第百五話 遍歴――超多時間理論
・一九八六年 七月二十九日 午後六時二十五分 認識力研究所二階私設研究室
「ひとつ、昔話をしましょう――」
闇の世界。
外と内の境界線が曖昧模糊に掻き消えた物悲しい空間に響き渡るのは、年老いた男性のものと思わせる低い声。その声が、ひときわ優しい口調でつぶやいた。
「なに、どこにでもあるような、ごくごくありふれた話ですよ。とあるひとりの男の、ごくごく平凡な遍歴というやつです」
気さくに言った。小さく笑いながらの言葉は、まるで見知った友人と話しているかのように親しげだ。
それにしても、ぼくに馴れ馴れしく接する声の主は、一体、何者なのだろう?
ようやくぼくは、そのことに確かな疑問を覚えた。実際のところ、彼が本当に存在しているのかどうかさえ、確たる判断材料に欠けている。そこにはあって然るべきの明確な線引き――摩擦が、ないからだ。
彼の声がこうしてぼくの内部に響き、溶け込むようにして浸透する時、ぼくと彼のあいだに立てられているはずの区別は容易に立ち消え、霧散し、やがて、ひとつに同化する。
彼の語る言葉は、不安定なぼくを支える言葉となり、彼から注ぎ込まれる情報は、ぼくを「ぼく」だと区分させる楔となる。そこに存在していたはずの「彼」は消え、代わりに生じた「ぼく」が「彼」と等しく交わるのだ。
「ぼく」は「彼」でもあり、「彼」はまた「ぼく」でもある。
静寂に響き渡るその声は、孤独におびえ、他者との接触に飢えるぼくの寂しい心が生み出した幻なのか、それとも……。
「あるところに、ひとりの若い男がいました」
疑問は中断される。彼の声が、ぼくを、「ぼく」から、分断させる。
彼の声が、その穏やかな話し声が、闇と一体化したぼくの心に小さな波紋を広げていく……。
「周囲を山に囲まれた小さな町に住む、自然科学の分野に精通した学者の夫と、動植物を愛する心優しい妻との間に生まれたその男は、とても頭が良く、子供ながらに町の図書館に入り浸り、閉館後も家の書斎で本を読み続けるような、貪欲に知識を求める、寡黙な男でした。男が学問にかける執念は恐ろしく、書淫、あるいは活字中毒とも言えるほどに病的で、時には親や教師を心配させるほどでした。男に友人はいませんでした。友人どころか、男とまともに話をしようとする人物もいなかった。なぜなら、同年代の人間を始め、男と近しい人物のほとんどが、類まれに天才的な頭脳を持つ彼と話がまったく噛み合わず、その価値観がおよそかけ離れていたからです。男の興味を引くものは物理学や数学であり、要するにある一定の法則性を根底に有した学問でした。初等部ですでにニュートン力学に並々ならぬ関心を抱き、中等部で早くも微積分を理解した男は、論理的に完璧で美しいものを何よりも好みました。そんな人間が、粗雑で騒々しい世俗に溶け込めるはずもありません。だからと言うべきでしょうか、男はいつからか他者と交流することをすっかり諦め、彼らのことを背景の一部……、『書き割り』と捉えるようになっていました。立場の同じ対等な関係ではなく、あくまでも一種の観察対象として見ることにしたのです。古今東西のあらゆる知識を網羅していた男にとっては、他人の行動やその思考が手に取るようにわかるのに、当の他人は自分のことなどまるで理解できないからです。それは、男に、自分が彼らとは別の世界に立っているかのような錯覚を与えました。実際問題、男と他人、それぞれが見ている物から受け取れる印象が、まるで異なっている。たとえば、男が、ある対象Xを認識した時、男は対象Xから、考えられうる全ての情報を内包した印象を読み取るにもかかわらず、他者はせいぜい一面的で限定的な情報しか受け取れず、挙句の果てにまったく見当外れの認識をする始末。男は他人と同じ物を見ているはずなのに、その捉え方が全然、違っているのです。この事実は男に驚きを与えると同時に、他者に対する深い失望感を抱かせることになりました。もっとも、他者は他者で、ある対象Xを前にして、即座に一から十の情報を把握する男のことを奇異の目で捉えていました。本に書かれた内容や風景などをひと目見ただけ記憶し、これを寸分の狂いなく描写する、機械のように正確無比で、感情の起伏に乏しい男が、他人の目には異常者として映ったのです。他人にとって、男の存在は、『常人では理解しがたい化け物』であり、逆に、男にとって、他人の存在は、『人間によく似た下等生物』程度でしかなかった。相互間における認識の齟齬。言うなればそれは、世界との断絶。観測する者と、観測される者の、接続しがたい遊離……。事実、彼は常に孤独でした。そして、自分以外の人間を歯牙にもかけない男のことを、周囲の人間はことごとく変人扱いしていました。未知なるものに対する畏怖と、理解不能なものに対する軽蔑とが折半した、差別的な眼差し。心ない他人からの白眼視ですが、男にとっては足元に転がる石くれ並みにどうでもよかった。むしろ、他人から除け者にされたことで、「ようやく煩わしくて邪魔くさい人間関係から逃れられる」と、これを喜ぶほどです。他人の存在など、男にはどうでもよかった。男にとっては書物に記された内容こそが現実であり、理解ある友人であり、教養ある大人であり、要するに世界そのものでした。それ以外のことは全て茶番に過ぎず、中身のない、がらんどうのように空虚なもので、そんな人間たちが構成する現代社会もまた、砂上の楼閣のように儚くて心許ないものだと断じ、まるで関心を示しませんでした。彼の頭の中で、全ての世界は完結していました。経験なき知識、実践なき概念こそ、最も愚かなもののひとつだと知らずに、男は他人を排除し、愚直に学問を究めようと努力を続け、そのことごとくを理解、吸収していきました」
声の主は、「くっ」と笑った。空気の漏れるようなくぐもった笑みにどのような意味が込められているのか、今のぼくには知る由もない。
「さて、周囲の人間からは異端児扱いされながらも、持ち前の頭脳を生かし、学業では優秀な成績を修め、時には天才とさえもてはやされていた男は、いつしか『世界は自分のために存在する』と思い始めました。一事が万事、全てが上手く運んでいる。何もかも、自分の思うがまま。他人は愚かで、自分は彼らよりも優れていると、選民思想にも似た考えを持ち始め、優越感に浸り、あざ笑う。挫折を知らない若者が陥りやすい、熱病にも似た万能感。脳を麻痺させる陶酔が男の心を支配し、満たしていました。他者との交流を徹底的に避け、自分の世界に閉じこもり、これを熱心に構築していただけの男は、完全に慢心し、思い上がっていました。自分に不可能などない。自分はこの世の全てを知っている。そんな大それた確信さえ抱くほどに己の実力を過信し、そして、自惚れていたのです。それは、不可知なるものに興味を抱き、その謎を紐解く様々な学問に対して純粋に向き合っていた少年期の彼とは、決定的に異なっていました。確かに、少年期の彼も、生意気盛りの小僧だったことに変わりはないでしょうが、それでも、ひとつの物事に打ち込む真摯さがあった。しかし、高等学校を全校トップの成績で卒業し、全国区で見ても指折りの学力を誇っていた男には、もはや当時の謙虚さの欠片もなく、自分が世界の中心だと言わんばかりの鼻につく高慢さだけが残されていました。自分の備える豊富な知識だけが判断基準の、融通の利かない、頭でっかちの人間。それが、学生時代の彼でした。しかし、そんな彼にも、唯一、理解不能なことがあった。大学に進学した男は、まもなく、それを思い知ることになります」
……。
「それは、量子力学。男が若者だった当時はまだ相対論も発表されて間もない時代、この世に産声を上げたばかりの未発達な学問に、天才と呼ばれた男は頭を抱えました。それは、今まで自分が築き上げてきた価値観を、根底から覆す破壊力を備えていたからです。とりわけ、男を悩ませたのは、素粒子の持つ二重性でした。量子力学によると、素粒子は粒子と波動の両性質を持ち合わせ、それがどちらか一方であると、観測以前では断言できない。自分の信仰する物理学の延長線上に位置する学問にあるまじき、この、奇妙な不確定性が、男はどうしても許せませんでした。なぜなら、この世はひとつの大きな流れ、法則性のみがあるのであって、万にひとつも不確実なことはないと、男は愚直にも信じきっていたのですから。しかし、量子力学は、必然性ありきで話を進める物理学とは、前提からして異なっている。物理学が『世界はこのようにして構築されている』と説明しているのに対し、量子力学は、『世界はなぜこのようにして構築されなければならなかったのか?』と、素粒子の持つ二重性の観点から世界の現実性さえも疑い、これに疑問を呈しているのですから。そんなこと、男には考えもつかなかった。なぜなら、世界は、現に、こうして存在している。そして、現に、こうして存在している以上、他の可能性が入り込む余地など、あるはずがない。世界の現実性を問うこと自体、ナンセンスなのだ。男は頑迷にも、そう、捉えていました。このように、男にとって、量子力学とは、物理学や数学のように世界を正確に記述できない、粗悪で未熟な、未完成の学問。論理的な美しさというのをまるで欠いた、嫌悪すべきもののひとつでした」
声の主はペースを落とすことなく、さらに続ける。
「ただし、そんな、素粒子の不可解な二重性については、大学でできた唯一とも言える友人――もっとも、当時の男は、彼を、その他の有象無象と同列に扱っていましたが――に勧められた様々な哲学書を読むことによって、牛歩のごとき歩みではありますが、ようやく、理解し始めます。『世界は、じつは、“神即自然”と定義したスピノザや、ライプニッツの言うような予定調和に代表される、常住不変で硬質な、あらかじめ確定したものではなく、むしろ、ヒトの認識次第で如何様にも姿を変容させる、生き生きとした柔軟性を備えている』、そんな考えが、男の内部にもたげました。不思議な感覚でした。今まで自分が信じていたものの方が間違いで、自分が間違いだと思い込んでいたものの方が、じつは正しい。天動説から地動説への移行。コペルニクス的転回。男の中で静かな、しかし、確かな変革が訪れようとしていました。男を引き裂く強烈な引力によって、意識は内側から外側に向かい、そして、また、内側へと戻る。円を描く一回転。そのねじれが、螺旋を生み出す自己運動が、男をさらなる高次の次元に誘う渦巻き状の階層となって現出する。男は、自らの恥ずべき固定観念を少しずつ破壊しながら、足元に散らばるその破片を掻き集め、別の概念を構築し始めます。男は、これまでの自分と同一でありながら、他方で以前の自分とは明確に異なる、別の自分自身になろうとしていました。それは、素粒子に特有の二重性といみじくも酷似していました。過去の古い知識に囚われていた自分と、新しい知識を身に纏う自分が、同時に折り重なって存在していたのです。世界は絶対的ではなく、相対的。そして、男の内実の変容は、その後に読むことになる論文、あの有名なディラックの『多時間理論』及び朝永振一郎の『超多時間理論』で、いよいよ決定的になります」
声の音程が、少しだけ高くなる。話しているうちに気分が高まってきたのだろう。話に熱が入っているのが、よくわかった。
「さて、それらの論文によりますと、従来の理論においては、ある時刻における確率振幅ψを与え、シュレディンガー方程式を解き、別の時刻におけるψを計算できるわけですが、ただしこれは、相対論的ではない。なぜなら、たとえばn個数粒子があると仮定した場合、それぞれの粒子は空間の各点ごとに様々な値を取りうるわけですが、n個数粒子があるにもかかわらず、時間がひとつしか存在しないからです。現に、n個粒子がある場合のシュレディンガー関数の座標を(X1,X2,…Xn,t)と表していたように、これでは時間軸を固定してしまうことになる。とすれば、当然、この場合の時刻という概念は、相対論的に共変ではないわけです。しかし、超多時間理論では、ひとつひとつの素粒子ごとの時間発展を考える。単一の空間上に、さらなる時空間を追加したのです。すなわち、シュレディンガー関数の座標(X1,X2,…Xn,t)を、超多時間理論では、空間の各点ごとに時間を置くため、シュレディンガー関数のtの添字にtXYZと表記する。四次元世界に超曲面を考え、空間ごとに違った時間を発生させるわけです」
それが一体、何を意味するのか、と声は続ける。
「多時間理論及び超多時間理論では、各粒子ごとに属する時空間が違うと考えます。ここに、従来の量子論、果ては物理学とも決定的に異なる点が見出せます。すでに明らかであるように、素粒子というものには、いわゆる自己同一性がありません。粒子か波動か、それは、観測するまでわかりません。これが粒子で、これが波動であるなどと、あらかじめ区別をつけることはできません。だからこそ、時間軸をたったひとつしか用意しない従来の理論とは異なる、いわば『時空間の中の時空間』を設ける必要があったのです。そして、男は、この、多時間理論などにおける特異な表現方法に、どこか見覚えがありました。それが何かと思案するうち、とある一冊の書物に行き着きました。当時に最新鋭だった実存主義哲学の本です。男は、友人から借りたその本を手に取り、おそるおそる中を開きます。そこに書かれた一文を見て、男は驚愕に慄き、目を見張りました」
はたして、それは――。
「――『世界は存在するのではなく、世界として生起する』」
静かに息継ぎしながら、彼は、落ち着いた様子で言った。
闇が、また一段と、濃くなったような気がした。