような力が、含まれているのではないか、と」
だから、ヒトは、世界を変えることができる。
「男は、その、ヒトの意識に固有のエネルギーを、力学的な因果律エネルギーとは直交して存在する、虚数の因果律エネルギー……『iエネルギー』と定義しました」
虚数の……因果律。
「言わずもがなですが、万物には、それぞれ因果律があり、これをエネルギーとして持っています。因果律の総体は、その生物が持つエネルギーの総体と等しい値を取ります。ゆえに、ほとんどの生物は、それぞれに割り振られた因果律エネルギー以上の働きをすることができません。蛙の子は蛙、というわけです」
それはまるで、杓子定規のように。生まれながらにして、その役割が、生き方が、決定している。自分の属する環境、生物の種類に応じて、辿るべき道筋が固定化されてしまっているのだ。
そんなこと、考えるまでもない。
けれども、そんな、当たり前のことが、今では、ひどく、残酷なことのように思える。
「それぞれが保有する因果律エネルギーには程度の強弱があり、基本的には弱肉強食の自然界同様、弱い因果律エネルギーは強い因果律エネルギーに駆逐され、その値を失います。それがいわゆる『死』です」
死。
生命維持に必要なエネルギーの喪失。
それは同時に、因果律の喪失をも意味する。
「こうして、弱者をエネルギーとして取り込んだ生物は、最終的に、あらかじめ規定された因果律エネルギーの最大値に達するまで生命活動を続けます。やがて、自らの命を、エントロピーの増大による老いや病気、あるいは他者の捕食によって散らすまで、懸命に生き抜くわけです」
大抵の生物は、子から成体に成長するために、他者から栄養を摂取し、そのエネルギーを奪う。
無事に成体となった生物は、いずれ、つがいを見つけて親となり、子をもうけ、そして、死を迎える。
彼の言葉を借りるなら、因果律エネルギーとやらの理論上の最大値とは、このようなものだろう。
でも、それは、最初から遺伝子に刻まれているような数値でしかなく、結局のところ、既存の路線をなぞっているに過ぎない。良くも悪くも、ある一定の領域を抜け出すことができないのだ。
だから、動植物は、ヒト以外の存在は、決まった生き方しかできない……。
「もちろん、ヒトもまた、生物である以上、他の動植物同様、通常の因果律エネルギーを持ちますが、ヒトの場合、それだけではなく、虚数の因果律エネルギー、すなわち、iエネルギーの総体である、意志の力を持っています」
……意志の、力。
「そして、iエネルギーが構成するのは、通常の因果律エネルギーが生み出す、現実の、物理的な世界ではなく、いわゆる虚数空間と呼ばれる、形を持たない、空虚な概念で、そのままでは、単なる可能性の域を出ません」
ただし、と声は付け加える。
「ご存知のように、虚数もまた、実数と違い、概念上の存在に過ぎません。しかし、そこに、ある種の操作、すなわち、複素平面における“回転”を与えることにより、虚数はたちまち実体を伴う実数へと変化を遂げることができます。概念は現実化するのです」
……。
「そして、それは、ヒトの持つ意志の力も同じ。意志の力という、目に見えない、しかし、確かに存在するiエネルギーが、偽の真空から真の真空へと遷移するようなトンネル効果を経て正しい方向に“回転”し、正の値を持つようになった時、ヒトは、既存の因果律エネルギーに加算した、あるいは、それとは別の因果律エネルギーを保有することになります。だから、ヒトは、世界に別の形を与え、これを作り出すことが可能なのです」
概念と現実の一致、あるいは、その構造自体の構築。
世界を正しく理解しようと試みた男は、ヒトが世界を作り出すという命題のプロセスを定式化し、これを算出した。仮説ではあるものの、世界の方程式を、見事に解き明かしたのだ。
彼は言う。
「男の理論を実践する時が、いよいよ訪れました。自らを被験者とした壮大な実験が、始まったのです」
闇に溶け込む、ふたつの意識。
「ぼく」と、「彼」とのあいだにあったはずの垣根は、もはや、取り払われたも同然だった。