第百六話 遍歴――並列世界生成原理
・一九八六年 七月二十九日 午後六時二十八分 認識力研究所二階私設研究室
世界は存在するのではなく、世界として生起する――。
年老いた男性のものと思われるしわがれた声が、闇の中でみじろぎひとつできない「ぼく」に対して、ある男の辿った足跡を語る。
「『存在の中の存在者』――」
老人は、落ち着いた口調で言った。透明な彼の言葉が、暗闇に吸い込まれるように浸透していく。
「ヒト、そして、ヒトの中にある意識を、実存主義哲学では、しばしばこのように表現します。自分の外側に広がる客観的世界の、その内側に、ヒトは、それぞれ、独自の世界を持つのです。世界という存在の中に、『私』という存在が、確かに存在しているのですよ」
存在の中に、存在が、存在する。
不思議な言い回しだ。
けれど、違和感はない。
新奇とも言える彼の自説をすんなりと受け入れている「ぼく」がいる。
なぜだろう?
彼の言葉が、その考えが、どこか、懐かしい気がした。
さらに声は続ける。
「『ひとつの時空間に属するヒトの中に、また、固有の時空間が存在する』。平たく言えば、機械論的な力学体系に支配された世界とは異なる法則性を持った、別の世界がある、ということです。古くはプラトン、そして、アウグスティヌス、果てはデカルトの心身二元論に端を発するこの考えを、大学で物理学を専攻していた男は非科学的だと否定的に捉えていたのですが、量子力学と実存哲学、これらの奇妙な類似性に気が付いた時、その認識は改められました。男は、今までの自分の考えが誤っていることを、痛烈に自覚したのです」
声の調子が、また、一段と高くなった。高揚しているのだ。ぼくは思った。
「たとえば、素粒子は、その性質上、自己同一性を持ちません。それが粒子か波動か、一概に言うことはできません。『現在の状態が判明すれば過去も未来も決定する』という因果律の一義性は、この時点では成立しません。これまでの量子力学のように、ミンコフスキー空間の閉曲面で確率振幅を定義すると、たちまち因果律は破れてしまう。シュレディンガー方程式を解くための時空間が、ひとつしか考慮されていないからです。ゆえに、朝永の超多時間理論のように、素粒子ごとの時間発展を考慮するための、別の空間を設ける必要がありました。時空間に生じた超曲面において、素粒子は、それぞれの確率振幅に応じた変容を遂げる。素粒子における自己同一性の欠如こそが、世界に拡がりをもたらす可能性となるのです」
自己同一性の欠如こそが、可能性を生み出す……。
「そして、実存主義哲学によると、ヒトとは、まさに自己同一性を欠いた存在です。物理的な世界に派生した、別の世界に属する存在として生まれた『私』は、その目に映る広大な世界に脅威すると同時に、恐ろしい不安に襲われます。自分は何者なのか? ――ヒトは、頭を抱えます。何のために、こうして存在しているのか? 生きるために? ――ヒトは一度は納得しかけますが、すぐにこう考えます。――しかし、『私』は、いずれ死に絶える。『私』は今はまだ存在しているが、いずれ存在しなくなる。それなのに、なぜ、生きるために存在していると言えるのか? むしろ、死ぬために存在しているのではないか? 本当に、『私』は、存在して……いるのか?」
……不安。
有と無の狭間にあって、明確な自己を欠いているヒトは、右に左に揺れ動く自分自身の存在に思い悩み、迷い、苦しむ。『何のために、自分は存在しているのか?』、と。
究極的には、『自分が本当に存在しているのか』どうかさえ、あやふやになってしまう……。
「ヒトという不可思議な存在は、他の動植物や無機物とは明らかに異なっています。父親と母親の容姿と中身を足して割ったような、いわゆる即自的な、両親の単なる似姿ではない、『誰でもない、誰か』。たとえばそれは、一種の花のように、種から発芽し、花を咲かせ、種を落とす、そういうサイクルを恒常的に繰り返すと、ひとくくりにできる存在ではありません。そのヒトがどのような人生を歩み、どのようにして死ぬのか、これといった答えは定まっていません。確率振幅、重ね合わせ、観測による波動関数の収縮……。無垢な赤子から成長し、自我を獲得した子供は、やがて、両親を始めとした他者や、社会の教え、そして、この世界が本当に正しいのかどうか、真実か否かと疑問を抱き始めます。果ては、自分自身の存在さえも、疑うでしょう。先に私が言ったように」
……。
「不安。言うなればそれは存在の揺らぎであり、異なる可能性が重なり合うことによって生じるもの。『~ではないのか?』という、不安に特有の不確定性がヒトの意識を世界から切り離し、互いを分離させます。ヒトは、その意識は、自身と、自分を取り巻く外側の世界と対立し、自らを対自的にします。対自的な自己は、世界に即したありかたである機械的で即自的な自分を否定し、あらかじめ進むべき道筋が約束された傀儡ではないと確信するに至ります。ヒトの不安が、そうさせるのです。不安とは裏を返せば反省であり、自らを正しく見つめる行為に他ならないからです」
……自分を、見つめる。
「不安によって、『私』は、『私』を離れ、『私』と、そして、世界を冷静に客観視します。そのうえで、宙づり状態となった自分自身の存在性を改めて証明するため、『私』は自分の中に戻り、長い人生の過程で絶え間ない努力を行おうと決意します。自らに欠けているもの、すなわち、自分とは何かという確信を、自己同一性を、この手にするために」
自己同一性の、確立……。
「たとえば、カフェの店員は、初めからカフェの店員として生を受けるのではなく、カフェの店員になろうと努力してカフェの店員になっているのであり、学者もまた、学者として必要な知識を最初から持っているわけではなく、寝る間も惜しんで勉強し、然るべき手順を踏んだ結果として、学者という役職を得ているわけです。彼らは生まれつき、それぞれの生き方に必要な能力を天から付与されたわけではありません。むしろ、自分自身で選択しているのです。ヒトは、自分以外の何者かになろうと決心し、そして、世界を変えていくのです」
世界を……変える。
「『世界は、その在り方は、一義的ではなく、絶対的でもない』。男は、ようやく理解しました。自分や、自分以外の存在は、いわゆる自然発生的な必然性によってあるばかりではなく、数値では測れない偶然性によっても存在しているのだ、と」
自己同一性の欠如こそが、世界に偶然をもたらす。男は、その事実に気がついた。世界が、誰かの手によって作られた精巧な書き割りじゃないことを、ようやく知ったのだ。
「『自分が見ている世界だけが全てではない』。そう思い至った時の男の衝撃は計り知れません。驚愕、絶句、そして、悔恨。これまでに感じたことのない多種多様の感情の波が、一挙に男のもとへと押し寄せました。黒くうねり、激しく荒れ狂う大波は、男が築いた常識という名の防波堤を容易く凌駕し、これを粉々に破壊します。男は、今までの己を恥じました。自分は、他者、そして、世界の薄い表面的な部分、その上っ面を、なぞっているだけに過ぎなかった。そこに深く入り組んでいるであろう内部に切り込もうとせず、最初から理解を諦め、それでいながら、全てを知ったようなつもりでいたのです。なんという浅はかさでしょう。このような体たらくでいてなお、愚かにも学者先生風情を気取っていたのですからくっ、くく、く」
おなじみの低い笑いが、ことさらに強く響き渡る。
「多時間理論における素粒子の時間発展が、単にひとつの座標軸からではない、空間の中に発生したもうひとつの時間軸で行われるように、ヒトもまた、それぞれの時空間を持ち、その中で独自の時間発展を遂げ、また別の世界を作り出す。実存哲学の立役者であるハイデガーは、世界の中の世界を、そこに属する存在者を、ヒトの意識――『世界・内・存在者』と定義しました。すでに存在性が規定されている外の世界と違い、まだ何者でもないヒトの意識は、無理やりに自分を枠に当てはめ、規定しようとする世界の外圧に耐え、自分だけの世界を構築します。素粒子が、外部からの規定を免れている限り、それぞれ異なる可能性を内包しているように、ヒトも、また……」
自己同一性の欠如。
世界の派生可能性。
声の主は、また「くっ」と笑った。
「ヒトは、誰かに与えられた役割をただ演じるだけではなく、むしろこれを否定し、その強い意志の力によって、自分以外の何かに変貌しようと決意します。確たる自己同一性を持たないがゆえに、別の何かになれるのです。それは同時に、新たな世界を生み出すことをも意味します」
……。
「換言すれば、こうなります。既存の世界に生まれ落ちた、『私』という、もうひとつの世界は、不安の揺らぎによって自分の枠組みから抜け出し、自分と世界の関係性を吟味した後、やがて、自分の中に戻り、そのままでは単なる可能性に過ぎない自らの存在を立脚しようと、再び、世界に向けて自分の存在、『私』である意識を投げ出します。外に投げ出された『私』は、徐々に勢力を拡大し、世界そのものを構築するまでになります。可能性は現実性へと回転し、晴れて、概念は現実と一致するのです」
可能性が、現実に……。
「こうして、ヒトの理性、すなわち意識は、自分自身を自らの世界とみなすと同時に、自分の外側に広がる客観的な世界もまた自分自身と同一視する『精神』にまで高められ、これを掌握するまでになります。ヘーゲル弁証法が言う『普遍・特殊・個別』への移行と、還帰。果てしない直線を描く悪無限性ではない、自身と世界を繋いだ円環の無限性。ヒトは、普遍的な世界に属しながら、特殊的な個別を持つという、“個”と“全”を包括した、神のごとき存在者となるのです」
同一性の欠如からなる、自己の変容。それは世界の変革、果ては、創造さえも意味する。
ヒトは、自分じゃない、別の何かになろうと、自らを超え出でる……。
それこそ、『神』になろうとさえも……。
「ただし、勘違いしてはならないことがあります」
ひときわ慎重な口ぶりで、声は付け加える。
「ヒトに現実を作り出す力が備わっている以上、自分以外のヒトにもまた、同様の力があるということです。観測する者は、同時に、観測される者でもある。量子力学における観測が、その量子状態を確定させるように、他者の眼差しが、『私』の存在性を規定するのです。男を『化け物』だとみなす他人の眼差しが、男を理解不能な恐ろしい『化け物』にさせ、彼らの住む世界から切り離したように、他人が規定を規定する。それもまた、揺るぎない事実なのです」
――視線。
ヒトの眼差しは、その認識の力は、ハサミのように世界を切り取るだけじゃなく、裁縫よろしく元の素材をつぎはぎに切り貼りし、また別の世界を構築したりもする。
だからこそ、ヒトの見る世界は一様じゃなくて、様々に異なっている。彼が言ったように、ヒトの数だけ、世界があるのだ。
「しかし、残念なことに、多くの人々がその点を失念しています」
やれやれと、小さくため息。
「まるで、自分だけが神のごとく創造と支配の能力を持っているのだと、彼らは愚かにも思い込んでいます。そして、それは、我が息子である幸伸も、例外ではありません」
厳しい口調で糾弾する。
「他者を、すなわち客観を前提しない利己的で幼稚な人間は、その閉鎖的な排他性ゆえに自分の世界から抜け出すことができず、未来永劫、そこに囚われ続けることになります。その閉じた世界は何ら拡張性を持たない、ひどく自分本位のもので、周囲と切り離されて孤立しているために、当人の死と共に消滅を迎えます。それは初めから存在しなかったことになるのです。高い専門性を備えた頑固な職人が、旧態依然とした秘密主義的な立場から他者との積極的交流を避け、沈黙を保ち、結果、後世に技術を継承させられないのと同じで、いくら卓越した技能や博大な知識を持っていても、それが他人に理解できない、普遍的とは程遠いものならば、結局のところ一代限りで滅び去るしかありません。進化論における自然選択のように、自身を取り巻く環境に上手く順応できないヒトは、あえなく、世界に飲み込まれます。自分勝手なヒトは、『私』という名の世界を支配しているようで、そのじつ、世界そのものに支配されているのです」
だから、そのヒトの世界が終わりを迎えた時、そのヒトは死んでしまう。そのヒトの属する世界が、ひとつしかないからだ。
「しかし、自分自身を自らの世界としながら、自分以外の世界もまた自己と同一視する精神を持ったヒトは、死してなお、生き続けることになります。肉体は滅んでも、文字通り、精神は残存するのです。永遠に――」
精神が、永遠……?
ふいに浮かんだ大きな疑問。
満を持して、声は言う。
「なぜなら、ヒトは、『普遍的な個人』という精神である限り、自分以外の存在に対して、自分の存在を見出すからです」
自分以外に、自分自身を……?
「それはたとえば、芸術における絵画や彫刻からであったり、小説の登場人物からであったり、あるいは自然そのものであったり、様々です。他の何かが産出した被造物に、ヒトは、自分の姿を、その片鱗を、見て取ります。『私』は遍在するのです」
まるで、鏡のように。
ヒトは、世界を。
世界は、ヒトを。
それぞれ、見つめている。
「『私』は、その精神は、存在の数だけ、存在します。だからこそ、ヒトは、自分以外の何かを理解することが可能なのです。それらは他ならぬ自分自身なのですから、当然と言えば当然ですが」
ぼくは、「ぼく」でありながら、「ぼく」以外の、誰かでもある……。
そして、それは、そのことを「ぼく」に教える声の主も、同じ……。
「ぼく」は「彼」であり、「彼」はまた「ぼく」でもある……。
「異なる存在者同士の交流によって社会が生まれ、文化が形成され、歴史が構築されていく。人類の営みは、そのまま、他者の理解に向かう接続の歩みを意味します。他者を排除し、その全てを食らいつくすような悪しき侵略と略奪だけでは、決して、ないのです」
声の主は、再三、強調した。
全てを無に帰すブラックホールのような暗闇の中、彼の声だけが響き渡る。
奇妙で、不気味。
それでも、不思議と、嫌な感じはしなかった。
「ヒトに等しく与えられた、世界の理解可能性――」
深く、噛み締めるようにつぶやいた。
「世界は存在するのではなく、世界として生起する。ヒトが、世界を生み出すその構造を、より正確に理解しようと企んだ男は、長い雌伏の時間を経て、ようやく、動き出します。世界に向けて、その存在を、投げ込んだのです――」
話は、さらに続くようだった。