第九十二話 離魂病
・一九八六年 七月二十九日 午後四時五十五分 認識力研究所一階パーソナルスペース医務室
「……どこまで、話しましたっけ」
異様なまでの緊張に満たされた医務室の中。
冷や汗で背筋をじっとりと濡らしたぼくは、簡素なパイプ椅子の上で短く震えながら、不意に手放してしまった記憶の糸を、どうにか必死に手繰り寄せる。
すると、ステンレス製の机を挟んだ向かい側でぼくを観察する浅間は、嘲笑とも取れる小さな苦笑を漏らした。
「きみが見たという『夢』の話だよ」
「……そうでしたね」
頷いて、しばし、考え込む。
(ぼくは、どう答えるべきか……)
No.3が、どこまで浅間先生に『夢』の情報を流したのかは知らない。
けれど、あまり迂闊なことは言えないな、と思った。
とはいえ、下手に誤魔化すのも得策じゃない。そればかりか藪蛇だろう。他人の機微に目敏い浅間先生のことだ、ちょっとでも嘘を言えば、あることないこと根掘り葉掘り聞かれ、ふとした拍子に生じた矛盾を突かれかねない。
そうなると面倒だ。
彼に、噓は通用しない。
そう感じた。
(なら、ぼくが取るべき行動は……)
緊張に頬を強張らせながら、ぼくは答える。
「No.3から、ぼくがどんな『夢』を見たのか聞いたんですよね?」
「うん。なんでも、きみは記憶喪失のはずなのに、ここで働く一部の職員の名前をどういうわけか知っていて、しかもそれは、きみが見たという『夢』の中から得た情報がもとになっていると、私は、彼女からそう聞いた」
「……確かに、そうですね」
医者としての性質がそうさせるのか、いやに冗長な説明じみた返事を返す浅間先生に対し、ぼくは特に反論することもせず、素直に同意を示す。
ぼくの取るべき行動。
それは、『成り行きに身を任せること』だ。
策を弄するべく無駄に頭を使うより、ひとつひとつの受け答えを慎重に吟味しながら、その場を潜り抜ける。
要するに正攻法。
「それにしても、驚きだよ」
彼は彼で、あくまでも本心を隠し通すつもりか、やけに誇張した口調で言った。
「なぜ、記憶喪失のきみが、『夢』という形を取って、研究所の職員のことを思い出したのか? 私は、そこに引っ掛かりというか、些細な疑問を覚えてね」
「……春日井大和さんと、拝戸幸伸さんのことですね?」
質問ではなく、確認を取る。
「うん、その通り」
話が早いとばかりに、浅間先生が頷いた。
「きみが言うように、春日井大和という人物は、この研究所に在籍している。正式な職員ではないが、今から十日ほど前から客員教授として共同研究に参加していてね。拝戸幸伸所長に関しては言わずもがな、その肩書が示す通り、ここの最高責任者だ」
「…………」
「ただ、それ以上に妙なのは……」
机に半身を乗り出さんばかりに顔を突き出す。
眼前に迫る、骸骨じみた不気味な形相。
「No.3の報告によれば、その二人が行った実験、『脳波測定実験』のことや、さらに私設研究室の所在まで、きみは知っているとのことだった」
細めていた両目が、カッと見開かれる。
「普通なら、そんなこと、ありえない」
厳しい口調で断言した。
「……浅間先生、そのことなんですが……」
ぼくは、少し悩んだ後、No.3の口から、『私設研究室という場所には聞き覚えがない』と聞いたことを伝えた。
椅子の背にもたれた浅間先生は、深く考え込むように腕組みした後、ややして口を開いた。
「こうなったら白状するが、この認識力研究所の二階には、拝戸幸伸所長専用の研究室が存在していてね」
重々しく告げた。
「……それが、例の私設研究室ってやつですね?」
「うん、そうなんだけど」
困ったように眉根を寄せる。
「ただ、私設研究室の存在を知っているのは、私を始めとした一部の職員だけでね」
「へえ……」
ぼくは、浅間先生の首に下がる青色のカードを見た。
職員レベル4。拝戸幸伸のブラックカードを除けば、最高レベルの権限を持つ。
(これと、もうひとつ、パスワードさえあれば、研究所の中をほぼ自由に出歩くことができる……)
ギュッと気を引き締め、より一層の注意を浅間先生に向ける。
「重ねて言うが、私設研究室の存在は門外不出のトップシークレットでね。被験者はおろか、一般職員にも伝えていないような部屋だ。当然、No.3が知る由はない」
浅間先生が、また、下顎を突き出し、グッと顔を寄せた。
「それなのに、彼女は私にこう言った。『No.5が私設研究室なる場所について言及していましたが、本当にそんな部屋があるのですか』、とね」
鼻先にまで迫った浅間先生特有の爬虫類のような細い目が、怪しく鋭い光を帯び始める。
「不思議だよね、きみは、実験の後遺症で記憶喪失になっているのに、春日井、拝戸氏の両者の名をはっきりと覚えていて、彼らがきみに行った実験、『脳波測定実験』という正式名称さえ把握し、その上さらに、No.3や一般職員では知らないような私設研究室ことまで知っているのだから」
内容の確認というよりは、言葉の裏でぼくをなじっているような刺々しい意地悪さがあった。
ごくりと喉が鳴る。
思わせぶりな含み笑いを口元に貼り付けた浅間先生は、ぼくの顔を覗き込むために曲げていた背筋を正すと、その冷たい光の宿った目でぼくを見下ろす。
「でも、きみには、自分の記憶が戻ったという自覚はないわけだ」
「……そう、ですね」
「うーん、不思議だ、じつに不思議だ」
これ見よがしに首をひねり、事務椅子の背にもたれかかる。
眉根を寄せた、困惑の表情。
ぼくには、それさえも演技に見えた。
ロッキングチェアを漕ぐような塩梅で、浅間先生は振り子運動よろしく上下にゆらゆらと揺れる。
椅子から響く、キイキイと乾いた音。
ぼくの心を揺さぶっているのが視覚化されたようで、とても、居たたまれなかった。
やがて、浅間先生が、椅子を軸に揺らしていた身体をピタリと止めると、ぼくの方を静かに見据え、とても奇妙なことを言った。
「きみは、“離魂病”、というものを知っているかい?」
「リコン病?」
耳慣れない言葉に、思わず聞き返す。
彼の目は、真っ直ぐにぼくを向いている。
「そ。『リコン』と言っても、夫婦が離ればなれになることじゃないよ?」
「ええ、それはわかります」
いらない注釈だった。
「早い話が、ドッペルゲンガーみたいなものだ。自分と酷似した人間が、自分と別の行動を取りながら存在している。場合によっては生霊ともみなされるが、要は、もうひとりの自分自身ということだね」
「……もうひとりの自分……」
彼のこの言葉に、ぼくは引っかかるものを覚えた。
……ぼくの肉体を見下ろす、もうひとりのぼく自身。
その現象を、ぼくは『幽体離脱』と捉えていた。
(でも、じつは、そうじゃなくて……)
浅間先生が言うような離魂病……、つまり、ぼくと酷似した、もうひとりのぼくが存在して、そいつが研究所の中を自由に徘徊していた……?
(まさか……)
ちょっと考えて、否定する。
それは、おかしい。
だって、ぼくを見下ろすもうひとりのぼくは、ぼくの意識、記憶を持っていた。
決して、ぼくとは異なる他人ではない。
「でも、どうしていきなりそんな話をぼくに?」
「私の愛読書のひとつに、『ドグラ・マグラ』という小説があってね」
「……はい?」
思わず、間抜けな声を出す。
「その小説の主人公の青年……、彼もまた、きみのように過去の記憶を失っている」
話が、見えてこない。
「そして、その青年は、劇中で離魂病を患っているとされた。つまり、自分のそっくりさんである“呉一郎”という青年を、目の当たりにするわけだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
居てもたってもいられず、話に割って入った。
「そのことが、一体、ぼくとどんな関係があるというんですか?」
ひどく、動揺していた。
流れ出る冷や汗が背筋をじっとりと湿らせ、不快感を底上げする
「なに、単なる憶測だよ」
妙に落ち着いた目をした浅間先生は、やけに涼しい顔で答えた。
「きみが『夢』とやらで見知った春日井、拝戸所長の両者に、彼らが行った脳波測定実験の事実と、そして、私設研究室の存在。前者はともかく、後者に至ってはまるで不可解。それこそ、常識では考えられない奇妙な一致だ。どうして、一部の人間しか知りえないこの情報を、単なる被験者しかない、しかも記憶喪失であるきみが、知ることができたのか?」
「……それって、ぼくが離魂病だから、ですか?」
ドッペルゲンガーとして存在するもうひとりのぼくが、私設研究室をひそかに訪れ、彼らの話を盗み聞きした。
(……ありえない)
ありえるはずがない。
そんなの、あまりにも非現実的だ。
(しかし、非現実的なのは、幽体離脱も同じ……)
仮説の胡散臭さで言えば、どっちも似たり寄ったりだ。
(何が、真実なんだ?)
謎は、ますます深まるばかり。
「もっとも――」
浅間先生が、咳払いと共に言った。
分離しかけたぼくの意識は、彼の方に向かう。
「『ドグラ・マグラ』の主人公である青年は、自分と生き写しの呉一郎と対面するが、しかしそれは、現実として存在する呉一郎ではなく、夢として現れる呉一郎……つまり、一種の精神的混乱が生み出す『幻覚』だった」
「え……?」
「彼は鏡と相対するように、鏡像体としての自分を見ていたに過ぎない。彼が目にしている呉一郎なる人物は存在せず、じつは自分こそが呉一郎だった」
「…………」
謎かけのような浅間先生の話に、ようやく合点がいった。
なるほど、そういうことか。
「浅間先生は、ぼくが幻覚を見ていたというんですか?」
「今もきみは、夢と現実を混同している節があると見受けられるけどね」
冷静に告げられ、押し黙る。
(幻覚……、か)
確かに、そうだ。
ぼくは、ひとり、納得していた。
(幽体離脱も、離魂病も、結局は脳が生み出した幻……錯覚に過ぎない)
とはいえ、脳というものは、自分が知覚できる物事しか反映しない。寝ている間に見る夢もまた、荒唐無稽なまったくのでたらめというわけではなく、過去の記憶同士が複合されて現勢したものなのだ。
とすれば、ぼくの記憶は完全に失われたわけじゃなく、むしろ深いところに隠されていて、それがたまたま意識の表層に昇っただけと、そうも考えられる。
(ぼくは、過去に、あの二人のやり取りを……、春日井さんと拝戸所長の話を耳にしていた……?)
そして、それを、『夢』という形で見た……。
(……わからない)
肝心の記憶は、一向に戻る気配がない。
思い出さなければいけない、と思った。
「さて、話は以上だ」
おもむろに椅子を引き、すっくと立ち上がる。
ぼくもまた、弾かれたようにして顔を上げた。
「……随分と、略式的な診察ですね?」
謎かけめいた抽象的なことを言うだけ言って切り上げようとする浅間先生を、ぼくは挑戦的に睨み付けた。
終始、飄々とした風采を崩さぬ浅間先生は、ぼくの非難にも耳を貸さず、肩をすくめる。
「私としても不本意なのだが、今日は時間が押していてね」
どこか含みを感じる嫌味な言い方が、とても不快だった。
「治療を待っている患者はきみだけじゃない、ということだよ」
エサをねだる野良犬でもあしらうように、低い声で言った。
「それに、きみの病状はあまり類例がない特殊なものだ。まだまだ慎重な経過観察が必要だろう。はっきりとした診断結果を出すには情報が少なすぎる」
そう言われては、もう、何も返す言葉がなかった。
席に座るぼくを無視するようにして横を素通りし、セキュリティドアの前まで来た浅間先生は、カードキーを取り出し、手慣れた動作で素早くロックを解除する。
……体を影にしているせいで、パスワードの入力が視認できなかった。
用心深く、抜け目がない。
「では、お引き取り願おう」
振り返りもせず、つっけんどんに言った。
不服ながらも彼の指示に従い、ぼくは席を立つ。
背中に、彼の視線を感じた。
「ああ、そういえば」
ドアノブに手を伸ばそうとしたところで、浅間先生が思い出したように声を上げた。
何かと思い、動きを止める。
「きみは、自分がNo.5だということを自覚しているね?」
奇妙な質問。
一瞬、何を意図したものなのか、判断に苦しんだ。
「……ええ」
不審に思いながら、ぼくは振り向き、同意する。
「ぼくは、No.5ですよ」
そう答えるしかない。
「なら、いい」
白い歯を覗かせ、笑う。
その笑顔は、やはり空虚で、寒々しい。
(……なんなんだ?)
困惑するも、一刻も早く彼のもとから立ち去りたいという欲求が勝った。
ぼくは再び前を向き、ドアノブに手を伸ばす。
「では、最後に、ひとつだけ」
引き止めるようにして彼は言った。
ドアノブに手を回したまま、動きを止める。
(今度はなんだ――)
「――逃 げ ら れ る と 思 う な よ?」
「……え?」
頬に、生温かい風を感じた。
驚いて振り向くと、浅間先生の骸骨じみた青白い顔が、目の前に迫っていた。
ぎょろりとひん剥かれた両目。
有無を言わせぬ迫力に、ぼくは背筋を凍らせた。
『逃げられると思うなよ』
彼がそう言ったと脳の中で処理されるのに、たっぷりと時間がかかった。
それが、単に牽制の意味合いなのか、ぼくの思惑を完全に看破した上で吐かれた言葉なのかは、わからない。
けれど、おぞましいほどの悪意に満ちた言葉に秘められた威力というのは、ぼくの動きを封じ、その思考を停止させるのに、あまりにも効果的だった。
「他の人間はどうか知らんが、私の目は誤魔化せないぞ……」
笑顔だった。
「実験動物風情が考えることなど、たかが知れている」
地獄の底から響くような、恐ろしい声色。
全身を貫く恐怖によって釘付けにされたみたいに、体が一切動かない。
「図星か? 図星だろうな、図星じゃないわけがない」
ぼくのことなど、全て、お見通しだと言わんばかりに。
「せいぜい、出来の悪い不良品として廃棄されないよう、誠心誠意、努めることだな」
不敵に、口元の笑みを深めた。
目は、まったく笑っていない。
それがなおさら、恐ろしかった。
「わかったのなら、速やかに自室へと戻るがいい」
何も、言い返せない。
心音がバクバクと鳴り響く。
生きた心地が、しなかった。
「……失礼します」
ひとつ断って、ドアノブに手を掛ける。
手の震えを抑えるのに、苦労した。
「――やはり、似ているな」
ドアが閉まる直前で、浅間有一が感慨深げにつぶやいた。
棒のようになった足をどうにか動かし、通路に出る。
No.3が、廊下の脇で、置物のように立ち尽くしていた。
「おかえりなさい」
ぼくに気付いたNo.3が振り返り、無機質な表情で声をかける。
「……ああ」
そう返すので、精一杯だった。
「戻りましょう」
「……ああ」
また、生返事。
主人にリードを引かれる犬のような気持ちで、すたすたと歩き始めたNo.3の背中を追う。
すると、ぼくと入れ替わるような形で、二人の職員に両脇から抱えられた白衣の男性が医務室に連れられる様子が見えた。
……ここの職員だろうか?
男性は、何か、うめき声をあげている。
それは、医務室からこの廊下にまで届くほどだった。
「これ以上は限界だ!」「私は、この実験からおりる!」などといった悲鳴まじりの怒号が、静寂の廊下に響き渡る。
「花房さん、落ち着いてください!」という、男性を連れていたであろう職員の悲痛な叫びが、嫌な感じで耳に残った。
「どうしたの?」
放心状態で立ち尽くしていると、何事もなかったかのようにぼくを見つめるNo.3が、ぐいっと服の裾を引っ張った。
「……なんでもない」
そう答えて、リビングスペースまで戻る。
冷房で涼しいはずなのに、嫌な汗が止まらなかった。
……気分は、最悪だった。
自室に帰ってきたぼくは、体力を根こそぎ奪う不快な蒸し暑さを感じる暇もなく、ベッドに倒れた。
急速な浮遊感。
気付けば、ぼくは、ぼくを見下ろしていた。
――また、あの感覚が訪れた。浅間有一が離魂病と名付け、ぼくが幽体離脱と呼ぶ、あの現象が。