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第九十五話 浅間有一の過去2

 一九六九年、春。

 大学に進学してから、一年が過ぎた。浅間は十九歳になっていた。

 浅間は、優秀な在学生のひとりとなっていた。二年の前期にはドイツ語を習得し、より専門的な医学書の原書を読み解けるまでになった。

 とりわけ浅間を喜ばせたのは、自身の愛好するショーペンハウアーが若い時に書いた論文、『意志と表象としての世界』を原文で読めるようになったことだった。

 金銭にもある程度は余裕ができはじめ、駅の近くにある古書店で気に入った本を数冊買い込めるくらいには経済的自由が生まれた。

 ダブルワークのアルバイトも、一年の頃よりは数を減らすことができた。

 大学キャンパス内に建てられた二階建ての学生寮。カーテンの閉め切られた四畳半の薄暗い自室に閉じこもりながら、古書店で購入した古本を開き、その独特のニオイを感じつつ、一字一句を余さず本を丹念に読み耽るのが、浅間の新たな楽しみとなっていた。

 順風満帆と言えるほど楽な暮らしとはとても言えなかったが、それでも、充実した毎日であったことは確かだろう。

 浅間が、“あの人”に出会ったのは、ちょうど、独学でフランス語を学び始めた頃だった。

 今になって思えば、ヘーゲルの絶対的観念論を独自の理論物理学と結び付けた“あの人”と、そのヘーゲルを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていたショーペンハウアーの厭世的な主義思想にひかれていた浅間が巡り合ったのは、まさしく因縁じみていた。

 自分の通う大学に招待された“あの人”の行った演説を、たまたま通りがかった講堂の外から耳に入れた浅間は、すぐさま衝撃を受けた。

 内容は、今もよく覚えている。


『人間という、この対自的存在が行うあらゆる自由な選択は、究極的には神になろうと決心する存在選択のことである。そして、存在を選ぶということは、自らを賭けに投じる行為にほかならず、それはしばしば問いかけと呼ばれ、要するに必然的なものから偶然的なものを取り出す行為以外の何物をも意味しない。自分に降りかかるあらゆる幸運と不運は、自らという対自的に不確かな存在を即自的な世界に向けて投げ、そして、それを取り戻した際に得られる結果のひとつでしかなく、また、それが問いかけの答えでもある。疑問を、この社会に向けて投げ掛けなければならない。当然と思われている今の社会通念を疑うのは、あなた達を除いてほかにいない。人間は、学生は、労働者は、この不幸な意識は、世界に、既存の社会に支配されている消極的な奴隷などでは決してなく、むしろ、この社会を変えうる主人、すなわち神になろうと決意し、自分の外に向けて自らの存在を投げ、自らのものを作り上げようとする、積極的な存在なのである。確かなものから不確かなものを取り出そうとする、誉れ高き自由存在なのである』


 サルトルとバタイユの言葉を借用し、これを織り交ぜた巧みな演説に、浅間は強いショックを受けた。こんな大胆で柔軟な考え方をする人間がいるのかと、目からうろこが落ちたような気分に陥った。

 興奮冷めやらぬ彼は、そばにいた学生を捕まえると、矢継ぎ早に“あの人”について尋ねた。

 突然の質問に驚いた眼鏡の学生は怪訝そうな顔を浮かべていたが、やがて呆れたようにして答えた。

「壇上に立っているのは、理論物理学者で思想家の、拝戸久三教授だよ」

 浅間は、この時はじめて、“あの人”が拝戸久三という人物であることを知った。

 演説を終え、人で溢れた講堂から外に出て来た拝戸久三の前に、浅間は立ちはだかった。

「お話があります」

 真っ直ぐな目と、真剣な表情。

 恐れを知らない情熱的な若者を前にしたスーツ姿の拝戸久三は、まったく動じることなく、にこりと微笑みながら言った。

「私は、とある文学サークルを主宰(しゅさい)している。今夜十時、駅前の『アセファル』というバーで会員たちの集まりがあるのだが、私もそれに参加するつもりだ」

 それだけを言って、拝戸久三は去っていった。

 浅間は、これが、自分に対するラブコールであることを即座に悟った。

 夜勤のアルバイトを休む旨の電話を入れたのは、そのすぐ後だった。

 約束の夜十時。

 昼のうちにバーの場所を調べていた浅間は、特に迷うことなく目的地に着いた。

 駅から歩いて徒歩数分の路地裏。

 フランス語で『アセファル』と書かれた電飾看板が出ているそのバーは、個人経営の店らしく、こじんまりとしており、場末のスナックを思わせる佇まいだった。

 恐るおそるドアを開け、中に入ると、むせ返るようなタバコのニオイが鼻についた。

 シックなジャズの音楽が流れる薄暗い店内には、見分けられる範囲で数人の若者がいた。彼らは五つあるカウンター席に着き、酒の入ったグラスを傾けている。

 まだ未成年で真面目な学生だった浅間には、それはいささか刺激的な光景に映った。

「いらっしゃい」

 店の入り口で戸惑い気味に立ち尽くしていると、カウンターに立つ初老のマスターが言った。

「どうぞ、おかけになって」

 促されるまま中に進むと、客らしき若者たちがじろじろと不審げに浅間を見た。

 ぎらついた目つき。

 好奇心と敵対心とが混ざった複雑な視線を向けられながら、浅間は言った。

「拝戸久三さんはいらっしゃいますか」

 途端、店内の空気が変わったように、浅間は思った。

「なんだ、お前も会員か」

 渋い表情をしていた若者のひとりが、たちまち相好を崩した。

教授(せんせい)()()()()です」

 店の奥、照明の当たらない暗がりに向かってマスターが声を張った。

 すると、闇の中から小さな影が姿を現した。

「ようこそ」

 ――拝戸久三だった。

「ひと目見た時から、わかっていましたよ」

 浅間の前にのっそりと歩み寄った拝戸久三はうっすらと目を細め、微笑む。

「あなたが、私たちの同志であることは、ね」

 見透かしたように言われ、浅間はぎくりとした。

「我々はあなたを歓迎しますよ、医学部所属の()()()()くん」

 いつの間に、自分のことを調べ上げていたのか。

 浅間は、拝戸久三の持つ求心力というか、その物静かな風采から滲み出る老獪(ろうかい)さというものを垣間見た気がした。

 唖然とする浅間をよそに、拝戸久三は口角の右端を「くっ」と持ち上げる、独特の笑みを浮かべる。

「あなたは、私と同じですよ」

 拝戸久三がそう笑いかけた理由と意味を、この時の浅間は深く考えなかった。

「さあ、来なさい」

 分厚い皮膚をした手でぽんぽんと肩を叩かれると、そのまま、カウンター席に案内される。

 歓迎の意味を込めてだろうか、マスターから一杯のミルクを差し出された浅間は、自称文学サークルの会員たちと一緒に酒を酌み交わした。

 先にカウンター席で酒をあおっていた若者たちは、全員、浅間と同じ大学生だった。

 歳の近い彼らと話をするうち、浅間は、この集まりが単なる文学サークルなどではなく、それを装った『AZ』なる秘密結社だということを知った。

 なんでも、彼らは日本に革命を起こすつもりらしい。

「今の日本は、腐っている」

 露木と名乗った、特徴的な鉤鼻(かぎばな)を持つ赤ら顔の青年が、タバコの煙をふかしながら憎々しげに声を潜めた。

「安保条約が締結されれば、アメリカを始めとした列強の言いなりになるでしょうね」

 芥川と名乗った、仙人みたいな顔つきをした痩せぎすの青年が、同意を示すように頷いた。

「なによりも許せないのは、若者からカネや労働力をむしり取ろうとする卑劣な政治屋や、それと(ねんご)ろな官僚、そして、そこから天下った大学の理事どもだ」

 剣持と名乗った、屈強とした体格を持つ大柄の青年が、カウンターを強く叩いた。

 浅間は、彼らの考えに概ね同調した。

「いずれにせよ、欧米的な悪しき資本主義経済による日本の疑似的な植民地と、それに伴う日本国民の傀儡化および衆愚政治化、これだけは絶対に避けなければならないでしょう」

 どっしりと構える拝戸久三が、場を締めるように言った。

「あなたがたのような未来ある若者が、この日本の未来を、その在り方を変えるのです」

 この社会に対して鬱屈とした思いを抱えていた浅間が、その社会を疑問視し、そして変革をもたらそうとする彼らの存在にいたく感銘を受けたのは、半ば必然と言えた。


 ――革命の日々が、こうして、始まった。

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