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第九十四話 浅間有一の過去1

 ・一九八六年 七月二十九日 午後五時三十四分 認識力研究所一階パーソナルスペース資料室


「それにしても、春日井――」

 入り組んだ洞窟の内部のように薄暗い資料室の奥で、野武士のような威圧感を放つ浅間有一が、若い春日井に問う。

「さっきの言葉……、まるで、私の考えを知っているかのような口ぶりだな?」

 さっきの言葉とは、無論、拝戸親子の企みについて尋ねた時の返答だ。

「お前はさっきこう言った。『拝戸所長が何をしようとしているのか、それは、あなたが考えている通りだ』、と」

「ええ」

「そして、私は、こう考えていた。あの二人は、私と芥川の考案した『死者蘇生』計画になど目もくれていない。そればかりか、私たち二人を利用しようという魂胆すら感じさせる」

「……ええ」

 浅間が何を言わんとしているのか、持ち前の頭脳で察したのだろう。さーっと潮が引くようにして、春日井の表情から余裕の色が消える。

「そして、さっきのお前の言葉だ」

 ぎょろりと目を見開いた形相で睨み付けられ、春日井は、ぐっと息を飲んだ。

「春日井、お前は、拝戸所長らが何を目論んでいるのか、知っているということか?」

「……まさか」

 春日井は、浅間の冷淡な笑みに対抗する形でニヤリと笑う。

「僕はあなたではないですし、それはありえないでしょう」

 肩を竦める。

 ただし、口元に貼り付けた笑み同様、それは単なる強がりで、虚勢以外の何物でもない。

 そして、その場しのぎの浅薄な考えを見透かせない浅間ではなかった。

「ほう、言うな、春日井」

 浅間の顔から、すっ、と笑みが消える。

 代わって浮かび上がるのは、獲物を捉え、食らわんとする、恐ろしい捕食者の凶悪な顔つき。

「本当のところ、お前は、何か知っているんじゃないのか?」

 刹那、強い口調で激しく詰め寄る。

 浅間の変貌ぶりに面食らった春日井は、抵抗しようと身構えるより早く壁際に追い詰められた。

 爬虫類じみた浅間の恐ろしい形相が、ぐっ、と眼前に突き出される。

「お前、拝戸所長らと共謀して、私を嵌めようとしているのではないか?」

「何を馬鹿なことを……」

 春日井は口元を歪ませて失笑するが、浅間はまるで取り合わなかった。

「たとえば、例の並行世界生成計画とやらを他の人間の目に触れさせないために、私や芥川の計画を隠れ蓑として利用しているとか……」

「……まさか」

「誰かを騙すということは、それだけ後ろめたいことがあるという証左だ。違うか?」

「…………」

 春日井は何も言わない。

 ただ、黙って、血走った浅間の目を見据える。まるで、彼の暗い瞳の中に隠された真意を読み取ろうとしているかのように。

 そして、それは、浅間も同じだろう。

「お前、私に持ちかけた取引を忘れたとは言わせないぞ?」

 それを聞いて、春日井の眉根が小さく跳ねる。

 直後、彼の顔つきが変わった。この場を誤魔化すような愛想笑いから一転、ひどく真剣な表情に変わる。

 それは、動揺がもたらす倒錯した心境の変化ではなく、むしろ、覚悟を固めた人間特有の落ち着き払った感じに似ていた。

「あの時、お前は私にこう言った。『あなたには、今回の計画に関する真実を教える。その代わり、どうか被験者を助けてほしい』、と」

「……ええ、そうです」

 強い信念を感じさせる眼差しを一心に向けながら、春日井は力強く頷いた。

「拝戸所長や久三さんは、彼らを……被験者を殺すつもりでいる。少なくとも、まともな人間として扱おうとはしていない。僕は、それをどうしても見過ごすことができない」

 正義感に溢れる春日井は、自分こそが正しいのだと言わんばかりの実直な信念を抱いて浅間に訴えかける。

「被験者を管理する立場にあるあなたになら、彼らを救うことができる。僕はそれを期待して、拝戸所長らに口止めされた情報を流すような、スパイじみたことをしているのです」

「わかっている。だからこそ、私はお前に被験者の世話をする権限を与えてやったし、お前が勝手にリビングスペースの廊下に通じる各部屋のセキュリティドアを解除して、被験者同士を互いに引き合わせるという前代未聞の問題行動さえも黙認してやったのだ。それもこれも、互いに利害が一致し、共闘関係を結んでいるからに他ならならない」

 だが、と続ける。

「私は用心深い性格でね。心から信頼する人間相手でなければ、腹の内を見せたくはない。油断したら最後、寝首をかかれることだってあるだろう」

 まるで、実際にその現場を見てきたとでも言うように。

「私は、裏切り者が一番嫌いなのだ」

 鎌を振るう死神を思わせる骨ばった相貌が、春日井の視界一杯に広がる。

 春日井の背筋に、ひと筋の冷たいものが流れた。

 ――わずかでも怪しい動きを見せたら、始末される。

 そう思わせるような凄味が、浅間の恐ろしい形相から滲み出ていた。

「お前がそうではないと、私は信じているがね」

 嘘だった。

 この男は、他人を一切信じていない。

 彼の経歴を事前に、そしてくまなく調査していた春日井には、それがよくわかった。

 浅間有一の生家である浅間家は、自分が属する春日井家のいわば()()だ。

 日本のトップシェアを誇る都市銀を始め、国内の至るところに幅広く事業を展開する春日井の人間に、お家芸の建設事業を吸収された浅間の人間は逆らえない。

 浅間有一の本家筋に当たる浅間辰吉(あさまたつよし)が社長を務めていた浅間建設は、新国際空港開発計画に前後して倒産の危機に瀕している。浅間建設の親会社である神田製鉄が粉飾決算(ふんしょくけっさん)をしていたという事実が、国際空港反対勢力組織の回し者である破壊工作員『A』に暴かれ、当時のメインバンクだった明星家(みょうじょうけ)率いる明道銀行(めいどうぎんこう)が融資を止めたからだ。

 結果として、神田製鉄は倒産し、浅間建設もまた、浅間辰吉ら一家の無理心中という壮絶な最期によって、戦前から続いた会社の歴史に幕を引いた後、春日井に買収されている。

 たった一人だけ生き残った本家の人間――浅間咲江(あさまさきえ)、後に、古くから浅間家と親交のあった狭間家に貰われ、旧姓明星呂久郎、現狭間呂久と結婚した女性――を除いて、浅間家の隆盛を象徴する会社を筆頭に多くのものを失った浅間一族は路頭に迷い、当時十五歳だった浅間有一自身もまた、苦しい生活を余儀なくされた。

 持ち家は生活費の足しにするために売却され、家具のほとんどは質屋に入れられた。

 生まれ育った故郷を去った。

 慣れ親しんだ学校も転校した。

 友人たちとも疎遠になった。

 両親や親戚たちは、わずかに残った財産や利権を奪い合い、互いに蹴落とし合う。

 浅間を見る世間の目は冷たかった。

 浅間自身、嫌気が差していた。自分たちに対して不当な差別を行う人間もそうだが、それを見て見ぬふりをする人間や、口先だけで何も動こうとしない人間に対しても、嫌悪感を覚えていた。

 彼は孤立していた。

 社会から爪弾(つまはじ)きにされるという疎外感。それを嫌と言うほど味わっていた。

 全て、国が主導となって半ば強引に推し進められた新国際空港開発計画がきっかけだった。日本が、国民を守るべき立場にある国が、自分たちを追い詰めた。少なくとも、浅間はそう捉えていた。

 逆恨みだろう。

 本当の悪は、粉飾決算をしていた神田製鉄にある。

 わかっている。

 けれど、納得できない。

 自分たちの境遇を鑑みれば、そう簡単に割り切れるはずがなかった。

 行き場のない怒りを全身で煮えたぎらせながら、浅間は、社会に対して屈折した感情を抱き続けていた。

 彼の心を満たすのは憎悪だけだ。権力に対する、一種のルサンチマン。弱者を足で踏み付け、地面に転がる彼らから容赦なく養分を吸い取る現行社会に対する復讐心が、彼の胸の奥底に深く根付き、隅々に渡って浸食している。

 元々、春日井という、日本有数の権力者に多感な少年期を歪められた過去を持つ浅間だが、その反社会的な思想が完全に形成されるきっかけとなったのは学生時代で、皮肉にも、彼が医者を志してからのことだった。

 小さい頃から頭が良く、学力の高かった浅間は、教師の勧めや自分の希望も重なって国立大学医学部を受験し、合格。大学進学に伴い親元を離れ、都心に移り、学生寮で一人暮らしを始めた。

 決して、華々しい門出ではなかった。親の仕送りなどは到底見込めない経済状況に置かれていたこともあり、愛読していたショーペンハウアーの著書などのわずかな私物を除き、ほとんど着の身着のままで学生寮に引っ越した。

 駅まで見送りに来たのは、彼が世話になった教師、ひとりだけだった。

 こうして、華の東京に移り住むことになった浅間だが、気分は別に晴れやかというわけではなかった。これから自分が歩もうとしている道は決して平坦ではなく、むしろ非常に困難な道のりであることを知っていたからだ。

 予想通り、彼を待ち構えていたのは、爪に火を点すような、貧しい、質素な暮らしだった。金のない浅間は学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに明け暮れ、大学の抗議には時間の空いた時に出ざるを得なかった。

 一応、学生ローンなども組んだが、それはすぐに学費の支払いに消えていった。

 日々の暮らしは多忙を極めた。建築現場のバイトを切り上げたわずか数十分後に大学に向かい、試験に出席し、それが終われば夜勤のアルバイトに精を出す、なんてことも間々あった。

 そのため、浅間が満足に睡眠を取ることは、月に一度か二度程度あるかどうかという、育児を始めたばかりの母親もかくやの有様だった。

 浅間有一の生活様式――常に寝不足の状態で講義に出席し、それが終われば急いでバイト先のひとつである倉庫に向かい、夜勤の作業員として働く。

 疲労困憊の状態でバイトを終えたら始発の電車に乗り、寮に帰って仮眠を取った後、また眠気まなこをこすりながら大学の講義を聴講し、そして、夜勤のバイトに向かい、大学の講義がないときは建築現場のバイトで激しい肉体労働を行い、高額の学費と日々の生活費をまかなう……。

 息をつく間もないほどの、慌ただしい毎日。

 それでも、辛さを感じることはほとんどなかった。

 浅間には夢があった。自分が精神科医になって、多くの人々を救うという夢が。

 そのための努力は惜しまなかった。徹夜で分厚い医学書の内容を暗記し、寝る間も惜しんで勉学に励んだ。

 たまの休日も、大学に併設された図書館に一日中入り浸り、フロイトの書いた『精神分析入門』の古い訳書や、浅間の思想を決定付ける要因のひとつとなったベルクソンの『物質と記憶』、大学の単位に取るために必要な文献などを手当たり次第に漁り、これを読み耽った。

 友人と呼べる者もいなくはなかったが、その苦しい生活環境や少年時代の辛い記憶も相まって、あまり人付き合いの良くない合理的な現実主義者となっていた浅間は、ノートの貸し借りや代返といった利害が一致した時を除いて、ほとんど他人と話をすることも、ましてや顔を合わせることさえなかった。

 この頃の浅間には、プライベートな時間などほとんどなかった。ただでさえ、ダブルワークのアルバイトで自分の時間を取られているのだ。本を読み、勉強をする一分一秒が惜しい。他の気楽な大学生のように遊んでいる暇など、あるはずがない。

 自らが志した夢と目標に向かって、若き浅間は、その学問の履修に全身全霊を賭して打ち込んだ。

 悩みや迷いなど、あるはずもなかった。


 この時は、まだ。

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