第九十六話 浅間有一の過去3
一九六九年、春。
著名な理論物理学者で革命思想家の拝戸久三に導かれ、個人バー『アセファル』に入店したその日のうちに秘密結社『AZ』の会員になった浅間は、個性的な顔ぶれのメンバーと政治的な論争や建設的な哲学談義を交わし、互いに切磋琢磨することになる。
『AZ』は、その資金援助者である拝戸久三を除き、私立瀬津大学生物学部所属の露木銀治郎、医学部所属の剣持忠人、物理学部所属でオルガナイザーの芥川伶一と、新参の浅間有一、そして、リーダー格のとある人物を加えた、計五人で構成されている。
浅間は、その五人目を見かけたことがなかった。
それは、他のメンバーも同様だった。
誰も、『AZ』の最後のメンバーで、かつ、自分たちのリーダーだというその人物のことを知らない。
露木の話によれば、そいつは、決して自分たちの前に姿を見せることはないという。
ただ、『AZ』の理論的指導者である拝戸久三の指示のもと、ひそかに工作活動を行い、暗躍を続けているとのこと。
メンバーが知っているのは、そのコードネームだけだ。
コードネーム『A』。
彼こそが、かつて、物議を醸した新国際空港建設計画を裏から妨害し、神田製鉄の粉飾決算を暴いて倒産まで追い込んだ破壊工作員なのだが、その事実を浅間が知るのは、もう少し後の話である。
秘密結社『AZ』で、同年代の人間と忌憚のない意見を交わすのは、通学から一年が経過したためにルーティンと化した大学生活では得られないような、新鮮で刺激に満ちたものだった。
曲者揃いのメンバーの中で比較的まともな浅間は、無政府主義者の芥川と共に、日夜交わされる激しい議論の聞き役に回ることが多かった。露木と剣持は、その強情な性格が災いしてか、互いに意見が衝突するばかりで話が一向に進まないため、冷静に二人の発言を審議する場を設ける必要性があったのだ。
友と呼べる存在がいなかった浅間にとって、バー『アセファル』で過ごす彼らとの時間は、慌ただしく過ぎる日々の中で大きな比重を占めることになる。
時には学生運動に参加し、デモ活動を行い、またある時には、自分たちの思想に共鳴する同志を増やそうと大学でビラを配り、自作した機関誌を交えてアジテーションを行う。
それが一段落すれば、自分たちの根城であり、作戦会議室でもある『アセファル』で、今後の計画を練り、夢を語らい、親睦を深める。
全てが、新鮮な驚きと発見に満ち溢れている。
初めて、自分が他者に認められたような気がした。
浅間は、本気で社会の現状を憂い、これを変えようと決起する若者たちの熱情に揉まれ、徐々にその思想を先鋭化させていく。
とはいえ、急進的で過激な『AZ』のメンバーに強く影響を受けていた浅間にも、納得できないことがあった。
「卑劣な犯罪行為だけは、絶対にしてはなりません」
バー『アセファル』で行われた何度目かの会合の際、露木らが通う私立大学を占拠するという計画を聞いて、憤怒に両手を震わせながら断言した。
具体的な計画を練って作戦を指示する軍師的な役目にあった拝戸久三は、浅間の抗議に対して、それはもっともだと頷いた。
「ですが、その卑劣な犯罪行為が社会を変えることもあります」
慎重な口ぶりで言った。
理解しがたかった。
結局、浅間は、大学占拠計画には参加しなかった。
直情的な熱血漢である露木からは「日和見主義の偽善者」と罵られたが、自分が犯罪を犯すことだけはどうしても我慢ならなかった。
あの、粉飾決算。
神田製鉄の人間が目先の欲にくらみ、犯罪に走らなければ、自分がこんな惨めな思いをすることはなかった。
大学占拠は成功したと、大学からの帰り道、浅間は芥川から事後報告を受けた。世間を賑わせていた新インターン制度撤廃を始め、学生を苦しめていた学費の賃上げも据え置きとなり、『AZ』の目的は達成された、と。
複雑な気分だった。
大学占拠計画の先頭に立っていた剣持が『AZ』を脱退したのは、そのすぐ後だった。
浅間もまた、自然と『AZ』の活動からは足が遠のき始めていた。
聞けば、大学占拠を実行するにあたり、大学に通う学生のみならず、附属病院の研修医や、今の待遇に不満を持った医者なども巻き込んで籠城したために、病院の患者をひとり死なせてしまったとのことだった。
あれだけ学生運動に熱を入れていた剣持が、急遽、その活動から足を洗った理由が、なんとなく、わかった気がした。
同年代の人間と政治思想を語り合い、議論を交わせるのは魅力的だったが、犯罪に手を染めるのだけはごめんだった。
再び、元の忙しい学生生活に戻った浅間だが、『AZ』で過ごした濃密な時間の余波は、確実に浅間の内部を侵食していた。
それでも、どうせ社会を変えるなら、暴力に訴えかけるような強引な方法ではなく、可能な限り平和的に済まさなければならないというのが、犯罪によって人生を狂わされた彼の信条だった。
この時はまだ、人間として必要最低限の分別は備えていた。
一九六九年、夏。
大学は全面的に夏季休暇に入り、図書館などの施設の利用が禁止となった。
相変わらず、自分のように苦しむ人々を救うという熱い使命に燃える浅間だったが、その分、不完全燃焼を起こしていた。
大学で講義を受け、単位を取り、バイトを掛け持ちながら寮で自習する。
平々凡々とした、退屈な毎日。
本当に、そんなことの繰り返しで、社会が良くなるのだろうか?
浅間は思い悩んでいた。『AZ』での活動の日々、その記憶が、いつまでも尾を引いていた。
頭に疑問が生じるたびに、浅間は意識を奮い立たせ、再び、勉学にのめり込んだ。
正確には、のめり込もうとした。
だが、できなかった。
勉強に、身が入らない。机に向かい、専門書を開いても、目は文字の上をするりと滑り、以前の倍以上の時間をかけて読み取った単語は、しかし、頭の中で結合することなく四散する。
集中力が、まったく続かなかった。勉強を開始した物の数分でペンを小脇に置き、漫然と宙を睨んでは、ややして小さくため息をつく。
熱量が、失われていた。浅間を突き動かす原動力が、すっかり枯渇してしまっていた。
渇いていた。
大学の抗議を受け、演習を行い、単位を取っても、達成感も何もない。
ただ、時間ばかりが過ぎていく。
自分は、何者になるべきか?
呪文めいた講師の抗議を受けながら、浅間はそんなことを考えた。
大学を卒業し、一定の研修期間を経て、精神科医になる。
それも、いいだろう。
だが、そんなことで、胸に大きくわだかまった、この、言いようのない気持ちが払拭できるのか?
自分は、浅間有一という人間は、一体、誰になりたいのか?
自身が思い描いていた人生の設計図に、初めて、不安を覚えた。
以前までの自分は今を生きるのに必死で、こんな疑問が差し込む余地もなかった。勉強して、単位を取って、アルバイトで金を稼いで、それで良かった。おそらく、こうした形式的な生活様式は、精神科医になった後もさほど変わらないことだろう。
だが、そんな振り子運動のように単調な毎日を過ごして、それで本当にいいのか? 結局のところ、人生を忙殺しているだけではないのか?
なるほど、社会の一員になるには、それでいいだろう。雑事に追われ、煩わしい人間関係に振り回され、当たり障りのない言葉を人々と交わして、そうやって、日々を埋没させる。悪いことではない。その真面目でひたむきな姿勢に誰も文句を言う筋合いはない。
だが、浅間にとって重要なのは、社会の一員になることではなく、自分を今まで蔑んできた社会、その枠組みを変えることなのだ。少なくとも、当初の彼の目的はそうだった。
それが、今では諾々と白眼視している。
自分は、何をやっているのか。
浅間は激しく葛藤した。
社会を正しく見るためには、一度、社会から離れなければならない。それは、学生運動を行っているうちに理解していた。既存の社会を疑問視しこれに、異議を唱えるのは重要な行為であると、『AZ』の活動から学んでいた。
理想を現実化させるには、行動するしかない。
わかっている。
それでも、迷いがあった。
果たして、自分は、このまま呑気に勉強し続けるだけで、本当に、社会を変えられるのか?
どれだけ必死になって勉強しても、目に見える成果は微々たるもので、得るものよりも失う時間の方が多い、そんな気がしていた。
浅間は、焦り始めていた。
岐路に、差し掛かっている。自分が何者になるべきか、決断の時が迫っているのだ。
俺は……。
『あなたは、私と同じですよ』
それは、拝戸久三が自分に対して投げかけた言葉。
「っ……!」
直後、頭上に落雷が落ちたような衝撃が浅間を襲った。拝戸久三が『アセファル』にて自分にそう告げたことの真意を、彼は唐突に理解したのだ。
自分が目指すべきもの。
生涯をかけて手にすべきもの。
それは……。
「……“あの人”と同じ、か」
確かに、そうかもしれない。
拝戸久三が、自分と半分以上も歳が離れた浅間に対して近いものを感じ取っていたように、浅間もまた、祖父と同じぐらいに年齢差のある拝戸久三に、強いシンパシーを覚えていた。今さらになって、そう自覚した。
「やはり、俺は、あちら側の人間だということか」
社会から疎外された、惨めな人間。
それは、未来永劫、変わることはない。
浅間は分厚い参考書を閉じ、勢いよく椅子から立ち上がると、おもむろに身支度を始めた。
時刻は、正午を回ったばかり。
バーが開く夜までは、しばらく、時間があった。
平日昼間の駅前は、ほとんど人の姿が見えなかった。
真夏のまぶしい日差しを全身に浴びながら馴染みの古書店に向かった浅間は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を購入した帰り道、懐かしい顔と出会った。
夏だというのに折り目の付いたスーツを羽織った、英国紳士のように姿勢のよい老人。
拝戸久三だった。
「こんにちは、浅間くん」
山高帽を取って、恭しく頭を下げる。
屋外の、それも日中に拝戸久三と話をすることはほとんどなかったので、浅間の目には、こうして自分の前に立つ老人の姿が、妙に珍しいものに映った。
「きみは、今でも社会を変えたいと思っていますね?」
ゆっくりと顔を上げた拝戸久三は、口元の右端を「くっ」と持ち上げ、浅間の考えを見透かしたように言った。
初めて会った時と変わらない、鋭い洞察力。
浅間は、何も答えられなかった。
「きみに、これを渡したくて来ました」
また『AZ』の地下活動に勧誘されるものとばかり考えていた浅間だが、その意に反し、拝戸久三は小さく折り畳まれた一枚の紙切れを渡すと、言葉少なに浅間の横を通り抜けていった。
ひとり、蝉しぐれの降り注ぐ道路に取り残された浅間は、呆然と、徐々に遠ざかるその背を見送る。
やがて、我に返った浅間が、半ば慌てながら紙を開くと、興奮気味に視線を走らせた。
そこには、『南ベトナム解放民族戦線に救援物資を運ぶためのボランティア募集』という旨と、その青年海外協力隊の代表者である人物の連絡先が書かれていた。
呑気に古書店で本を買い、街中をぶらついている場合では、なかった。
もはや『アセファル』に寄っている時間もないと考えた浅間は、そのまま寮まで戻り、玄関に置かれた共用電話の前に立った。
そして、紙に書かれた番号に電話を掛けると、数度のコール音のあと、若い男性の声が電話口から聞こえた。
「えっと、ぼくは浅間というものですが……」
緊張しながら言うと、意外な答えが返って来た。
『ああ、浅間さんですね。“あの人”から話は伺っていますよ』
「……“あの人”?」
『拝戸久三さん、ですよ』
そう言われ、浅間は思わず舌を巻いた。
あらゆる地下活動家とコネがある拝戸久三は、南ベトナム解放民族戦線、いわゆる『ベトコン』への日本人ボランティアを募集する民間組織のリーダーとも親交があった。彼は、浅間の社会に対する懐疑的な姿勢と、そこに向けて積極的介入をなさんとする強い行動力を見込んで、民間組織のリーダーに浅間を斡旋したのだ。
あの時と同じだ、と浅間は思った。自分の行動を先読みし、周囲に根回しする。こうすることで、あらかじめ逃げ場を封じておくのだ。
――全て、“あの人”の手のひらの上、か。
改めて、拝戸久三の恐ろしさを痛感した浅間は、妙な感慨を覚えながら、ボランティアに参加する旨を男性に伝え、受話器を置いた。
旅立ちの日は、三日後。
浅間は自室に戻り、バイトなどのスケジュールを調整すると、もう間もなく訪れる海外派遣活動に思いを馳せた。
夏季休暇を利用した、一種の旅行。あるいは研修。そう気楽に捉えていた。日本を離れ、異国の地に降り立つことで見えてくるものがあるかもしれないと、単純に考えていた。
そういう意味では、浅間もまだまだ世間知らずのお坊ちゃんであり、社会を知ったふうな口を利く、気ばかりが大きくなった、生意気な若造だった。
旅券は拝戸久三によってあらかじめ手配されていたため、浅間はパスポートを用意し、トランクケースに詰め込んだ着替えなどを持参するだけで済んだ。
その日は、カラッとした青空の広がる、よく晴れた日だった。
集合場所は、羽田空港。
浅間はバスで空港まで向かい、そこで、自分と同じボランティアのメンバーや、青年海外協力隊の人間と合流した。
浅間たち派遣隊は羽田空港から中国雲南省行きの便に乗り、さらにそこからラオスのヴィエンチャン行きの便に乗る。
ラオスの首都、ヴィエンチャンに到着した後は現地ガイドと合流し、そのまま西に進路を取り、危険なホーチミン・ルートを通って、南ベトナムで戦う南ベトナム解放民族戦線に物資を補給する。
初めて目にする異国の地。
――ベトナムは、戦場だった。