第九十一話 策謀と錯綜
・一九八六年 七月二十九日 午後四時五十分 認識力研究所一階パーソナルスペース医務室
「こんにちは、気分はどうかな?」
No.3に連れられ、パーソナルスペースにある医務室へと通されたぼくは、頬肉をナイフでそぎ落としたような顔立ちの浅間有一先生と一対一で向かい合っていた。
お互い椅子に座り、書類が置かれたステンレス製の長机越しに向かい合っている。
このパーソナルスペースや二階のラボには空調が効いているのだろう、熱のこもったリビングスペースと違ってフロア全体が涼しい。
それだけで、天国のように感じられた。
「きみの世話係であるNo.3から報告を受けてね、ちょっと気になる点があったものだから」
骨ばった顔に人懐そうな作り笑いを貼り付けた浅間先生は、しげしげとぼくの顔を覗き込みながら尋ねる。
どうやら、No.3が浅間先生に告げ口をしたようだ。
(余計なことを……)
No.3が、ぼくを始めとした被験者たちのお目付け役というのは、やはり、事実のようだ。
少しでも被験者が怪しい動きや気配を見せたら、すぐに、彼女を通じて職員たちに一報が向かう。
そうと知っていながら、少し、不用意に自分のことを話し過ぎた。
(……もっと、警戒すべきだったか)
心を許せる人間は、どこにもいない。
信じられるものなんて、何ひとつとしてない。
(だから、ぼくは、ぼくのやり方で、生き残ってみせる……)
笑顔の裏から覗く浅間先生の鋭い視線に晒されつつも、それとなく周囲を探る。
この部屋には、看守のような見張り役はいない。
No.3もまた、廊下で待機している。
浅間先生いわく、重要な話だから、部外者は邪魔だとのことだ。
ぼくが過ごす五号室よりもさらに狭い室内は、厳重なロックのかかったセキュリティドアによって完全に封鎖されている。
「あれから、体調はどうかな? いきなり記憶が戻るなんてことは、ない?」
「いえ……特には」
粘着質で執拗な彼の視線から逃れるようにして顔を俯かせ、首を横に振る。
「うーん、そうか」
聞こえるのは、わざとらしいため息。
「どうやら、快復にはまだ時間がかかるみたいだね」
苦笑まじりの言葉とは裏腹に、なぜだか、まったく残念そうに感じられない。
ぼくの心根がひねくれているからか、それとも……。
(浅間有一……、ぼくたち被験者を実験動物同然に扱う人間の一味……)
喉の奥がキュッと締まるような緊張感。
相手の出方を窺うように、用心深く身構える。
彼の表情は、依然、虫を殺さぬような笑顔を保ってはいるものの、それは自分の本性を糊塗するために装着する一種の仮面であり、要するに、使い勝手のいい方便に過ぎない。
それはつまり、裏を返せば、彼の意識の深層には、決して人目に触れてはならない秘密が隠されていることの証左でもある。
(ぼくを懐柔しようとしても、そうはいかない)
医者だろうが何だろうが、この研究所に勤めている限り、無条件に信じられるわけがなかった。
(それより、どうやって、この研究所から脱出するか……)
連中の施す診察や治療など、百害あって一利なし、ぼくにとってマイナスの意味しか持たない。
ハッキリ言って、茶番だ。
こんなことに、必要以上の時間と意識を割いている場合じゃなかった。
ぼくは、顔を俯かせ、さも体調が悪いふりをしながら、別の物事に思いを巡らせる。
(……ぼくのいるリビングスペースからここまでの経路は、大体、把握した)
No.3に連れられて医務室まで来る道中、ぼくは、くまなく視線を辺りに巡らせ、研究所の構造を頭に叩き込んだ。
元々、No.3に研究所の中を案内されたこともあり、ぼくの脳内には、ちょっとした地図のようなものが完成していた。
この研究所は、外側から見ると、まるで氷砂糖のような正方形をした、シンプルな形状をしている。
中も、当然、素直な造りで、リビングスペースからここまで、ほぼ一本道だ。
一階と二階含めて、道中には、様々な部屋に続くセキュリティドアが壁に沿う形で連なっている。
ずっと道なりに進んでいけば、いずれ、研究所の出入り口に辿り着くはず。
もちろん、視界を遮る余計な遮蔽物がない分、それだけ職員の目につく可能性が高いということでもある。
ただ、二階が主に実験や研究を行うための設備が整われたラボということもあり、研究所の職員は、出勤や退勤、そして、昼休みなどの休憩時間を除けば、基本的に二階のフロアに常駐している。
一階にいるのは、事務員や警備員、それに、医務室を任されている浅間先生ぐらいの人間に限られた。
目立つ動きさえしなければ、ぼくの行動が露見する可能性は少ない。
問題があるとすれば、やはり、フロア間の境目に設置されたセキュリティドアだけ。
それさえ突破できれば、脱出はいよいよ現実的なものとなる。
(どんな魂胆で、ぼくに研究所の内部をNo.3に案内させたのかは知らないが……)
やつらは、墓穴を掘った。
いつまでも、こんな牢獄じみた場所にいるわけがない。
(絶対に、脱出してやる)
腹の底に秘めた下剋上の思惑を隠すようにして憂鬱な表情を作ったぼくは、ゆっくりと顔を上げた。
「あの、浅間先生……」
「なにかな?」
にこりとした笑みを浮かべる彼に対し、ぼくは警戒心をあらわにする。
「前置きは、もう、充分です。さっさと要点を述べてください」
睨み付けるようにして言った。
浅間先生の作り笑いに、一瞬、亀裂が走る。
「こうしてぼくを呼びつけたのは、単に健康状態を確認するだけが理由じゃないんでしょう?」
うんざりだった。
相手のペースに乗せられるのは、もう、たくさんだった。
「ほう……」
子供にこんなことを言われるとは思いもしなかったのだろう、浅間先生は意表を突かれたように眉を上げると、感心したように嘆息を漏らす。
優しい大人を装った作り笑いは、すでに崩壊していた。
「なるほど、きみはまだ幼いのに随分と頭が切れるようだね。それに、度胸もある。報告書にあがっている通りだ」
言いながら、口元の笑みを深める。
心底、愉快そうに。
そして何より、恐ろしげに。
彼の顔に浮かぶのは、もはや作り笑いじゃない。
それよりもっと単純で、しかし、奥深い複雑さを兼ね備えた、毒々しい笑みだった。
「きみを呼んだ理由は他でもない」
声に、軽薄な響きが消えた。
細められた両目には刃物のように底冷えする暗い光が宿り、ぼくの四肢を釘付けにするようだ。
背筋が震え、全身に緊張が走った。
「先にも言ったように、No.3の口から非常に興味深い話を聞いたものだからね」
患者の機嫌を取るための甘い口調から一転、責めるような強いものに変わる。
胸に抱いた警戒心は、いよいよ最高潮に達した。
「なんでも、妙な夢を見たとか?」
氷のように冷たい表情で尋ねられ、ぼくは激しく後悔した。彼女に、No.3に、あの夢の内容を話したことを。
――幽体離脱。
意識が肉体を飛び出し、この研究所の中をふらふらとさまよう。
最終的に行き着いた場所は、研究所二階に隠された私設研究室。おそらくは、職員の中でも一部の人間しか知らない、秘密の部屋。
もっとも、これがただの夢である可能性は、未だに捨て切れていないんだけども。
「ええ、そうですね……」
意図的に言葉尻を濁しつつ、ぼくは横目で浅間先生の顔色を窺う。
爬虫類のような眼差し。
浅間先生は、相変わらず、ぼくの目をジッと見据えている。顔を肩の位置より前に出し、机から身を乗り出すようにして、笑顔という仮面の下から、ぼくの心の奥底を覗き込まんと、石像のように微動だにせず、凝視する。
肌を突き刺し、内臓を貫く、ナイフみたいに鋭利な視線。
なぜだろう。
見た目には柔らかな彼の浮かべた微笑が、氷を思わせる冷たい目つきと相まって、とても不気味に感じられる。
ぼくは、この人が……浅間先生が苦手だった。
どうしてなのかは、よくわからない。
彼と話すのは二回目だ。
最初に顔を合わせた時は、ぼくも記憶喪失のために混乱しており、彼に対してそこまでの拒否感は覚えていなかったように思う。
それにもかかわらず、今のぼくは彼を前にすると、形容しがたい緊張に襲われ、底知れない恐怖に飲み込まれてしまいそうになる。
(ぼくの失われた記憶が、何か関係しているのだろうか……?)
いずれにせよ、彼と同じ空間に長居したくない。
それが、率直な感想だった。
だからこそ、さっき、ぼくは、目上の人間である浅間先生に対して、生意気にも、「要件だけを言え」と啖呵を切ったのだ。
(早く、この場から離れたい……)
その一心だった。
そして、ぼくが弱気になった、まさにその瞬間を見逃さないように――。
彼の黒い目の奥が、きらりと鈍く光る。
それは、野心の光だ。
口元には、残忍な笑み。
ゾッとした。
言いようのない無言の圧力を肩からつま先にかけて強く感じて、ぼくは身じろぎひとつできなかった。
息苦しいほどの静寂。
壁にかかった時計の針が、チクタクと音を刻む。
まるで、沈黙に陥るぼくを急かすように、休むことなく秒針を刻み続ける。
「No.5」
冷たい声で、浅間先生が、その番号を呼んだ。
「どうしたのかな?」
遠くに感じられた彼の声が、徐々に近くなる。
「このまま、ずっと、だんまりかい?」
殊勝な善良さを装った酷薄な冷笑に、今までで一番の寒気を覚えた。
一方で、椅子の背もたれに接した背筋からは大量の汗が滲む。
言うまでもなく、冷や汗だった。