第九十話 決意
・一九八六年 七月二十九日 午後四時三十五分 認識力研究所一階リビングスペース第五号室
どれくらいの時間、便器の前で居尽くしてしていたのか。
静かだった。
とても、静かだった。
まるで、水を打ったようにして。
時が止まっている錯覚さえ覚えるほどに、周囲は静寂に満ちていた。
正常な思考を遮る蒸し暑ささえ、もはや、気にならない。
頭の中は、異様に冴え渡っていた。
水分が全身に回って来たからだろうか?
あるいは、吹っ切れたのかもしれない。
恐ろしいくらいに冷静な頭で、ふと、そんなことを考える。
ぼくは、今、生きている。
生きているのだ。
なら、どんなことをしてでも、生き残らなければならなかった。
たとえ、生き恥を晒すことになろうが、それで他人に唾を吐きかけられようが、そんなことはどうでもいい。
たかだか他人の存在程度が、ぼくを死に至らしめることはできない。
人が死ぬのは、いつだって、自分自身が弱いせいだ。
なら、他人より強くなれば、ぼくがそのせいで死ぬことはありえない。
「ぼくは、死なない……」
強く、自分に言い聞かせる。
「ぼくは、死なないぞ……」
深く、深く、胸の奥底に刻み込むように。
「こんなところで、死んでたまるか……」
便器の表面に映り込む自分の姿に、誓いを立てる。
死んだら、それでおしまいだ。
ぼくをこんな目に遭わせた研究所の連中にひと泡吹かせることも、奴らの手によって実験台にされた挙句、無残に殺された被験者たちの思いを継ぐことだって、できやしない。
(それに、それに……)
ぼくの失った記憶さえ、もう二度と、取り戻せない……。
(そんなのは、ごめんだ……)
自分が誰かもわからないまま、こんな牢獄みたいな場所で野垂れ死ぬなんて。
そんなの、最悪だ。
最悪を通り越して、地獄だ。
生きていても地獄で、死んでも地獄。
だったら、せめて、生きてやる。
生きて、この地獄から生還してやる。
(そうしなければ、ぼくがこうして生き残った理由も、意味も、何も、ないだろう……)
虚しさだけが残った瓦礫の山から、黒い何かが顔を覗かせる。
それは、憎悪だ。
憎しみが、ぼくを突き動かす。死に瀕したぼくを、生に駆り立てる。
「絶対に、ここから……、抜け出してやる……」
汗の酸っぱいニオイが染みついた服の裾で涙を拭き、ぼくは毒々しげにつぶやいた。
全身を支配していた虚しさは、もう、消えた。
悲しみよりも、怒りがあった。
ぼくをこんな境遇に追いやった人間が、憎い。
今すぐにでも、くびり殺してやりたい。
(いや、違うな)
殺さなければいけない。
(もし、やつらが、本気でぼくを始末しようと動いたら……)
その時は……。
「考えろ」
考えるんだ。
どうすれば、ここから脱出できるのか。
今のぼくにできる最大最善のことを、考えるんだ。
それが、抵抗になる。
連中を出し抜く、唯一の契機となる。
「さあ、考えろ」
幽鬼のようにゆらりと立ち上がり、便器から離れる。
机に向かう、再び、席に着くと、ぼくは、あらためて、日記の内容を思い返した。
日記を読んで、わかったことがいくつかある。
(少し、内容を整理するか……)
椅子に深く腰かけたぼくは、ゆっくりと精神を落ち着かせながら、長い思索にふけった。
まず、初めに。
ぼくには、両親がいない。
それが原因がどうかはわからないけど、とにかく、親を亡くしたぼくは、今から約一週間前の七月二十一日に、この認識力研究所に連れて来られた。
ぼくの他にも、男の子が一人、女の子が二人、そして、足の不自由だというおじいさんが一人。ぼくを含めた計五人が、何らかの理由で、認識力研究所に連行された。
地獄の軟禁生活の始まりだ。
施設に案内されたぼくたちには、『1』から『5』までの番号が割り振られた。これが、ぼくたち本来の名前に代わって個々を区別する識別子となり、同時に、ぼくたちを動物以下の被験者とみなす共通記号となった。
ぼくには、No.5という番号が与えられた。
他の被験者は、それぞれ、No.1が足の不自由なおじいさん、No.2はウサギのぬいぐるみがお気に入りの女の子、No.3は人形じみた女の子、No.4が落ち着いた風貌の男の子、となる。
これは、前にNo.3が話したことと一致する。廊下に放置された車椅子は、No.1であるおじいさんが使用していたものに違いないからだ。
意外なのは、あのNo.3がウサギのぬいぐるみを持っていて、そのぬいぐるみをNo.2にプレゼントした、ということだ。
何と言うか……イメージに合わない。
No.3のような、生気に乏しく、また非常に大人びた女の子が、ぬいぐるみなどという、妙に子供っぽい物を所持し、しかも、それを自分よりも小さな女の子にあげるという利他的な行為が、ぼくの記憶にある彼女のイメージとは、どうしても結びつかないのだ。
日記にも、No.3は、自分を前面に出しつつ、それでいて周囲に気配りのできる、はきはきとした性格の、とても気の利いた女の子だと書いてあった。
しかし、現実のNo.3は、自己の考えというものを持たず、目上の人間がくだす指示を盲目的に実行するような、ロボットみたいな子だ。
現実と過去の乖離――齟齬。
ぼくの知っているNo.3と、日記の中のNo.3は、その性格が対照的だ。かたや自己を喪失し、かたや自己を表現する。
受動的か能動的か。
この違い。
(とすると、No.3は、研究所の徹底した管理体制と、この抑圧された生活に疲弊し、精神を壊してしまったのだろうか?)
自分と同じように連れて来られた人間が、戦時下の強制収容所めいた劣悪な環境と非人道的な実験によって次々と衰弱し、そして、死んでいく。
それで正気を保てという方が無理な話だ。
(だから、彼女は、全てを諦めてしまった……)
彼女の、死んだように冷たい瞳と、仮面のように作られた表情を思い出す。
どうあがいても死から逃れられないというのであれば、いっそのこと、辛いことは何も考えず、過酷な現実からは目を逸らしていた方がいい。周囲との接点を極限まで断ち切り、自己を滅却させ、ただただ、与えられた命令を実行するだけの人形のように生きる。そうすることで、自らに降りかかる苦痛を分離させ、心を守る。本来の自分自身である素直で優しい純真な心を、防御するのだ。
脳の防衛機制に基づくような刹那的な考え方は、やはり、ここでの地獄めいた日々に端を発するのだろう。
だから、彼女は、どこか足に地が付いていない、空に浮かぶ雲みたいにふわふわと浮世離れした、言うなれば『半人』のような印象を漂わせていたわけだ。
彼女は、自分の現実を生きていない。
それもこれも、連中の狂った人体実験のせいだ。
(彼女もまた、被害者か)
ぼくは、神秘的な雰囲気を身にまとった彼女の姿を思い浮かべた。
想像の中の彼女は、月明かりのような薄ぼんやりとした光を放っている。
蜃気楼と同じで、その身に触れようと近付いたら、すぐに、消えてしまう。
初めて、No.3に同情的な感情が湧いた。
同類相哀れむ、というやつだろうか。
(だからといって、ぼくをきみと同じ道に引き込もうとするのはお門違いだよ、No.3……)
後ろ髪を引くようにして残留した彼女の淡い面影を振り払う。
ぼくは、ぼくの道を行く。きみの見ている場所と、ぼくの目座すべき地点は、まったく異なっている。
そうでないといけない。
「ぼくは、ぼくの道を貫く」
決意を胸に、天井を見上げる。
空は見えない。
四方は分厚い白壁に覆われ、息苦しい閉塞感に満ちている。
赤く輝く太陽の代わりに、ほの白い光を放つ白熱灯が、ひとつ。
涙に濡れた頬は、すでに乾いていた。
「次だ」
スイッチを入れるようにして頭を切り替える。
No.3のこと以外にも、意外な発見があった。
約一週間前、車で研究所に連行されたぼくたちの前に現れた、三人の人物。
浅間有一と、乱暴な職員、そして、もうひとり……。
(春日井大和……)
あの『夢』に出てきた研究員。この研究所の所長である拝戸幸伸と、ぼくたち被験者に対する処遇について討論を交わした、熱意に溢れる、日記いわく『優しいお兄さん』。
彼は、ぼくたち被験者に対して同情的だった。日記では、乱暴な職員に平手打ちされて床に倒れたぼくに手を差し伸べてくれた。
他にも、職員に殴打されたぼくの様子を目にして泣き出したNo.2を慰めようと、自分が持っていたウサギのぬいぐるみを渡したNo.3に、またしても職員が怒鳴ろうとしたところ、それを制止するなど、なかなかに懐の深い、器量の大きな人物像であることが窺える。
次いで、二日目の朝、日記によれば、このリビングスペースのセキュリティが何者かによって解除されているという不可解な事件が起きていた。
これもまた、春日井さんの仕業なのではないかと予想される。
被験者が閉じ込められているのを不憫に思った春日井さんは、その職員特権を使い、ぼくたちを外に出そうとドアを開け放した。
これが、彼の独断による行いなのか、第三者の指示によるものなのかどうかはわからない。
いずれにせよ、彼がセキュリティロックを外し、ドアを開けたという点では変わりない。
事実、足の不自由なNo.1の介助をするために、春日井さんはこのリビングスペースを訪れる機会があった。少なくとも、一日三食の食事を運び、食器を片付ける、点呼係の職員よりは。
内線でNo.1に呼び出された春日井さんは、被験者の置かれた悲惨な実情にいよいよ我慢ができなくなり、同情心に駆られて全てのセキュリティドアのロックを解除した。
そう考えるのが妥当だろう。
(でも、ちょっと待てよ……)
そこで、あることを思い出す。
No.3は、以前、ぼくたち被験者の世話を一任していると言っていた。だから、彼女は、この部屋のセキュリティドアのロックを外して、自由に行き来することができる。
(なら、彼女がロックを外したんじゃないのか?)
一瞬、そう考えたけど、これはすぐに誤りだと気付く。
なぜなら、No.3は、No.1とNo.2が亡くなった後に行われたという適性検査に弾かれたからこそ、今の世話係という役割を背負うことになったからだ。
彼女は言っていた。自分は丙種合格だ、と。
逆に、ぼくとNo.4が甲種合格とされ、続く脳波測定実験を受ける羽目になった。
脳波測定実験を受けたのは、今日の正午。つまり、今から四時間ほど前とされている。
結果として、その後遺症か副作用でぼくは記憶を失い、そして、現在に至る。
(つまり、二日目の時点では、まだ彼女は部屋を自由に行き来できるような権限を持っていなかった)
そう捉えるのが自然だろう。
(じゃあ、やっぱり春日井さんが?)
二日目の時点では、彼女もまた、ぼくと立場の変わらない、一被験者だった。彼女の語った話が、それを証明している。
悔やまれるのは、ぼくを始めとした被験者の名前が、全て黒字で塗り潰されている、ということだ。
名前。
それは、個人の存在を証明する手形のようなもの。
(せめて、ぼくの名前さえわかれば……)
この記憶が蘇るきっかけになる。
そう思った。
(だからこそ、ぼくは、この部屋から出なければいけない)
ちら、とドアの方に目をやる。
(ぼくが、この五号室から脱出するためには、日記の中でNo.4が言っていたように、職員以上のレベルを持つカードキーと、それぞれのセキュリティドアに対応したパスワードが必要になる)
しかし、被験者であるぼくには、それがない。
では、どうするのか?
打算があった。
ぼくは、No.3の置かれた立場をよく吟味する。
彼女は、ぼくたちと同じ被験者であるにもかかわらず、ぼくの部屋に何度も出入りしていた。
(なぜ、No.3は、ぼくの部屋に堂々と侵入できたのか?)
その理由は、単純だ。
(それは、つまり、彼女は職員と同等か、もしくはそれ以上の権限を持っているからじゃないのか?)
職員レベルのカードキーと、セキュリティドアに対応したパスワードを知っていなければ、ロックを解除することはできない。
それにもかかわらず、彼女は平然とロックを解除し、我が物顔で部屋の中に入ってきた。
とすれば、やはり、彼女の頭の中には、セキュリティドアのパスワードが記憶されていて、首から下がるカードキーには、このリビングスペースのみならず、パーソナルスペースのセキュリティドアを解除する権限が備わっていると、そう判断することができる。
(……彼女からカードキーを奪い、どうにかしてパスワードを聞き出すことができれば……)
脱出は、可能だ。
(そうだ……、現に、彼女は、記憶を失ったぼくを連れて研究所の中を案内していた。それは彼女が、職員レベルの権限と、職員からの信頼を得ているからじゃないのか? パーソナルスペースを始めとした各フロアに繋がるセキュリティドアのロックを解除できたのも、それが理由だからじゃないのか?)
適合実験によって被験者の役割を外され、逆に、ぼくたちの世話役や雑用係として任命された彼女は、その性質上、比較的自由に施設の中を出歩ける。
盲点だった。
カギは、意外なところに隠されていたのだ。
(No.3は、まさかぼくが脱出を企てているだなんて夢にも思っていないのだろう。そんな余力も思考能力もないものと思い込んでいるんだ。こんな牢獄みたいな場所だ、希望を失い、全てに絶望し、心を閉ざして塞ぎ込んでいると、そう考えているに違いない)
それこそ、自分と同じように。
だから、あんなふうに無防備にも研究所の内部事情を見せて、聞かせた。所詮は檻に囚われた下等な実験動物に過ぎないのだと、タカをくくっているのだ。
それはおそらく、研究所の連中も同じ。
(馬鹿め……)
ぼくはニヤリとほくそ笑んだ。
被験者を道具とみなし、対等に扱おうとしない。
その高慢さに、付け入る隙がある。
従順なのは、No.3だけだ。
やつらは、大きな思い違いをしている。
暴力による強制では、人を完全に支配することはできない。
(現に、No.4だって、そうだったじゃないか……)
No.4。
一週間前、この研究所からの脱出を試みた男の子。
彼もまた、ぼくと同じように、このまま黙って鎖に繋がれていることを是としなかった。
ただ、ぼくたちに向けて脱出のための協力を仰いだのはいいけれど、結局は賛成を得られず、そのまま、脳波測定実験の被験者となった。
ぼくと、同じ……。
同じ……。
「…………」
同じ……。
ぼくと、同じ?
(……No.4……?)
それは、ぼくとは異なる識別子。
要するに、ただの赤の他人。
それ以外の何物でもない。
そのはずだった。
「……No.4……」
そのはずなのに、なぜか、強い違和感があった。
たとえるなら、それは、ぼく自身の存在が揺らぐような感覚。
足元が割れ、地面の下から別の地層が見えるように、ぼくの中から何かが顔を覗かせる。
なんだ……?
思わず、頭を押さえた。ぼくの奥で、何かが、必死に外へ出ようと手足をばたつかせ、内壁を引き裂き、もがいているみたいだったからだ。
『お兄ちゃん……』
今にも消えてしまいそうな、か細い、少女の声が、頭の内側から響いていた。
……No.4は、No.2という女の子から、『お兄ちゃん』と呼ばれて慕われていた。
だけど、ぼくは、No.5。
No.4じゃない。
ぼくじゃない。
No.4は、ぼくじゃない。
そのはずだった。
(ぼ、ぼくは……)
『運命の輪……、ホイール・オブ・フォーチュン……、定められた運命……』
ふと、誰かの声が聞こえる。
『何度でも……あたしたちは巡り合う……』
ガンガンと、頭蓋の内側を叩く。
(ち、違う……)
外に向かって溢れ出してしまいそうなぼくの中身を、押しとどめるように。
(ぼくは……No.4……じゃない……)
身体を小さく丸め、固く、縮ませる。
……ぼくには、記憶がない。
自分が本当にNo.5なのかどうか、じつのところ、ぼくは知らない。
(彼らが……No.3や研究所の職員がそう言っているから、そう思い込んでいるだけ……)
ぼくの現実は、外部によって与えられている。
少なくとも、現時点では。
そういう意味では、ぼくも、No.3と大差ないのかもしれない。
(ぼくたちは、自分の現実を生きていない……)
せめて……。
せめて、名前さえわかれば、と思った。
No.5とかNo.4のような、ありきたりな識別子じゃない、固有名詞さえはっきりすれば、ぼくは自分のことを思い出せるような、そんな気がする。
あくまでも、気がするだけ、なのだけれど。
いずれにせよ、このまま指をくわえて死ぬのを待つのはごめんだ。
ぼくは実験動物でも、ましてや家畜でもない。
人間だ。
ただ、死ぬために生きる、そんなことはない。
ぼくは生きている。
生きているから、生きるんだ。
死ぬために生きているなんて、ありえない。
(ぼくは、No.3とは、違う……)
死を受け入れるということは、つまり、全てを諦めるということだ。
ぼくは諦めない。
生きている限り、生き続けるんだ。
(そうでなければ、ぼくもNo.3と同じ、生きているのに死んでいるような、そんな人生を送ることになる……)
ぼくは、心地良い温度に維持されたぬるま湯に、死ぬまで浸かる姿を想像した。
皮膚と身体はスライムみたいにぶよぶよにふやけ、脳もまたドロドロに溶かされている。
そうなれば、もう二度と、自分の意志で動くことなどできないだろう。
(いわゆる『飼い殺し』ってやつだ)
だからこそ、ぼくは動き出さなきゃいけない。
この研究所から、逃げ出さなきゃいけない。
でも、逃げ出した後どうするのか、という疑問はある。
日記によれば、この研究所は街中から遠く離れた山間に建てられている。
ふもとに位置する人里に出るのは、容易じゃない。
それに、首尾よく研究所から抜け出せたとしても、ぼくがいなくなったことが知れたら、すぐに追手が来るはずだ。
実験動物の脱走を、彼らが見逃すはずがない。山狩りよろしく、血眼になってぼくを探し出すことだろう。
険しい道のりになる。
生きて帰れるかどうか、期待はできない。
それでも、ここに居続けるよりは、ずっとずっとマシだった。
いずれ、近いうちに、ぼくは死ぬことになる。それも、残虐非道な人体実験によって。
仮に死ななかったとしても、死よりも辛い奴隷のような日々が待っている。
あるいは、廃人同然の暮らしか。
だったら、なおのこと、ぼくは自分の手で選び取らなきゃいけないだろう。
このまま座して死を待つか、それとも、死を覚悟して外の世界に飛び出すか。
(生きるか、死ぬか、そんなことは他人の手に委ねられるシロモノじゃない。ぼくが、ぼくだけがそれを選び取り、そして、決めるものなんだ)
覚悟は固まった。
あとは、どのような作戦を練り、いつ、実行に移すか。
なるべく、早いうちが良い。
もたもたしていたら、それこそ、取り返しのつかないことになるかもしれない。
焦りは禁物だ。
しかし、あまり悠長にもしていられない。
……No.3。
どうにかして、彼女からパスワードを聞き出し、そのカードキーを奪い取る。
さもなければ……。
(ぼくは、彼女を……)
その時だった。
突然、ドアがノックされた。
ぼくは身構え、固く閉ざされたドアを見据える。
「No.5、ちょっといいかしら?」
ドアの向こうから、No.3の声が聞こえた。
「……何の用だ?」
緊張に足を震わせながら椅子から降りて、ドアのそばまで来たぼくは、少し警戒しながら、ドアの向こう側に立っているであろうNo.3に確認を取る。
「浅間先生がお呼びよ」
「……浅間、先生が?」
ぼくの頭に、爬虫類のような目つきをした男の姿が映し出される。
医務室を預かる、研究所の職員。
頼もしい肩書の反面、天敵を前にした時のような敵対心、あるいは本能的な恐怖心が、ぼうっと、炎みたいに燃え上がった。
「一緒に、来てもらえるかしら?」
「……ああ」
力なく答える。
ぼくに、拒否権などあるはずもなかった。