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俺ん家のメイドは、やたらボーイッシュ  作者: 平木明日香
第1章 関西弁と数学と、生物化学
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第1話 博士生活、初手から情報量が多すぎる



 異世界転生したら、普通はもうちょい分かりやすいイベントから始まるもんやと思う。


 たとえば草原で目ぇ覚まして、遠くに城が見えて、村娘が「勇者様!」とか言うて駆け寄ってきて、ステータス画面が出て、なんやかんやで剣を渡されるとか、そういう手順があるはずや。


 こっちは違った。


 草原どころか絶海の孤島。


 村娘どころか無表情の人工秘書。


 ステータス画面どころか魂媒体保存技術の実験記録。


 剣どころか培養カプセル。


 おまけに俺の立場は勇者でも村人でもなく、帝国政府直属の機密研究所 《ラザリオ》の主任責任者、エルンスト・シュバルツシルト博士である。


 配役ミスにも程がある。


 俺は大阪の高校一年、才賀叕一やったはずや。数学は得意。恋愛は苦手。理屈で物事を考える癖があり、クラスメイトからは「説明長いねん」とよく言われる。そんな俺が、なぜか倫理観が研究所ごと海に沈んでいるような施設の所長になっている。


 現状を式で表すなら、こうや。


 高校生 ÷ 常識 × 悪の研究所 = 俺、詰み。


 もちろん、式としては成立してへん。単位も揃ってへん。けれど気分としては完璧にそれやった。


 俺が培養カプセルに眠る無数の素体たちの覚醒を止めてから、三日が経った。


 三日。


 普通の高校生活なら、月曜に数学の小テストを受けて、水曜には結果を見て一喜一憂しているくらいの時間である。放課後にコンビニで肉まんを買うか、駅前で友達とだらだら喋るか、家に帰って課題をするか、その程度の平和な時間や。


 ところが今の三日は、体感で三年くらいあった。


 なにしろ朝起きたら、まず秘書のリゼットがベッド脇に立っている。


「博士、起床時刻です。睡眠時間は三時間四十二分。深睡眠誘導は正常に完了しています」


「おはよう、の前に睡眠の採点入るんやめへん?」


「博士は以前、起床直後の挨拶より生体情報を優先するよう指示されています」


「過去の俺、朝から可愛げゼロやな」


「可愛げ、という評価指標は登録されていません」


「登録せんでええ。むしろ登録されたら博士の尊厳が終わるやろ」


 こんな調子で一日が始まる。


 それから健康確認という名の身体検査がある。血圧、体温、脈拍、瞳孔反応、霊子循環、脳波、筋肉反応、内臓機能、睡眠中の無意識発話、夢に出た単語の解析までされる。


 夢の内容まで解析される生活、ほんまに嫌すぎる。


 俺がもし夢の中で「たこ焼き食べたい」とか言うたら、リゼットは真顔で「たこ焼きとは何ですか。栄養補給対象ですか」と聞いてくるに決まっている。そんなもん朝から説明したない。


 博士の執務室は、研究所の中央管理区画の奥にあった。


 …広い。


 無駄に広い。


 俺の実家のリビングが五つくらい入る広さで、壁一面に黒い書棚と透明な記録端末が並んでいる。机は分厚い黒い金属でできていて、触ると表面に光る文字が浮かび上がる。天井には細い光の線が走っていて、部屋全体が静かに呼吸しているみたいに見える。


 椅子は座り心地が良すぎた。


 腰を預けた瞬間に姿勢を勝手に補正される。背骨の角度まで管理されている気がして、落ち着くどころか逆に身構えた。高級椅子というより、座った人間を研究効率の良い姿勢へ矯正する装置や。


 博士の机には、毎朝、山ほどの報告書が届く。


 人工生体媒体の安定率。


 霊子炉第三環の位相揺らぎ。


 軍務院視察官への回答案。


 法務院から届いた新規被験体移送予定。


 財務院の予算査定。


 学術院からの追加研究要求。


 廃棄判定保留個体の再評価。


 この世界の役所は、たぶん人の心を削る技術だけ現代日本より進んでいる。


 俺は最初、書類の単語が難しすぎて白目を剥きそうになった。魂媒体、霊紋核、人格再展開、素体群、人工子宮、記憶表層、情動基盤、限定人格資料。高校一年生の俺には、漢字が読めても意味が読めない。


 けれど不思議なことに、博士の身体には知識の残滓みたいなもんがあった。


 完全に理解できるわけやない。教科書を読んで覚えた感覚とは違う。たとえるなら、見知らぬパソコンにログインしたら予測変換だけやたら専門用語を覚えている感じや。単語に触れると、頭の奥でぼんやり意味が浮かぶ。式の構造は見える。装置の名前も分かる。けれど、それを自分が学んだ記憶はない。


 かなり気持ち悪い。


 自分の脳内に、知らんおっさんの理科ノートが挟まっているようなもんや。


 俺はこの三日間、やることを三つに分けた。


 一つ目、自分の状況整理。


 二つ目、博士として怪しまれない行動の維持。


 三つ目、研究所の実態調査。


 ほんまは四つ目に「逃げる」を入れたかったけど、現実的に無理やった。


 ここは海に囲まれた孤島で、周囲には帝国海軍の監視網と魔導結界と対空迎撃陣がある。研究所から外へ出るには皇帝官邸の承認がいる。船も飛行機も知らん。そもそもこの世界の飛行機は航空騎兵とか飛行艇とか言うてる時点で、俺の知ってる移動手段と違う。


 俺一人で海へ飛び込んでも、たぶん三分で後悔して五分で死ぬ。


 泳力以前に、方向も距離も分からん。数学が得意でも、海の真ん中で三角関数を唱えたところで浮力は増えへん。


 だからまず、生き残ることに専念しようと思った。


 情報を集めるだけ集めて、状況を式にする。


 未知数を減らす。


 そのために、俺は博士のふりを続けた。


「リゼット、昨日の覚醒プロトコル凍結に対する各部署の反応を一覧にしてくれ」


「承知しました。軍務院出向班は理由説明を要求。学術院監査官は再評価手順の提示を要求。生命培養区画主任は博士判断に従属。霊子実験区画は追加データ取得を歓迎。財務連絡官は延期による維持費増大を懸念しています」


「全員、言いたいこと言うてるなあ」


「博士は通常、反論を三行以内で却下されます」


「三行以内」


「はい。長文は相手に再反論の余地を与えるため非効率、と以前おっしゃっていました」


「過去の博士、SNS向いてへんな」


「SNSとは」


「知らん方が幸せな文化や」


 俺はリゼットに、覚醒延期の理由を研究精度の問題として書かせた。


 三十五体同時起動では、個体差と環境差の分離が困難。


 No.083、No.091、No.104に異常傾向がある。


 生データ再解析前の起動は、定着失敗時の原因追跡を困難にする。


 よって覚醒プロトコルを一時凍結し、個体別評価へ切り替える。


 これなら、倫理ではなく合理性の問題になる。


 この研究所では、人道的な理由より実験精度の方が強い。ほんまに終わってる。けれど終わってる環境では、終わってる理屈を使って止めるしかない。


 俺は報告書に署名した。


 手が勝手に流れるような筆跡で名前を書いた。


 エルンスト・シュバルツシルト。


 書けてしまうのが怖い。


 俺は才賀叕一やのに、この身体は博士としての癖を覚えている。筆圧、線の止め方、最後の跳ね。まるで手だけが別人の人生を知っているようやった。


「博士、筆跡に軽微な乱れがあります」


「寝不足や」


「睡眠時間は博士の標準範囲内です」


「標準が狂ってるんや」


「必要であれば睡眠時間を四時間に延長します」


「それ延長言うほど延びてへん」


 リゼットは本当に便利で、本当に怖かった。


 彼女は俺の健康管理、予定管理、研究記録整理、施設案内、端末操作の補助を全部こなす。歩けばついてくる。質問すれば答える。隠し事はしないように見える。


 けれど、リゼット自身がどこまで俺を見ているのか分からへん。


 俺の表情、声、脈拍、瞳孔、汗、呼吸、発言の癖。全部記録されている可能性があるし、下手な嘘はつけない。せやから俺は自分が異世界から来たことも、才賀叕一であることも、初日の一回以外は口にしとらん。


 リゼットはその件を追及しなかった。


 追及しないのが逆に怖かったが…


 博士の記憶混乱として処理しているのか。


 様子を見ているのか。


 皇帝官邸か何かへ報告済みなのか。


 考え始めると胃が痛い。


 胃薬を頼んだら、たぶんリゼットは「消化器機能調整薬、精神安定剤、記憶補助剤のどれを希望しますか」と聞いてくるやろうから頼めない。


 三日のあいだに、俺は研究所を少しずつ見て回った。


 もちろん、観光気分やない。


 「延期した覚醒プロトコルの再評価に必要や」という名目で、生命培養区画、管理中枢区画、医療区画、食堂、職員居住区、資料庫、観測室を順番に確認した。立ち入り権限は博士の指輪と声でほぼ通る。扉の前に立つと壁の認証装置が淡く光り、リゼットが一言添える。


「主任責任者、通過」


 それで扉が開く。


 …権限が強すぎるやろ


 俺の元の世界なら、職員証を忘れたら学校の職員室にも入りにくいのに、この世界では指輪ひとつで国家機密の扉が開く。便利やけど、便利すぎて怖い。俺の一言で人が動く。俺の沈黙で実験が進み、俺の署名で誰かの扱いが変わる。


 責任の重さで肩が凝る。


 この身体、若く見えるくせに肩こりだけはしっかりある。最悪や。


 施設には、リゼット以外にも「メイド」と呼ばれる存在がいた。


 メイド。


 初めて聞いた時、俺はちょっとだけ期待した。


 そらするやろ。


 俺かて一応男やぞ。


 異世界研究所で美人メイドがいると言われたら、そら脳のどこかが勝手に「おっ」と反応するのが普通や。こっちは健全な高校生や。恋愛が苦手でも、美人を美人と認識する機能くらいある。


 ところが実物を見て、俺の期待は別方向へ吹っ飛んだ。


 美人すぎた。


 そして無機質すぎた。


 廊下を歩く彼女たちは、黒と白を基調にしたメイド服に似た制服を着ている。普通のメイド服より実用的で、袖や裾には細い銀糸回路が縫い込まれている。髪色は銀、淡金、黒、薄桃、青みがかった灰色など個体ごとに違う。顔立ちは全員整っていて、背筋は真っ直ぐ、歩幅は一定、視線は必要な時以外揺れない。


 美人が列を作って廊下を歩いている光景は、本来なら目の保養のはずや。


 けれど、ここでは品評会ではなく工場の完成品みたいに見えた。


「リゼット、あの人らは職員なん?」


「施設管理補助個体です。清掃、給仕、搬送、環境維持、軽度医療補助、来客対応、職員監視を担当しています」


「最後なんか混じったな」


「職員監視です」


「やっぱり混じってたわ」


「施設内の不正、情動不安定、機密漏洩予兆を早期発見するため、管理補助個体には観察機能が搭載されています」


「メイドさんが一番怖いタイプの警備カメラやん」


 メイドたちは俺を見ると、全員が綺麗に一礼した。


「博士、おはようございます」


「博士、ご命令を」


「博士、本日の栄養補給時間は予定より十一分遅れています」


「博士、右袖に微量の培養液が付着しています。交換を推奨します」


 怖い。


 美人に囲まれているのに、まったく浮ついた気分にならない。


 むしろ俺の生活が全部監視されている現実を突きつけられる。


「君ら、名前あるん?」


 俺がそう聞くと、目の前にいた淡金色の髪のメイドが静かに答えた。


「個体識別名はミーナです。管理補助個体MN-14に該当します」


「ミーナさん、ええ名前やな」


「ありがとうございます。評価語を記録します」


「記録せんでええ」


「博士は以前、管理補助個体の識別名を呼称する頻度が低く、番号管理を推奨されていました」


「……そうか」


 過去の博士。


 ほんまに人の心が見当たらん。


 俺はなるべく名前で呼ぶことにした。ミーナ、カティ、セラ、ノイン、トゥーラ。全員の名前を覚えるのは大変やったけど、番号で呼ぶよりはマシや。


 そしたらリゼットが言った。


「博士、呼称傾向に変化があります」


「研究環境の再評価中や。個体識別の精度を上げるためや」


「名前呼称は精度向上に寄与しますか」


「番号だけやと、聞き間違いとか転記ミスがあるやろ。名前と番号の二重管理や」


「合理的です」


 助かった。


 ほんまにこの研究所では、合理的という単語が免罪符になる。


 俺は職員食堂にも行った。


 博士は本来、専用の栄養室で配合食を摂るらしい。けれど俺は、施設全体の空気を知るために食堂を見たいと言った。リゼットは少しだけ沈黙してから許可した。


 食堂は広く、清潔で、味気ない場所やった。


 研究員、技師、警備兵、医療担当、管理補助個体が時間帯をずらして食事を取る。会話は少ない。壁には栄養表示と勤務予定が表示され、各テーブルには小型端末が埋め込まれている。


 食事は、栄養的には完璧そうやった。


 味はなんというか、心が無い。


 白い粥状の主食。薄い肉片。緑色の野菜らしきもの。苦いお茶。塩気はある。食べられる。まずくはない。けれど、「生きるために必要なものを摂取しました」という感じで、食事の楽しみが一ミリもない。


「ソースないん?」


「ソースとは」


「調味料や。甘辛いやつ」


「該当する調味料を検索します」


「いや、ええ。たぶんここにお好み焼き文化はない」


 隣の席にいた若い研究員が、俺の顔を見て固まっていた。


 そらそうやろ。


 所長が急に食堂へ来て、謎の調味料を求めている。職場の空気としては最悪に近い。


 俺はその研究員へ話しかけた。


「君、生命培養区画の担当か?」


「は、はい。第三培養室補助研究員、ヘリオ・クランツです」


「最近、素体群の安定率はどうや」


「博士の再評価指示後、No.071からNo.105は凍結状態を維持しています。培養液濃度の再調整を進めています」


「現場としては、同時起動と個別起動、どっちが安全やと思う?」


 ヘリオは目を泳がせた。


 答えにくい質問やったんやろう。博士の意向を探っているのが分かる。


「……個別起動の方が、異常発生時の原因特定は容易です。ただし、時間と維持費が増えます」


「費用より原因特定や」


「はい」


「あと、現場の人間が気づいている異常は報告書に全部出せ。博士が聞いてないから書かん、みたいなんはいらん」


「承知しました」


 ヘリオは驚いたように頭を下げた。


 たぶん過去の博士は、必要な情報だけを要求し、不要な報告を嫌ったんやろう。俺からすれば、何が必要で何が不要か分からないから全部出してほしいだけや。


 無知が一周回って、現場の声を聞く名采配みたいになっている。


 人生、分からんもんや。


 資料庫では、博士本人について調べた。


 直接「俺ってどんな人?」と聞くのは危険すぎるので、俺は「過去研究の再検証」という名目で自分の研究履歴を開いた。


 エルンスト・シュバルツシルト。


 帝国科学院予備校へ十二歳で入学。


 十九歳で霊視工学の基礎論文を提出。


 二十四歳で人工魔導兵計画へ参加。


 三十代で魂媒体保存技術を実用化。


 その後、年齢不詳化。


 見た目は若い。身体データは二十代後半相当。理由は恒常若齢化処置。自分の細胞周期、霊子循環、免疫系、脳神経炎症、霊紋を調整し、肉体年齢を固定している。


 俺はその説明を読んで、頭を抱えた。


「自分で不老っぽい処置しとるやん、この人。理科の自由研究の規模ちゃうぞ」


 博士の研究記録は、読めば読むほど怖かった。


 怖いのは、めちゃくちゃ論理的なところや。


 「生命は装置」「魂は情報」「人格は構造」として扱い、観測し、分解し、再現しようとしている。そこに感傷はない。悲鳴も涙も、研究記録の一項目として並んでいる。


 たとえば、ある実験記録。


 覚醒した素体が恐怖反応を示した。


 研究員が鎮静を提案した。


 博士は拒否し、恐怖反応の持続時間と人格形成への影響を測定した。


 結果、有用なデータが得られた。


 被験体は二時間後に精神崩壊。


 廃棄。


 俺はその行を何度も読み返した。


 廃棄。


 この二文字が、あまりにも軽い。


 俺なら絶対書けへん。


 …いや、書いたらあかん。


 人間みたいに泣き、怖がり、壊れていく存在を、失敗した道具みたいに廃棄と書く感覚。これが博士や。これがこの研究所や。


 俺は吐き気を堪えながら、メモを作った。


 ただし紙には書かない。端末に残すと危険や。だから頭の中で整理する。数学の証明みたいに、条件を番号で並べる。


 一、俺は才賀叕一の記憶を持っている。


 二、肉体はエルンスト・シュバルツシルト。


 三、周囲は俺を博士として認識している。


 四、博士は倫理的に終わっている研究者。


 五、ラザリオは帝国の複数機関に支えられているため、簡単には止められない。


 六、俺の博士権限は施設内では強い。


 七、権限を失えば終わる。


 八、素体たちを守るには、博士としての立場を利用するしかない。


 九、リゼットは味方か不明。ただし現時点で最も使える補助者。


 十、俺は科学知識が足りない。論理と数学で補う必要がある。


 整理すると、余計に詰んでいる。


 けれど、詰みかどうかは全探索してから決めるべきや。将棋でも、見た目が詰みでも受けがあることはある。数学でも解なしに見える方程式が、条件を変えれば解を持つことがある。


 俺はまだ全条件を知らない。


 なら、諦めるのは早い。


 三日目の午後、俺は生命培養区画へ向かった。


 目的は、覚醒凍結中の素体群の再確認。


 もちろんそれは表向きの理由や。本当の目的は、彼ら彼女らを一人ずつ見ることやった。転生したての日は圧倒されすぎて、カプセルに眠る素体たちをほとんど直視できんかった。数が多すぎるっちゅーか、…色んな意味で怖すぎて頭が追いつかへんかったんや。


 素体群の資料にはこう書いてあった。


 年齢相当は十二歳から十八歳。


 素体上の分類としては、『少年型・少女型素体』。


 実際、身体発達や外見年齢には幅があって、幼さの残る個体もいれば、高校生くらいに見える個体もいる。これは魂媒体の定着率、魔導回路の発達、神経可塑性を比較するためらしい。


 俺はその説明を読んで、また腹が重くなった。


 年齢幅まで実験条件。


 成長段階まで変数。


 この研究所では、何もかもがデータになる。


 第一覚醒室の扉が開くと、冷たい空気が頬に触れた。


 培養液の匂いは相変わらずや。消毒液と甘い薬草と金属を混ぜたような匂い。天井から青白い光が降り、カプセルの列がどこまでも続いている。


 リゼットが横で端末を開いた。


「No.071からNo.105、凍結状態維持。No.083の霊子循環変動は低下傾向。No.091の脳波安定度は改善。No.104は拒絶予測値に変化なし」


「No.104は要注意やな」


「はい。博士の指示通り、個別起動候補から除外しています」


「ええ判断や」


「ありがとうございます」


 リゼットが淡々と答える。


 俺はカプセルの前を一つずつ歩いた。


 No.071。


 白銀の髪。十五歳くらい。眠っている。指先が細い。


 No.072。


 黒髪。十二、三歳に見える。頬が幼い。


 No.073。


 赤みがかった髪。十六歳くらい。眉間に少し皺が寄っている。


 No.074。


 金髪。長いまつ毛。身体に接続された管が多い。


 番号と顔を一致させていく。


 名前はない。


 だから俺は、心の中で仮の印象をつけた。


 白銀の子。


 黒髪の子。


 眉間の子。


 金髪の子。


 正式名称やらない。勝手につけるのも失礼かもしれへん。けれど番号だけで見るよりは、人として見ている気がした。


「博士、各個体に対する視線滞留時間が通常より長くなっています」


「外見差と発達差を確認してるんや」


「合理的です」


「便利やな、その返事」


「便利、という評価語を記録しますか」


「せんでええ」


 俺は歩き続けた。


 No.080を過ぎたあたりから、身体の奥に奇妙な感覚が生まれた。


 見ている。


 カプセルの中の素体たちは眠っているはずや。意識はない、もしくは形成途上。なのに、誰かに見られているような気がする。もちろん実際には、監視装置が俺を見ているだけかもしれない。天井のセンサー、壁の観測機、リゼット、職員。視線の出どころはいくらでもある。


 それでも、なんとなく違った。


 カプセルの奥から、眠っているはずの何かがこちらを感じているような、そんな薄い違和感。


「リゼット、覚醒前でも外部刺激に反応することはあるんか」


「はい。音声、光、霊子波、接触振動に対し、夢様反応を示す個体があります」


「夢様反応」


「明確な意識ではありません。感覚入力に対する未成熟な情動反応です」


「人が寝てる時に名前呼ばれたら、夢の中に混ざるみたいなもんか」


「近似表現としては適切です」


「ほな、話しかけたら反応する可能性もあるんやな」


「あります。ただし博士は以前、覚醒前個体への不要な音声刺激を推奨していませんでした」


「今日から必要扱いや。個別起動の前に反応差を見る」


「承知しました」


 俺はNo.083の前で立ち止まった。


 霊子循環変動が大きかった個体や。外見年齢は十四歳くらい。薄い桃色の髪が液体の中で揺れている。表情は穏やかやけど、時々まぶたが震える。


「聞こえるか?」


 返事はない。


 当然や。


 俺はカプセルに手を置いた。硝子は冷たい。中の液体に触れているわけではないのに、手のひらが微かに震えを感じた。


 表示された波形が少し揺れた。


「反応あり」


 リゼットが言った。


「音声刺激か接触振動か、どっちや」


「両方の可能性があります」


「分離したいな。あとで条件変えて測る」


「承知しました」


 俺は少しだけ息を吐いた。


 反応する。


 眠っているだけやない。


 完全な意識でなくても、外からの刺激に揺れる。なら、起こし方ひとつで結果が変わる。乱暴に起こせば壊れるかもしれない。丁寧に起こせば救える可能性がある。


 希望と恐怖が同時に増えた。


 俺はさらに奥へ進んだ。


 No.090。


 No.091。


 No.092。


 No.093。


 カプセルの列は青白い光に照らされ、どの顔も眠っている。研究所の機械音が一定のリズムで鳴っている。低い振動、液体の循環音、端末の電子音、遠くの扉が開閉する音。


 俺はその音の中で、自分の心臓の音を聞いていた。


 No.097の前を通り過ぎた時、リゼットが何か説明していた。


「No.097は戦闘適性評価用の骨格強度を持ち、筋繊維密度が標準より——」


 正直、あまり頭に入ってこなかった。


 視線が、もっと奥に引っ張られていた。


 カプセルの列の端。


 少し離れた場所に、他よりも隔離されたように置かれている一基があった。表示番号はNo.105。凍結対象群の最後の個体。


 そのカプセルだけ、周囲の装置が多い。


 管も多い。


 観測端末も別系統。


 培養液の色も、わずかに薄い青を帯びている。


「No.105は?」


 俺が聞くと、リゼットは端末を確認した。


「No.105は青少年少女型素体群の最終個体です。魂媒体受容性が高く、外見調整精度も高い個体ですが、覚醒前反応が不安定なため、博士が長期観察対象に指定されています」


「俺が?」


「はい。博士ご自身の署名があります」


「……そうか」


 俺はゆっくり近づいた。


 カプセルの中にいる素体の髪は、黒に近い焦げ茶色やった。液体の中でふわりと広がっている。年齢は十五か十六。俺と同じくらいに見える。顔は少し横を向いていて、目は閉じている。肌は白く、唇は薄い。頬の形、鼻筋、眉の角度、睫毛の長さ。


 俺の足が止まった。


 呼吸も止まりかけた。


 視界の中心に、その顔だけが残った。


 嘘やろ。


 頭の中で、誰かの声がした。


 いや、俺の声や。


 嘘やろ。


 ありえへん。


 なんで。


 なんでここに。


 カプセルの中で眠っている素体の顔は、俺の幼馴染に瓜二つやった。


 子どもの頃から知っている顔。


 家が近くて、小学校へ一緒に行って、夏休みに公園で水風船を投げ合って、俺が算数の宿題を先に終わらせると「ずるい」と言ってふくれて、中学に上がってから少し距離ができても、なんだかんだで連絡は続いていた。


 名前を呼ぼうとして、喉が詰まった。


 この世界で、その名前を出したらあかん気がした。


 出した瞬間、何かが壊れる気がした。


 リゼットが横で言った。


「博士、心拍が上昇しています」


「……問題ない」


「瞳孔反応に異常があります」


「照明のせいや」


「現在の照度は一定です」


「ほな、気のせいや」


「博士が気のせいと発言される頻度は極めて低いです」


「今日から増える」


 自分でも無茶苦茶な返しやと思った。


 けれど、口を動かしていないと取り乱しそうやった。


 俺はカプセルに手を伸ばした。


 硝子に触れる。


 冷たい。


 中の彼女は眠っている。


 幼馴染に似ている。


 似ているどころやない。


 髪型が違う。肌の色も少し白い。表情は眠っているから分からない。けれど、顔の作り、雰囲気、目を開けた時にどんな表情をするか想像できてしまう感じが、あまりにも同じやった。


 俺の頭は、必死に否定材料を探した。


 異世界や。


 本人のはずがない。


 これは偶然似ているだけや。


 人造素体や。


 博士が誰かをモデルに作った可能性もある。


 俺の記憶にある幼馴染と、この世界の素体が一致する理由はない。


 理由がない。


 理由がないのに、目の前にいる。


 数学なら、ここで「前提が間違っている」と疑う。


 つまり、俺の記憶が本物ではない可能性。


 あるいは、この世界と俺の元の世界に何らかの接点がある可能性。


 あるいは、博士が俺の記憶を知っていた可能性。


 いや、待て。


 博士はこの世界の人間や。才賀叕一とは無関係のはず。俺の幼馴染の顔を知るはずがない。


 なら、これは何や。


「リゼット」


「はい」


「No.105の製造記録を出せ」


「承知しました」


 空中に記録が表示される。


 製造開始日。


 人工子宮番号。


 遺伝子調整ログ。


 霊子同調処置。


 外見調整。


 魂媒体受容性。


 複数の項目が流れていく。


 俺はその中に、ある記述を見つけた。


 外見参照元:機密指定。


 参照元資料:博士個人管理領域。


 閲覧制限:E0本人認証。


 背筋が冷えた。


「博士個人管理領域って何や」


「博士のみが閲覧可能な私的研究領域です。通常、職員および補助個体には内容が開示されません」


「開けるか」


「博士の認証があれば可能です」


「開け」


「承知しました。生体鍵照合、声紋照合、霊紋照合を開始します」


 円形の装置がカプセル横から伸びてきた。


 俺は右手の指輪をかざした。黒い指輪が淡く光る。喉の奥が乾く。


「エルンスト・シュバルツシルト」


 俺がそう言うと、装置が低く鳴った。


「認証完了」


 空中の記録が切り替わる。


 そこに表示されたのは、画像やった。


 古い写真のようなもの。


 鮮明ではない。ノイズが走っている。けれど、そこに映っている少女の顔は、俺の幼馴染に似ていた。


 いや、違う。


 似ているのはNo.105の方や。


 その画像が参照元や。


 博士は、この画像を使ってNo.105を作った。


 画像の横には、短い文字が表示されていた。


 《魂媒体照合候補:異界由来波形》


 俺はその文字を見た瞬間、全身の血が引いた。


「異界……?」


 リゼットが俺を見た。


「博士、その記録は私の閲覧権限外です。説明はできません」


「異界由来波形って、何や」


「用語自体は登録されています。通常世界霊子場に属さない波形、あるいは既存六大陸の霊紋体系と一致しない魂媒体反応を指します」


 俺は口を開けたまま、何も言えなかった。


 既存六大陸の霊紋体系と一致しない魂媒体反応。


 それはつまり、この世界の外から来た魂。


 俺みたいな。


 俺はカプセルの中の彼女を見た。


 幼馴染に瓜二つの素体。


 博士個人管理領域に保存された参照画像。


 異界由来波形。


 全部が一本の線で繋がりそうで、繋がってほしくなかった。


 俺の記憶の中で、最後に見たスマホ画面が蘇る。


 幼馴染からのメッセージ。


 買い物に付き合えという、いつものような軽い誘い。


 横断歩道。


 雨。


 途切れた記憶。


 もしかして、俺だけやないんか。


 俺は声を絞り出した。


「No.105の名前は」


「正式名称はありません。個体識別番号はNo.105です」


「博士は、仮称をつけてへんのか」


「記録を検索します」


 数秒。


 その数秒が、やけに長かった。


 リゼットが静かに言った。


「博士個人管理領域に、仮称らしき文字列が一件あります」


「出せ」


 空中に、短い文字が浮かんだ。


 《ミオ》


 俺は息を止めた。


 幼馴染の名前と同じやった。


 完全に。


 一文字も違わず。


 俺の手が、カプセルの硝子に貼りついたまま震えていた。


「博士、体温低下。心拍上昇。精神安定処置を提案します」


「いらん」


「現在の状態は通常業務に支障を——」


「いらん言うてるやろ」


 思ったより強い声が出た。


 リゼットが黙る。


 研究所の音だけが聞こえる。


 培養液の循環音。


 装置の低い振動。


 遠くの端末音。


 俺はカプセルの中のミオを見つめた。


 本人なのか。


 別人なのか。


 ただ似せて作られただけなのか。


 博士は何を知っていたのか。


 俺はなぜこの身体に入ったのか。


 幼馴染は、この世界に来ているのか。


 死んだのか。


 保存されたのか。


 作られたのか。


 問いが多すぎる。


 未知数が増えすぎて、式が破裂しそうやった。


 それでも、一つだけはっきりした。


 俺はもう、この研究所から目を逸らせない。


 カプセルの中に、俺の過去が眠っている。


 俺の世界とこの世界を繋ぐかもしれない存在が、番号を貼られて培養液の中に沈んでいる。


 俺は博士やない。


 才賀叕一や。


 けれど、今この場所で彼女に触れられる権限を持っているのは、エルンスト・シュバルツシルトだけや。


 なら、その名前を使う。


 どれだけ気持ち悪くても。


 どれだけ怖くても。


 この白衣が悪人の証なら、その悪人の権限を使ってでも、俺は調べなあかん。


「リゼット」


「はい」


「No.105は、当面、誰にも触らせるな」


「理由を登録しますか」


 俺はカプセルの中のミオから目を離さずに答えた。


「博士本人による最重要再評価対象。外部干渉禁止。閲覧権限は俺とリゼットだけに制限」


「承知しました。軍務院および学術院から照会があった場合は」


「実験精度のため、と返せ」


「承知しました」


 またや。


 また俺は、人を守るために実験精度という言葉を使った。


 最低やと思う。


 けれど、今はそれしかない。


 俺はカプセルに額を近づけた。


 硝子越しに、眠る彼女へ届くはずもない声でそっと言った。


「……待っとけ、ミオ」


 その瞬間、カプセル内の波形がわずかに跳ねた。


 リゼットが反応する。


「No.105、夢様反応を確認」


 俺の心臓が強く鳴った。


「音声刺激か?」


「不明です。ただし、博士の発声後〇・八秒で情動波形が変化しました」


「もう一回、名前呼んだら?」


「追加刺激を行いますか」


 俺は迷った。


 呼びたい。


 今すぐ確かめたい。


 でも、起こしてしまうかもしれない。傷つけるかもしれない。博士が残した罠かもしれない。俺の感情だけで動いたら、この研究所と同じになる。


 理詰めで行け。


 感情で走るな。


 関西人のツッコミは勢いで出してもええけど、人の命に関わる判断は勢いでやったらあかん。


 俺はゆっくり首を振った。


「今日はやめる。条件を整えてからや」


「承知しました」


「No.105の全記録を、俺の執務室へ送れ。閲覧履歴は残すな……いや、残さんのは不自然か。博士本人による再評価として正規記録にしろ。ただし内容は機密封鎖」


「可能です」


「あと、博士個人管理領域の異界由来波形に関する記録を全部出せ」


「検索には時間を要します」


「構わん。優先順位は最高や」


「承知しました」


 俺はカプセルから手を離した。


 手のひらが冷えていた。


 No.105、仮称ミオ。


 幼馴染に瓜二つの素体。


 異界由来波形。


 博士の個人記録。


 この三日間、俺は自分の状況を整理していたつもりやった。


 けれど本当は、まだ入口に立っただけやったのかもしれへん。


 この研究所には、俺の転生と関係する何かがある。


 シュバルツシルト博士は、俺の世界を知っていた可能性がある。


 そして幼馴染の名を持つ素体が、培養液の中で眠っている。


 俺は白衣の袖を握りしめた。


 もう、ただの巻き込まれでは済まされへん。


 この研究所の謎を解く。


 博士が何をしたのか突き止める。


 ミオが何者なのか確かめる。


 そして、できるなら。


 いや、できるならやない。


 俺は彼女を助ける。


 たとえこの世界の法律が人として認めていなくても、俺が知っている顔で、俺が知っている名前で、俺の声に反応したなら、それを番号のまま放っておけるわけがない。


 俺はリゼットに背を向け、覚醒室の出口へ歩き出した。


「博士、どちらへ」


「執務室や」


「目的は」


「勉強する」


「勉強、ですか」


「そうや」


 俺は足を止めずに答えた。


「魂媒体保存も、人工生体媒体も、博士の過去も、異界由来波形も、全部や。俺が理解せんことには、何も始まらへん」


「博士は既に当該分野の最高権威です」


 リゼットの声は、いつも通り無機質やった。


 俺は少しだけ笑いそうになった。


 最高権威。


 中身は高校一年やぞ。


 けれど、それを言うわけにはいかへん。


「最高権威でも、検算はするやろ」


「合理的です」


「せやろ」


 この世界に来てから、初めて少しだけ自分の足で進んでいる気がした。


 廊下の青白い光が、俺の白衣の裾を照らす。


 背後の覚醒室では、無数のカプセルが静かに眠っている。


 その中の一つに、俺の幼馴染と同じ名前の少女がいる。


 式はまだ解けない。


 条件も足りない。


 未知数は増える一方や。


 けれど、ひとつだけ分かっている。


 これは、俺が目を逸らしてええ問題やない。


 そして俺は昔から、解けない問題を途中で放り出すのが、死ぬほど嫌いな人間やった。


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