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第九十七話 浅間有一の過去4

 一九六九年、夏。


 ――ベトナムは、戦場だった。


 資本主義と社会主義の代理戦争と呼ばれるベトナム戦争。

 当時、南北に分断されていたベトナムは、社会主義国家である北側のベトナム民主共和国(北ベトナム)と、資本主義国家である南側のベトナム共和国(南ベトナム)の両陣営に分かれ、冷戦下にあって熾烈に火花を散らしていた。

 一九六四年八月、南ベトナムを援助していたアメリカが本格的に軍備を増強させたことが契機となり、戦争はまさに泥沼の様相を呈することになる。

 浅間を始めとしたボランティアの青年団は、アメリカ軍と戦う南ベトナム解放民族戦線の物資補給にあたるため、救援物資を積載したカブに乗り込み、ラオスから南ベトナムに越境するべく、北ベトナム軍が苦労して開通させたホーチミン・ルートに進行方向を取ると、密林に作られた小さな道を縦断し、切り立った山脈を越え、やがて、田畑の広がる小さな村までやって来た。

 だが、浅間たちの目に映ったのは、それを『村』と呼ぶのもはばかれるような、無残にも荒れ果てた土地の、見るに堪えない惨状だった。

 そこは、草も生えない不毛の焦土と化した、かつて村落だった場所。大地はえぐれ、家屋は倒壊し、平和に人が暮らしていたという生活の痕跡をわずかに残すのみ。

 ここで激しい戦闘があったのは明白だった。

 若き浅間有一は、真っ黒に焼け焦げた住居の数々や、血の跡が点々と続く地面、村の外れに放置された未だ手付かずの死体という、映画でもなかなかお目にかかれない非現実的な光景を前に、言うべき言葉を失った。

 それは、日本から来た他のボランティアや協力隊の人間も同じだった。

 皆、一様に顔を強張らせ、喉元に込み上げる吐き気を抑え込んでいる。

 実際に胃の内容物を戻した者もいた。

 この場から、一歩も動けない。

 まるで、足が地面と一体化してしまったようだった。

 それでも、現地の人間は、物言わぬ彫像と化した浅間たちを歓迎してくれた。

 彼らに促される形で本来の目的を思い出した青年団一行は、まるで魔法が解けたかのように我を取り戻した。

 最初に案内されたのは、野戦病院だった。

 病院と言っても、温室育ちの日本人が想像するような立派なものではない。

 穴だらけとなった地面の上に張られた、いくつかの小さなテント。

 雨風をしのぐ程度の役割しか持たないテントを病棟に見立てた薄暗い内部には、鼻をつく消毒液の強烈なニオイと、それに負けないほどに濃密な、タンパク質の焼けた独特なニオイが充満していた。

 ベッドの代わりに敷かれた安物のシーツの上で寝転がるのは、容赦なく人々の命を奪う銃弾の雨に晒され、爆撃機から撃ち込まれる砲弾で住居を壊され、着の身着のままで逃げ惑う民衆を守るために立ち上がった兵士たち。はだけた衣服から覗く素肌のそこかしこに血濡れの包帯が巻かれ、中には片腕や片足が欠損している者の姿も見受けられる。

 急ごしらえの粗末な床の上で横一列に並べられた彼らは苦しそうにうめき、戦闘で負った傷の痛みを必死に耐えている。

 マスク姿の衛生兵や看護師たちが、少しでも彼らの苦痛を和らげようと不眠不休で働き、不快で窮屈なテントの中を忙しなく動き回る。

 現実に現れた地獄絵図。そう形容するほかない。

 この世のものとは思えない凄惨な光景が、今、自分の目の前に広がっている。

 これも、全て、国家の掲げる政策のために戦った――否、戦わざるを得なかった――人々が、その手に銃器を抱えて互いに殺し合った結果。

 あまりにも残酷で、理不尽。

 浅間は、圧倒されていた。手が震え、足が震え、正常心を保つことさえままならない。

 濃厚な死の臭いが蔓延する環境に放り出され、たちまち激しい動揺に駆られた浅間は、そばにいた比較的軽傷の若いベトナム人に、たまらず、「なぜ、こんなになってまで戦うのか」と、震えた声で問いかけた。

 すると、彼は、真っ直ぐに浅間の目を見つめながら優しく微笑み、「私たちは、誇りのために戦っている」と、淀みない現地の言葉で返した。

 裏表のない純粋な返答に、浅間は自分の足元が大きく揺さぶられたような感覚を覚えた。日本という、恵まれた先進国で築き上げた価値観が脆くも崩れ去り、そこで育まれた未成熟な死生観もろとも根底から覆される。

 自分が、崩壊していく。

 ガラガラと。

 ひときわ、大きな音を立てて。

 かつて自分だった物の残骸が、雛が生まれた直後の割れた卵の殻のようにして、雑然と周囲に散らばる。

 千々に砕けた破片の隙間から顔を覗かせるのは、以前の自分と似ているようで違う、まったく新しい、別の自分自身。雪解けを待った春の植物が大地から一斉に芽吹くように、小さくも立派に自己を主張する。

 この時、浅間は痛切に思い知った。国や社会に翻弄されているはずの人たちが持つ、何にも動じることのない、巨木のごとく自立的な強さというものを。

 確かに、彼らには、自分たちがソ連の掲げるイデオロギーに利用され、戦闘に動員されているという自覚はない。

 だからこそ、彼らが武器を取って前線に立つ行動原理は、どこまでも純粋で、単純だった。

 ただ、自分たちの生まれ育った愛する祖国を侵略しようと土足で踏み込むアメリカ軍の脅威を食い止めるべく、無我夢中で自衛しているだけ。

 真の正義は、当人たちの中にしかない。

 それは、きっと、アメリカも同じ。

 彼らは、今を必死に生きているだけなのだ。この過酷な現実に、命を賭けてでも守るべき大切なものがある。だから、立ち上がる。

 人が戦う理由なんて、それ以外にない。

 ――自分は、どうだ?

 改めて、浅間は問う。

 果たして、自分は、遠い異国の地で懸命に生きる彼らのように、自らの命を賭してまで勇猛果敢に戦うことができるのか、と。

 感受性豊かな浅間は、ベトナムという遠い異国の地で、心優しい現地人や勇敢な南ベトナム解放民族戦線の軍人と接するうち、世界を取り巻く理不尽な社会情勢に憤慨すると同時に深く失望し、自身の存在意義や世の中の矛盾に突き当たる。

 浅間自身、大学で近代政治や現代社会について学んでいた時は、それこそ、圧倒的な軍事力をもって爆心地を更地にする北爆を敢行し、巨象が蟻を蹂躙するかのごとき冷酷無比さで、罪なき民衆ごとゲリラを殲滅しようとするアメリカこそが悪だと思い込んでいた。

 実際、アメリカ軍による悪逆非道な大量虐殺も各地で起こった。

 アメリカという国や、その人種自体を憎む現地の人間も少なくなかった。

 しかし、だからといって、国に対する憎悪というものを、一個人や集団に還元することはできない。そんなことをすればすぐさま誤謬に陥る。国土という環境が国民の人格形成に深く関係しているとはいえ、それは決して一枚岩ではないからだ。同じ国、同じ地域で生まれたヒトAとヒトBは、結局のところ他人であり、たとえ似通う部分があるとしても、まったく同じ思考回路を持つわけではない。または、その逆で、生まれが異なっても同じような考えを持つ人間は大勢いるし、極端な話、スラム街に代表される劣悪な環境にあっても、高等教育を受けた人間に勝るとも劣らない優れた能力を持つ人間だっている。生まれ育った場所が、全てではないのだ。

 では、何が人間の行動を支配し、これを規定するのか?

 当時、精神分析学や心理学について学び始めたばかりの浅間は、戦争という異常事態の中、一部の人間が野性的な闘争本能に駆られて虐殺や婦女暴行などの凶行に走る一方で、そうした他者の行いや自分の感情に惑わされず、身に迫る脅威から必死に耐え、その理性を失わない人間が少なからずいることを知った。彼らは私情ではなく、もっと別の何かのために生き、そして、戦っている。浅間が最初に話した南ベトナム解放民族戦線に所属する青年が、まさしくそうだった。

 環境が人格を形成する。それは理解している。だからこそ、戦時下という極限状態に置かれたヒトはこうして殺し合い、平時では考えられないような残虐非道の狼藉(ろうぜき)を働く。

 でも。

 それでも。

 必ずしも、ヒトが、敵という名の獲物を殺戮し、捕らえた弱者をいたぶるだけの野蛮な存在にならない理由は、なんだ? 人間を構成している人格の底さえも貫く理性を構築するのは、一体、何なのだ?

 本や講義では得られない、生の体験。

 浅間は、遠くでかすかに銃弾の音が鳴り響き、人肉の腐臭に誘われたハエが飛び交う村落跡地で野営しながら、その明晰な頭脳で、日々、考え抜いた。

 慣れない異国での生活は、日本という小さな島国で悶々と生きていた浅間に、これ以上ないくらいに大きな刺激と限りない示唆を与えた。

 実際、戦地に立って理解した。人間が生きる意味。銃弾に傷付き、倒れ、死んでいく現地の人たちを前に、浅間はひとつの答えを得た。

 ここでは、ヒトの生き死になど、日常に転がる些末な出来事でしかない。戦場ではヒトが死ぬものだと相場が決まっているからだ。

 だから、そこで生きる多くのヒトは、たとえヒトの死体が公道のど真ん中に横たわっていようと意識を向けることはない。まるで石くれか何かのように、もはや存在しないものとして扱う。ヒトの死は異常ではなく、むしろ当然だからだ。

 ただ、一部の人間だけが、このような苦境にあっても己を失わず、依然、生と死を特別視する。生を貴び、敬い、生を脅かすものを嫌悪する。死者を悼み、祝福を与え、丁重に葬る。

 それは、なぜか?

 それは、彼らが社会の生みだす大きな流れに飲まれていないからだ。戦争という、自己を無化する強烈な威力に晒されながらも、自分の考えと生き方を貫き、これを保ち続けている。

 浅間は、これこそが真の人間の姿だ、と確信した。


 社会に対抗する人間。


 社会を疑問視する人間。


 社会に向けて声を上げる人間。


 このように、世俗という、記号化された人間による一方的な組織化を免れ、常に一歩離れた視点から社会を冷静に俯瞰する人間こそが、真の人間の在り方なのだ。

 同時に、どうして社会がヒトを原始的な殺人の道具にするのか、ということに対する解答も得た。

 戦争をもたらすのが社会であり、その社会が個人の総体だとすれば、個々人の意識の欠落もしくは過度な一般化こそが戦争を是認し、これを後押しする悪しき力となる。

 個人が大衆化する時、戦争は起こる。

 裏を返せば、こういうことになる。()()()()()()()()()()()()()

 大学で学んだ、カール・マルクスの唯物史観、その教条を、浅間は痛切に思い知った。

 重要なのは、環境ではない。環境を形成する社会そのものだ。ジャック・ラカンの言う大文字の他者のように、言語では語り尽くせないような絶対的な壁が、ヒトを完全に覆い尽くしている。

 本当の巨悪は、戦場で銃を打つ兵士にも、戦闘を指示する士官にも、平気で女子供をなぶり殺す脱走兵の中にもない。それは、もっと、別の場所に、しかも至るところに遍在している。

 たとえば、それは、この戦争を金儲けの手段に使う強欲な拝金主義者どもであり、この戦争を対岸の火事と楽観視してこれを黙認し、我関せずを決め込む卑劣な日和見主義者どもであり、要するに一部の日本人そのものである。

 自分が憎むべき相手、最も打倒すべき連中は、もっと身近なところにある……。

 浅間が生まれ育った故郷、日本。

 今、日本は、物質化ないしは均等化された世俗的な人間で溢れ返っている。彼が過ごした祖国は資本主義の奴隷どもの巣窟となっているのだ。

 ならば、日本を内部から改革しなければ、いずれ、近い将来、アメリカのような巨大な力を持つ一部の権力者の手によって、国民は、使い勝手の良い政治上の駒として利用されるのではないか? 社会がヒトの意識を規定するなら、まさにそうだ。

 日本を、改革する。

 環境を形成する土壌となる社会を、根底から作り変える。ヒトを完全に支配する大文字の他者を、この手で破壊するのだ。

 浅間は、日本にいた時以上に、そう、強く考えるようになっていた。

 そして、彼に過激で急進的な革命思想を掲げさせるきっかけになる出来事が、ついに訪れた。

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