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第百一話 日記3

 七月二十三日。天気は、わからない。


 この研究所に来てから、もう三日目だ。

 朝。職員の人が立てる廊下の足音で目が覚める。

 じつを言うと、今が朝なのか昼なのか夜なのか、時計がないから正確にはわからないけど、それでも、朝だというのが感覚でわかった。

 ドアの外から声がする。ベッドから起き出してそっと聞き耳を立てると、どうやらNo.1が呼ばれているみたいだ。

 ごはんの前は、このようにして号令がかかる。自分の番号を呼ばれたら、すぐに返事をしないといけない。

 次に、No.2の番号を職員の人が言う。

 ちょっと間が開いたあと、No.2が小さく返事を返すのが聞こえた。

 ぼくはNo.5だから、一番最後だ。

 ドアの前で息を潜めて待っているあいだ、ぼくは心臓がバクバクで、とても、緊張した。

「No.5」

 ぼくの番号を呼ばれた。すぐに、「はい」と返事した。

 ドアが、ほんの少しだけ開いた。

 ドアの隙間から、朝ごはんを乗せた銀色のトレイが差し出される。

 ごはんを受け取りながら、ぼくは、自分が動物園の動物みたいになった、と思った。

 いつだったか、テレビで見たことがある。動物園で働く飼育員の人は、朝、昼、夜の決まった時間、動物にエサを与えにやって来る。

 ぼくたちは、研究所の人間に飼われた動物で、このごはんはエサなのだ。

 けれど、寝起きでおなかがペコペコで、ノドもすごくカラカラだったせいか、トレイに置かれたごはんとコップに注がれた水を見て、そんな疑問はすぐにどうでもよくなった。

 トレイに置かれた茶色い固形のバーと生臭いゼリーは、はっきり言って、おいしくない。というか、まずい。お家のごはんや給食の方が、もっと、ずっと、温かくて、味わい深くて、おいしい。

 水だって妙に生ぬるくて、プールの水みたいに変なニオイがする。できることなら、飲みたくない。

 でも、とにかくなんでもいいから食べ物を、そして飲み物を口に入れないと、人は、生きていけない。我慢して飲んで、食べなければ、ぼくはすぐにでも弱って、死んでしまうだろう。

 ぼくは、社会の授業で習った戦時下の日本を思い出した。教科書に載せられた白黒の写真にうつる彼らの姿はげっそりとやせ細り、ボロボロの衣服はドロかなにかで汚れている。昔の人は、ひと口サイズの小さなイモを何日かにわけて食べ、道端で生えているような雑草を煮たりして飢えをしのいだと、そう教わった。

 好きなものを好きなだけ食べる、なんてことは夢のまた夢。

 でも、それは、今のぼくだって同じ。

 SFマンガで出てくるような味気ないごはんを口の中いっぱいにほおばり、ツンとしたカルキ臭のする水で無理やり流し込む。

 飲み水は、ごはんの時しか出てこないから、すぐになくなってしまった。

 待望のごはんなのに、ぜんぜん、食べた気がしなかった。

 ごはんを食べ終えたら、もう、やることがない。

 とりあえず、こうして日記をつけたはいいけど、書くことなんてほとんどない。

 ぼくにできることと言えば、次のごはんが来るお昼の時間を待つだけ。

 ベッドの上にあおむけで寝っ転がって、ぼんやりと天井を眺める。

 なんだか、頭の中にモヤがかかっているような感じ。なにかを考えなければいけないのに、なにも考えられない。無理にでも脳みそを働かせようとすると、ズキズキと頭の奥が痛くなる。

 ぼくは、砂浜に打ち上げられた魚みたいに、ほとんど身動きを取ることもできず、それこそ死んだようにして時間を過ごした。

 部屋の中はひどく蒸し暑くて、喉がすぐにカラカラに乾いた。

 昼。朝と同じ号令のあと、朝と同じようにトレイに乗ったお昼ごはんを受け取り、朝ごはんが乗せられていたトレイと、この日記を職員の人に渡す。

 朝とほとんど変わらないごはん。

 違いと言えば、茶色いバーのほかに、濃い緑色をしたペースト状の物体があるということ。

 でも、これもおいしくない。道端に生えたなんだかよくわからない葉っぱのニオイを直接かいでるみたいにすごく青臭くて、すぐに気持ち悪くなった。

 こんなもの、鼻を近づけるだけでもイヤだったけど、ぜんぶ残さずに食べないと怒られるだろうから、これも無理やりコップの水で飲み込んだ。

 水は、すぐになくなった。

 また、ヒマになった。

 朝と同じようにベッドの上で大の字に寝転がる。

 昨日みたいにドアのロックが解除されることもない。

 どうやって時間を潰すのか。そんなことを考える余力もないぼくは、ひどい暑さの中、半ば気絶するようにして、無事に時間が過ぎ去るのを待った。

 夜。お昼ごはんの時に渡した日記が、夜ごはんが運ばれるのと一緒に返される。

 夜ごはんのメニューは、茶色いバーとゼリー、そして、ドロドロとした緑色の物体。

 もう、目に入れるのも口に入れるのもイヤだけど、死なないためには食べないといけない。

 なるべく味がしないように息を止めながら、バーとゼリーをめいっぱい口に詰め込むと、コップに注がれた薬品臭い水で一気にノドまで流し込む。

 そこで、ちょっと思った。

 ぼくは、ここで死なないためにこうして無理やりごはんを食べている。けど、それって、なんだかおかしい。

 このまま、生きて、どうするんだろう?

 このまま、ずっと、こんな生活が続くのだろうか?

 そんなの、イヤだ。

 No.4、【――】くんは、今すぐにでもここから脱出すべきだと言っていた。ぼくも、その通りだと思う。

 こんな場所から、すぐにでも逃げ出したい。

 逃げ出したい、けど。

 でも。

 そんな手段なんて、どこにもない。

 子供のぼくじゃ、大人たちには逆らえない。

 昨日のことについて職員たちからおとがめがなかったのは意外だったけど、逆にそれが不気味でもあった。

 彼らはぼくたちをどうするつもりなんだろう? こんな場所にいつまでも閉じ込めて、それで、どうするというんだろう?

 ぼくは、ずっと、ここで暮らし続けるんだろうか?

 死ぬまで?

 ずっと?

 朝、ベッドから起きて、号令といっしょにごはんが運ばれて、それを食べて、日記をつけて、またベッドの上に戻って、時々、排泄して、昼になって、号令と共にごはんが運ばれて、それを食べて、日記を渡して、またベッドの上に戻って、時々、排泄して、夜になって、号令と共にごはんが運ばれて、それを食べて、日記をつけて、またベッドの上に戻って、時々、排泄して、そして、寝る。

 その、繰り返し。

 ぼくは、昔、家族と一緒に出かけたことのあるおもちゃ屋に置いてあった、水飲み鳥を想像した。あれは、熱力学のエネルギーを利用して水を飲む動作を延々と繰り返すおもちゃだけど、今のぼくもだいたい似たようなものだ。

 ずっと、同じことの繰り返し。

 何の意味もない日々が、ずっと、続く。

 ここには、何も、ない。

 大好きな家族とすごした温もりも、楽しい学校での思い出も、友達と話したアニメやマンガの話題も、メガネの先生のタイクツな授業も、通学路で見かけたかわいいトラネコや、手のひらサイズの大きなトノサマバッタも、商店街の優しいおばちゃんやおじちゃんの元気な掛け声も、何もかも、すべて、消えてしまっている。

 せめて、あの頃の楽しかった出来事を思い出して、今までぼくが過ごした日々がウソじゃないことを確かめようとしたけれど、ちょっとお母さんやお父さんの顔を思い浮かべただけでどうしようもなく悲しくて、涙が出て、胸が詰まりそうだったから、やっぱり、やめた。

 過去を振り返るのは、やめよう。

 つらい。

 つらすぎる。

 ぼくは、ひとり。

 今のぼくは、もう、ひとりぼっちだった。

 また、頭が痛くなってきた。目がかすんでページがよく見えない。ペンを持つ手にもあんまり力が入らなくなってきた。

 今までのことも、これからのことも、なにも、考えたくもなかった。


 七月二十四日。天気不明。


 いつも通りの朝。

 そのはずだった。

 ベッドから起きたぼくは、異変というか、ちょっとした変化に気付いた。

 いつものように、号令がドアの外からかかった。これはいつもと変わらない。

 けれど、どういうわけか、No.1の番号が呼ばれなかった。いきなり、No.2の番号から始まったのだ。

 聞き間違いじゃないと思う。

 もちろん、聞き逃したわけでもない。

 職員が廊下に来たときには、ぼくは目を覚ましている。最初にNo.1の番号を呼んだのだとしたら、必ず、気付くはずだ。

 何があったんだろう?

 ぼくは、【――】と名乗った、あの車椅子のおじいさんのことを思い出した。しわくちゃの目元が優しい、ニコニコとした、ステキな人だった。ぼくも、将来、歳を取ったら、あのおじいさんのようになりたいと思った。

 イヤな考えが、ぼくを恐怖に駆らせた。

 だって、突然、今までいたはずの人間の番号が呼ばれなくなるなんて、おかしい。絶対に、ありえない。

 考えられる、たったひとつの理由を除けば。

 そういえば、昨日の昼、あるいは夜はどうだっただろうか? ちゃんと、No.1の番号は呼ばれていただろうか?

 寝起きの朝はまだしも、特にやることもない昼と夜はボーっとしており、号令をきちんと聞いていなかった。その可能性がある。

 まさか、昨日から?

 昨日から、No.1は、【――】さんは、いなくなっている?

 日記を見返すと、確かに朝にはちゃんとNo.1から号令が始まっているのがわかる。

 じゃあ、お昼以降に、No.1は。

 不安。

 不安が、あった。

 日記を書いている今でも全身が震える。

 最悪な予感が、いつまでも頭から離れない。

 もし、もしも本当に、No.1が、【――】さんが、ぼくの予想通りのことになっているとしたら。

 次は、No.2じゃないのか?

 ぼくは、占いが好きだと言っていた【――】ちゃんの姿を想像して、胸がキュッと痛んだ。

 あるいは、番号順など関係なく?

 だとしたら、次は。

 次は、ぼく?

 ぼくが、部屋から無理やり連れ出されて、そして、殺される?

 想像して、また、恐怖した。

 イヤだ。

 ぼくは、死にたくない。

 ここでこのまま生き続けるのもイヤだけど、でも、だからって、死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくないよ。

 どうして。

 どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 わからない。

 わからない。

 何もかも、わからない。

 ひとつ、確かなことは、朝、No.1の番号が呼ばれなかったように、昼も、そして、夜も、その番号が呼ばれることはなかった、ということだけ。

 とても、眠れそうになかった。


 七月二十五日。天気不明。


 最悪だ。

 最悪だった。

 恐れていたことが、やっぱり、現実のものになった。

 ぼくは震える手で日記を書いている。

 いつの間にか眠っていた、いつも通りの朝。

 廊下から足音が聞こえ、ベッドから飛び起きたぼくは、素早くドアの前に駆け寄り、注意深く聞き耳を立てて、職員から呼ばれる番号を確かめた。

 やっぱり、No.1の番号が呼ばれることはなかった。

 でも、他のみんなの番号は、いつも通りに呼ばれていた。

 そこまでは、よかった。

 問題は、朝ごはんのあとからしばらく経ったときのことだった。

 職員のものらしき足音が、突然、廊下でかすかに鳴った。

 まさかと思って耳を澄ませると、いつもより小さな声でNo.2の番号が呼ばれた。

 イヤな予感があった。

 そして、やっぱりというか、その予感は的中してしまった。

 お昼ごはんの時。

 今度は、No.2が呼ばれなかった。

 職員は、No.3の順番から呼びかけた。

 ショックだった。

 背筋に直接、氷を当てられたような、あのイヤな感覚を、ぼくは今でも鮮明に覚えている。

 聞き間違いだと思いたかった。

 ぼくの予想が外れていればいいと、切に願った。

 もしも本当にそうなら、どれだけよかったことだろう。

 でも、現実は、やっぱり残酷で。

 本当に、もう、どうしようもなくて

 夜も、No.2の番号が呼ばれることはなかった。

 No.1に関しても、それは同じだ。

 彼らは、二人は、【――】さんと【――】ちゃんは、いなくなってしまった。

 信じたくなかった。

 きっと、二人は、何か理由があって、今は研究所にいないんだと、そう思いたかった。もしかしたら、二人だけは特別に、家に帰されたのかもしれない、そんな期待さえ抱いた。

 だって、二人が死ぬなんて。

 そんなこと、ありえない。

 ありえないじゃないか。

 確かめたかった。

 どうにかしてここから出て、二人の部屋に入って、本当にいなくなったのかどうか、この目で見なければいけないと思った。

 けれど、怖かった。

 あの職員の人たちに二人は酷い目にあわされて、そして、死んでしまったと考えたら、もう、足がすくんで動けなかった。

 映画の中で見たことがある。戦争中に捕らえられた捕虜は、『ゴウモン』という、自白を強要するためのひどい暴力を受けたり、さらには『人体実験』という、思わず目をそむけたくなるような恐ろしい仕打ちを受けるのだ。ぼくは、縄で手足を縛られて泣き叫ぶ男の人が無理やり手術台に乗せられ、頭やおなかにメスを入れる場面が映された時、とても気分が悪くなったのを覚えている。

 だから、すごく、後悔している。あの時、【――】くんの言ったように、やっぱり、この研究所から逃げ出すべきだったんだ。

 弱虫だった。

 いくじなしだった。

 こんなことになるなんて、思ってもみなかった。

 ううん、違う。

 本当は、なんとなく、そんな予感があった。

 だけど。

 考えるのが、怖かった。

 見て見ぬふりを、していた。

 まさか、ぼくが、みんなが、死ぬはずがないって、心のどこかで思っていた。

 いつか、自分のお家に帰れるって、元の生活に戻れるって、根拠もないのに考えていた。

 すべて、ウソだ。

 ぼくは自分にウソをついていた。

 ぼくには、もう、帰るべきお家も、お父さんとお母さんも、何もかも、ないというのに。

 そして、また、失ってしまった。

 大事な人を。

 ぼくは卑怯者だ。

 ぼくのせいで、みんなが。

 みんなが。

 ぼくが、殺したようなものだ。

 あの時、ぼくが、脱出なんてやめよう、なんて言わなかったら。

 二人は。

 でも、時間は戻せない。

 二人は、【――】さんと【――】ちゃんは、もう、二度と、帰ってこないんだ。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 胸が痛いくらいに締め付けられる。涙があふれて止まらない。

 ぼくは、どうすればいいんだ。

 ぼくは、これからどうなるんだ。

 みんなは、ぼくは。

 いったい。


 七月二十六日。天気不明。


 朝。

 ゆうべは、ほとんど眠れなかった。

 頭が痛くて、耳鳴りがする。

 いつものように、ドアの外から号令がかかる。

 No.1とNo.2の番号が呼ばれなかったこと以外は、何もかも同じだった。

 ドアの隙間から差し出されるマズいごはん。

 食欲なんて、まるでなかった。

 それなのに、ぼくは、味気のないそれを夢中になって食べ、犬みたいにベロを突き出してガブガブとコップの水を飲む。

 生きていたって、仕方ないのに。

 生きていても、つらいだけなのに。

 死なないから、死にたくないから、生きている。

 そんな感じ。

 二人の顔が、今も目に浮かぶ。

 思い出の中の二人は、にこにこと笑っていた。

 とても、つらかった。

 自然と、涙があふれた。

 ごはんを食べ終えたぼくは、ベッドの上で寝転びながら、しばらく、ぼんやりしていた。

 真っ白な天井には、【――】さんや【――】ちゃん、そして、みんなの姿が映し出されていた。

 目をつむっても、状況はまったく同じだった。真っ黒の世界を背景に、やっぱり、みんながいる。満面の笑みを浮かべ、ぼくを見ている。

 とても、申し訳なかった。

 たくさんの涙がほっぺたを伝って流れ、汗くさいシーツの上にポタポタと落ちて、それがいくつものシミを作った。

 頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 目の前がグニャグニャと波打ち、天井がぐるぐると回ってる。

 頭痛は、ますますひどくなっていた。

 いつからか、ぼくは考えることをやめていた。

 何も、考えない方がいい。

 つらくなるだけだ。

 想像の中の【――】くんが、「弱虫め」とぼくをなじった。

 怒った顔をした【――】くんの姿は、でも、すぐに消えてなくなった。

 もう、何も、感じなくなっていた。

 気が付けば、お昼になっていた。

 また、マズいごはんと水が差し出される。

 ぼくはそれを夢中になって食べ、飲み干す。

 夜もまた、同じだった。

 No.1とNo.2の番号が呼ばれなくなった以外は、なにもかも、一緒だった。

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