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俺ん家のメイドは、やたらボーイッシュ  作者: 平木明日香
第1章 関西弁と数学と、生物化学
4/5

プロローグ



 目ぇ覚ました瞬間、俺は思った。


「……天井、高すぎへん?」


 寝起き一発目の感想としては、たぶん人生でいちばん間抜けやったと思う。もっと他にあるやろ、知らん部屋やんけとか、体重いなとか、ここ病院かとか、昨日の晩メシ何食うたっけとか、普通はそういう方向に思考が転がるはずやのに、俺の脳みそは目に入った情報の中でいちばん面積を取っていた天井に負けた。


 ほんまに高かった。


 体育館の天井を三つくらい縦に重ねて、そこに理科室と美術館と宇宙船の内装を無理やり混ぜ込んだみたいな、なんとも説明しにくい巨大空間やった。漆黒の金属フレームが幾何学模様みたいに組まれていて、その隙間に分厚い硝子板がはめ込まれている。硝子の向こうでは青白い光が脈打つように流れていて、天井裏を這う無数のチューブや光る線が、まるで巨大な生き物の血管みたいに壁の奥へ消えていく。


 いや、待て。


 天井が生き物の血管みたいって、寝起きの高校生がする比喩として怖すぎるやろ。


 俺はゆっくり首を動かして、自分の置かれている状況を確認した。


 まず、俺はベッドの上に寝ていた。


 正確にはベッドやない。透明な蓋が開いた、棺桶みたいな、カプセルみたいな、健康診断で入る検査機器を悪の組織が豪華に改造したみたいな装置の中やった。内側には薄い白い布が敷かれていて、寝心地だけは妙にええ。周囲には円形の台座があり、その台座から細い管が何本も伸びて、俺の腕や首や胸に貼りついていた。


「……いやいやいや、なんやこれ。寝相悪すぎて点滴増えたんか?」


 声に出してから、自分の声に違和感を覚えた。


 低い。


 俺の声やない。


 寝起きで喉が枯れているとか、そういうレベルやない。自分の声帯が勝手に転職して、渋めの俳優事務所に所属しましたみたいな声やった。腹の底から響く感じがあり、言葉の一つ一つに無駄な威圧感がある。


 俺は高校一年生や。


 才賀叕一、十五歳。大阪生まれ大阪育ち。数学だけはやたらできる。恋愛感情については未履修。体育は平均。英語は文法だけなら勝てる。クラスでは「理屈っぽいけど悪いやつではない」という、褒められているのか扱いに困られているのか分からん評価を受けている、極めて一般寄りの男子高校生である。


 こんな声ちゃう。


 こんな、借金取りが優しく名前呼ぶ時みたいな声ちゃう。


 俺は混乱しながらも、まず自分に接続されている管を見た。皮膚に刺さっているようには見えへん。貼りついているだけや。丸い金属端子が肌に密着していて、淡い光が規則的に明滅している。


 点滅周期は約二秒。


 全部同じ周期ではない。


 右腕の端子は二秒、胸の端子は一・三秒、首の端子は三秒弱。発光色も微妙に違う。青、白、薄い緑、ほんの少し紫。


 俺の頭は、怖いとか気持ち悪いとかいう感情より先に、周期差の意味を考え始めた。


 生体情報のモニタリングか? 心拍、体温、血中酸素、脳波、神経反応、魔力……いや魔力てなんやねん。自分で考えて自分にツッコむな。けど、この部屋の見た目からして、普通の医療機器やとは考えにくい。なら未知の生体パラメータを測っとる可能性がある。仮にそれぞれの端子が異なるデータを取っているとすれば、発光周期の差はサンプリングレート、もしくは接続状態の確認信号——。


「いや、ちゃうちゃうちゃう。分析してる場合ちゃう。まず誘拐やろ、これ」


 俺は上半身を起こそうとした。


 その瞬間、視界がぐにゃりと揺れて、脳みそが頭蓋骨の中で一拍遅れて動いたような感覚が走った。気持ち悪さが胃の奥からせり上がってきたけれど、吐くほどではない。身体が重いというより、身体の操作方法が微妙に違う。


 手足が長い。


 肩幅も広い。


 首の位置も、目線の高さも、いつもの自分と合わへん。


 寝起きで身体が鈍っている時とは違う。ゲームのコントローラー設定を勝手に変更されて、ジャンプボタンとしゃがみボタンが入れ替わった時のような気持ち悪さがあった。


「ご覚醒を確認いたしました」


 突然、女の声がした。


「うおっ!?」


 俺は反射的に身を引こうとして、背中をカプセルの縁にぶつけた。痛い。普通に痛い。夢ではない。夢やったら、このタイミングで背中の痛みだけ妙にリアルにせんでええ。


 声のした方を見ると、白衣を着た女性が立っていた。


 銀色の髪が腰のあたりまでまっすぐ伸びていて、肌は陶器みたいに白い。顔立ちは怖いくらい整っている。目は薄い青で、硝子玉みたいに綺麗やのに、そこにあるべき感情が見当たらん。姿勢は完全に左右対称で、腕の角度も、指先の位置も、呼吸の間隔すら測定器で調整したみたいに正確やった。


 美人である。


 とんでもない美人である。


 もし通学路で会ったら、俺はたぶん一瞬だけ見て、目を逸らして、心の中で「いや今の人、顔面偏差値どうなっとんねん」と言いながら、三日くらい記憶に残す自信がある。


 それくらい綺麗やのに、存在感が人間というより精密機械やった。


「博士、現在時刻は帝国標準時六時十二分。睡眠時間は七時間十六分四十二秒。深睡眠率は三十四・八パーセント。覚醒時脳波に大きな乱れはありません」


「……は?」


「体温三十六・七度。脈拍五十二。血圧九十八の六十一。霊子循環量は基準値より三・二パーセント低下していますが、覚醒後十分以内に回復すると予測されます」


「ちょ、待って待って待って。情報の入り口が渋滞しとる。大阪環状線より混んどる」


「大阪環状線、という語句は登録辞書に存在しません。新規用語として記録しますか?」


「そこ拾わんでええねん」


 俺は思わず関西弁で返した。


 よかった。中身は俺や。口から出る言葉のノリはいつもの俺や。


 問題は、それ以外が全部俺やないことや。


 銀髪の女性は、俺の混乱を気にする様子もなく、片手に持った薄い板状の端末へ視線を落とした。端末の表面には細かい文字とグラフが浮かんでいる。紙ではない。タブレットとも違う。空中投影に近い。


「博士、会話反応に軽度の混乱が見られます。必要であれば記憶補助処置を実施します」


「せんでええ。むしろ今、何を補助されるんかが怖いわ」


「承知しました」


「いや承知する前に、ひとつ確認させてくれへん?」


「どうぞ」


「君、俺のこと今なんて呼んだ?」


「博士です」


「それ、あだ名?」


「いいえ。正式な職責呼称です」


「俺が?」


「はい」


「博士?」


「はい」


「何の?」


「霊視工学、魂媒体保存、人工生命調整、魔導兵器化技術、神経霊子同調理論、人格再展開処置における帝国最高権威です」


「肩書きが多すぎて名刺が巻物になるやろ」


 銀髪の女性は一切笑わなかった。


 これはボケが通じていないのか、それともボケと認識したうえで無視しているのか、判断が難しい。表情筋が休業中みたいな顔でこっちを見ている。


 俺は深呼吸した。


 ここで大事なのは、情報を整理することや。意味不明な時ほど、感情ではなく構造で見るべきである。パニックは解像度を下げる。解像度が下がると選択肢を見落とす。選択肢を見落とすと詰む。数学の証明でも、複雑な問題ほど既知条件と未知条件を分ける。人生もたぶん似たようなもんや。知らんけど。


 既知条件。


 俺は見知らぬ巨大施設で目覚めた。


 身体が俺のものではない。


 声も違う。


 銀髪美人が俺を博士と呼んでいる。


 周囲の設備は現代日本の水準を超えている。


 未知条件。


 ここがどこか。


 俺がなぜここにいるか。


 この身体が誰のものか。


 銀髪美人の正体。


 博士とは何者か。


 俺は生きているのか、死んだのか、夢なのか、頭を打ったのか、あるいは宇宙人に就職斡旋されたのか。


 最後の可能性は低い。低いけど、現状ではゼロと言い切る材料がないのが腹立つ。


「まず、ここどこ?」


「帝国政府直属第七研究施設 《ラザリオ》です」


「帝国政府」


「はい」


「直属」


「はい」


「第七研究施設」


「はい」


「ラザリオ」


「はい」


「全部初耳や。俺、社会の授業で寝てた日あったかな」


「社会科、という教育分類は本施設の基準には存在しません」


「そこも拾わんでええ」


 俺は額を押さえた。


 指が長い。骨ばっている。爪の形も違う。指先に薄い傷がいくつもある。薬品か、刃物か、実験器具か知らんけど、明らかに勉強机とシャーペンだけで生きてきた手ではない。


「俺の名前は?」


 女性は迷いなく答えた。


「エルンスト・シュバルツシルト博士です」


「違う」


「記録上、博士の登録名はエルンスト・シュバルツシルトです」


「違うねん。俺の名前は才賀叕一や」


 口に出した瞬間、自分の名前がこの部屋にまったく馴染まないことに気づいた。


 才賀叕一。


 大阪の高校生。


 数学好き。


 恋愛偏差値、測定不能。


 それが、この帝国政府直属なんちゃら研究施設とどう関係する?


 答えは簡単や。


 関係ない。


 関係ないはずや。


 銀髪の女性は、端末を数秒見つめたあと、淡々と言った。


「才賀叕一という個体名は、本施設の職員名簿、被験体台帳、帝国戸籍照合表、捕虜管理記録、死亡者霊紋索引のいずれにも該当しません」


「死亡者霊紋索引って何や。名前からして役所が扱ったらあかん名簿やろ」


「必要であれば詳細を説明します」


「今はええ。説明されたら胃が負ける」


 俺はカプセルの外へ足を下ろした。


 床は冷たかった。裸足に触れる金属の感触がやけに鮮明で、俺は改めて夢ではないと判断した。夢の中で床の冷たさをここまで細かく感じたことはない。仮に夢やとしても、脳が本気を出しすぎている。そんな労力があるなら数学のテスト前日に使ってほしい。


 立ち上がろうとすると、重心が高すぎてよろけた。


 銀髪の女性がすっと近づいて、俺の腕を支えた。


 力が強い。


 見た目は細いのに、俺の体重を片手で支えた。しかも顔色ひとつ変えない。俺が男子高校生の身体ならまだしも、今の俺はたぶん長身の成人男性や。これを片手で安定させるのは、普通に考えておかしい。


「お、おおきに……」


「補助は必要ですか」


「精神面で必要やけど、物理的にはなんとかする」


「精神安定剤の投与を提案します」


「提案が早い。悩み相談より注射が先に来る職場、嫌すぎるやろ」


「注射ではありません。経粘膜吸収式です」


「そういう問題ちゃうねん」


 俺は支えを借りながら立った。


 視界が高い。


 ほんまに高い。


 今まで俺は平均より少し上くらいの身長やった。クラスで前から数えると後ろ寄り、バスケ部に混ざると埋もれる、そんな感じや。ところが今は、銀髪の女性を見下ろしている。彼女も背が高いはずやのに、俺の目線の方がさらに上にある。


「鏡ある?」


「こちらへ」


 女性は滑るように歩き出した。


 歩き方が綺麗すぎる。足音がほとんどしない。背筋は真っ直ぐで、身体の揺れが最小限。訓練された軍人か、舞台役者か、あるいは機械や。


 俺は足元を確認しながら後をついていった。床には細い光の線が走っていて、俺が歩くたびに薄く点灯する。壁には見たこともない文字列が並び、ところどころに浮遊する小型機械が音もなく移動している。丸い目玉みたいなセンサーがこっちを向いて、すぐに逸れる。


「なんやここ、万博の未来館を倫理観ごと地下に埋めたんか」


「万博の未来館、という施設は登録辞書に存在しません」


「辞書登録せんでええから」


「承知しました」


 案内された先には、壁一面の鏡があった。


 いや、鏡というより、発光する黒い硝子や。近づくと表面が水面のように揺れ、そこに俺の姿が映った。


 そこにいたのは、知らない男やった。


 長身。細身。白衣。黒髪に青鉄色の光が混じり、毛先には白銀の筋が入っている。肌は病的なほど白いのに、目元だけ鋭い。瞳は淡い灰色で、光の角度によって銀色に見える。顔立ちは整っている。悔しいくらい整っている。これでモテへんかったら世界の審美眼が壊れている。


 ただし、優しそうではない。


 第一印象は「絶対に人の話を途中で遮って正論を言うタイプ」。


 第二印象は「実験で人間を番号で呼びそう」。


 第三印象は「税務署より怖い」。


 俺は口を開けた。鏡の男も口を開けた。


 手を上げた。鏡の男も手を上げた。


 頬をつねった。痛い。鏡の男も痛そうな顔をした。


「……終わった」


「何がでしょうか」


「俺の顔面が俺やない」


「はい。博士のお姿です」


「いや、はい、ちゃうねん。説明を省くな。俺の顔が俺やないという現象は、普通の会話では最終回の一個前くらいに来るイベントやぞ」


「博士は昨夜まで通常通り勤務されていました」


「昨夜の俺、何してたん?」


「人格再展開基盤の再調整、特別個体群の覚醒条件修正、霊子炉第三環の位相補正、被験体No.071からNo.105の初期覚醒手順確認を実施されました」


「一晩でやる作業量ちゃうやろ。ブラック企業も拍手するわ」


「博士は通常、二十時間程度の連続勤務を行われます」


「労基どこ行った」


「労基、という機関は登録されていません」


「そらそうやろな。この研究所に労基があったら、入口で泣いて帰るわ」


 俺は鏡の中の男を見つめた。


 エルンスト・シュバルツシルト。


 帝国最高権威。


 研究所の責任者。


 どう見ても若い。二十代後半くらいに見える。けれど声や雰囲気には妙な年齢不詳感があった。顔だけ若いまま、長い年月をどこかに押し込めたような感じや。


 俺は急に怖くなった。


 この身体の持ち主は誰や。


 俺はその人を乗っ取ったんか。


 その人は死んだんか。


 そもそも俺はどうなったんや。


 最後に覚えている記憶を探る。


 学校。数学の小テスト。帰り道。雨。駅前の横断歩道。スマホに表示された幼馴染からのメッセージ。たしか、買い物に付き合えとかなんとか。俺は返信しようとして、信号が変わって、人の流れに押されて——。


 そこから先がない。


 記憶がぷつんと途切れている。


 事故か?


 俺、死んだんか?


 そう考えた途端、胸の奥が冷たくなった。けれど、銀髪の女性の前で取り乱すわけにはいかへん。相手が敵か味方か分からない。こちらの混乱を見せすぎるのは危険や。


 俺は鏡から目を離し、女性に向き直った。


「君の名前は?」


「個体識別名はリゼット。正式登録名は管理補佐個体LZ-00。博士の秘書業務、健康管理、実験記録整理、施設内権限補助を担当しています」


「個体識別名」


「はい」


「人間なん?」


 リゼットは数秒、沈黙した。


 その沈黙がやけに重かった。


「生体構造上は人間に近似しています。出生記録はありません。人工子宮由来の調整個体です」


「……マジか」


「はい」


 俺は口の中が乾くのを感じた。


 人工子宮。調整個体。秘書業務。健康管理。


 さっきまでアンドロイドみたいやなと思っていた相手が、実際にそういう目的で作られた存在に近いと分かった瞬間、冗談の温度が下がった。


 ここは、ただの未来研究所やない。


 人間を作る場所や。


 あるいは、人間みたいな何かを作っている場所や。


「博士、表情筋緊張が上昇しています」


「そら上がるわ。今の話で下がる人間おったら、その人もう人間として勝ちすぎや」


「必要であれば、現状把握のために施設概要を説明します」


「頼む。できれば、心臓に優しい順番で」


「本施設 《ラザリオ》は、セルドリア帝国政府直属の機密研究施設です。主研究対象は魂媒体保存、人格再展開、人工魔導兵、霊子炉、特別個体群の製造および調整です」


「全然優しくない。最初の一文から心臓を殴ってきとる」


「申し訳ありません」


「謝罪の声に感情がなさすぎて逆に怖いわ」


 リゼットは端末を操作した。


 空中に半透明の図面が浮かび上がる。島の形。外周の防衛線。地下へ伸びる階層。無数の区画名。生命培養区画、霊子実験区画、兵装試験区画、廃棄処理区画。


 廃棄処理区画。


 文字だけで嫌な汗が出る。


「ここ、島なん?」


「はい。帝国本土より南東四百二十海里。海洋封鎖指定孤島です」


「逃げ場なしやん」


「無許可での離島は不可能です。周囲には海軍監視網、魔導迷彩、海流操作結界、対空迎撃陣が配置されています」


「説明されるほど逃げ道が消えていくシステムやめてくれへん?」


「博士の離島権限は皇帝官邸承認を必要とします」


「俺、所長ちゃうんか」


「はい。所長です」


「所長なのに島から出るのに許可いるんか」


「はい」


「それ所長やなくて高級な囚人ちゃう?」


「博士の権限は施設内において極めて高いものです」


「施設外では?」


「皇帝官邸の管理対象です」


「高級な囚人で確定やん」


 俺は頭を抱えた。


 状況は最悪に近い。けれど、まだ死んではいない。死んでないなら考えるしかない。


 仮説を立てる。


 仮説一、これは夢。否定材料は痛覚、情報量、身体違和感の精度。完全否定はできへんけど可能性は低い。


 仮説二、誘拐されて整形された。身体全体が変化しすぎているうえ、世界設定が大規模すぎる。可能性は極小。


 仮説三、異世界転生。非科学的やけど、現状の説明力は高い。帝国、魔導、霊子、人工子宮。元の世界と体系が違う。


 仮説四、俺の記憶が才賀叕一として捏造されている。つまり本当は俺がシュバルツシルトで、謎の記憶障害で高校生の記憶を持っている。これは怖い。怖いが、リゼットの反応を見る限り、記憶混乱の可能性は彼女も想定している。


 どちらにせよ、今ここで「俺は異世界から来た高校生や」と大声で宣言しても得がない。


 相手は研究所の職員で、俺を博士として扱っている。俺が博士ではないとバレた場合、どうなるか分からへん。保護してくれる可能性もある。拘束される可能性もある。解剖される可能性もある。最後の可能性がこの施設では妙に現実味を帯びている。


 つまり当面の方針は一つ。


 博士のふりをする。


 いや、無理やろ。


 魂媒体保存の第一人者のふりを、数学が得意な高校一年生がやるんか。


 英単語テストで「environment」をたまに綴り間違える男が、帝国最高権威の顔で職場に出るんか。


 詐欺師でももうちょい段階踏むわ。


「博士」


「ん?」


「本日の予定を確認します」


「予定あるんや……」


「午前六時三十分より健康確認。午前七時より第三区画にて被験体No.071からNo.105の覚醒プロトコル起動。午前九時より軍務院視察官への非公開報告。午前十一時より特別個体零号の安定性評価。午後一時より霊子炉第三環の再起動試験。午後三時より廃棄判定会議。午後五時より皇帝官邸宛て機密報告書の署名」


「スケジュール帳が悪夢で埋まっとる」


「通常より軽い日程です」


「重い日の博士、何してんねん。世界でも滅ぼすんか」


「世界規模の実験は現在承認待ちです」


「冗談やんな?」


「申請番号を確認しますか?」


「やめて。今のは確認したらあかんやつや」


 俺はもう一回、鏡を見た。


 そこにいる男は、冷たい顔をしていた。こんな予定を日常としてこなしていた男。被験体の覚醒、軍への報告、特別個体、廃棄判定。単語だけで分かる。ろくでもない。


 俺は、この男の身体に入った。


 この男の立場を背負わされた。


 そして、おそらくこの研究所では、この男の命令で誰かが傷ついている。


 胸がざわついた。


 怖い。逃げたい。知らんふりしたい。けれど、俺が何もせず博士のふりだけしていたら、この施設はいつも通り動く。いつも通り誰かが起こされ、調べられ、使われ、捨てられる。


 俺は善人です、と胸を張れるほど立派な人間ではない。コンビニで募金箱を見ても毎回入れるわけではないし、席を譲るか迷ってタイミングを逃すこともあるし、面倒なことから逃げる時もある。


 それでも、目の前で人間がカプセルに入れられて実験されるかもしれない状況を、まあ異世界やし知らんわ、で済ませられるほど終わってもいない。


 たぶん。


 いや、済ませたらあかんやろ。


 俺の中の何かが、そう言っていた。


「リゼット」


「はい」


「被験体No.071からNo.105って、何なん?」


「本日覚醒予定の人工生体媒体です」


「人工生体媒体」


「魂媒体定着実験および魔導兵適性評価のために培養された素体群です」


「見た目は?」


「外見年齢は十三歳から十七歳相当。すべて女性型です」


 喉が詰まった。


 冗談を言おうとして、言葉が出なかった。


 十三歳から十七歳。


 女性型。


 培養された素体。


 カプセル。


 俺は、最初に見た天井の青白い光を思い出した。血管みたいなチューブ。生命維持装置みたいな管。研究所の冷たい空気。


「……その子ら、意識あるん?」


「覚醒前のため、明確な自己意識は形成途上です。ただし一部個体には夢様反応、言語前情動、痛覚類似反射が確認されています」


「痛み、感じる可能性あるんか」


「完全覚醒後はあります」


 俺は拳を握った。


 鏡の中の男の指が白くなる。


 理屈で考えろ。


 怒るな。


 ここで感情的に叫べば終わる。博士らしくないと疑われる。リゼットがどこまで俺を信頼しているかも不明。職員がどこに監視しているかも分からない。俺の一言で施設全体が動くなら、逆に言えば俺の不自然な一言で施設全体が俺を疑う。


 感情を抑える。


 情報を集める。


 まず見に行く。


 現場を見ないと判断できへん。


 嫌でも見なあかん。


「予定通り、覚醒プロトコルに行く」


「承知しました」


「ただし、その前に確認や。今日の覚醒は俺が直接立ち会うんやな?」


「はい。博士は最終承認者です」


「最終承認なしでは起動せえへん?」


「はい。博士の生体鍵、声紋、霊紋照合が必要です」


 俺は一瞬、呼吸を止めた。


 つまり、止められる可能性がある。


 少なくとも、この場で暴走せず、承認しない選択肢を持っている。


 もちろん、簡単ではない。止めた理由を問われる。軍務院だの学術院だの、よく分からん連中が出てくるかもしれん。博士らしい理由が必要や。


 安全性の再確認。


 基準値の再計測。


 霊子循環の異常。


 実験精度を理由に延期する。


 この施設では倫理よりデータが強そうや。なら、データのためという名目なら時間を稼げるかもしれへん。


 数学で培った俺の武器は、証明と検算や。


 知らん技術でも、相手の言葉から構造を読めば、矛盾を突ける可能性はある。


「リゼット、覚醒前に全個体の状態一覧を見せてくれ」


「承知しました。どの指標を表示しますか」


「全部や」


「全指標ですか」


「そうや。脳波、心拍、霊子循環、定着率、拒絶反応予測、培養履歴、過去の調整ログ、使った魂媒体の由来、担当者、異常値、全部」


 リゼットは初めて、ほんのわずかに目を細めた。


 表情と呼べるほどではない。けれど、反応はあった。


「博士は通常、要約値のみをご確認されます」


 しまった。


 俺は内心で舌打ちした。


 博士の通常行動と違う。ここで怪しまれる。


 すぐに理由を作る。


「昨日の再調整で条件を変えたやろ。要約値だけ見て起動したら、異常の因果が追えへん。特にNo.071からNo.105まで連番で覚醒するなら、個体差より環境差の影響が混ざる。先に全指標を見て、相関を潰す」


 言いながら、自分でもよく分からん単語を混ぜた。けれど論理の形は通した。実験では条件確認が重要。これは現代日本でも異世界でもたぶん変わらんはずや。


 リゼットは端末を見て、淡々とうなずいた。


「合理的です。全指標を表示します」


 通った。


 俺は心の中でガッツポーズした。


 ありがとう数学。


 ありがとう相関と因果。


 異世界でも使える概念ランキング第一位や。


「移動します」


「ああ」


 リゼットが歩き出す。


 俺も白衣の裾を引きずらないように歩いた。白衣の内側には黒い服を着ている。胸元に金属製の認証板。右手の薬指には黒い指輪。これが生体鍵か。外そうとすると、指にぴったり吸い付くように動かなかった。


 廊下へ出ると、施設の広さに改めて圧倒された。


 壁は白と黒の金属で構成され、床には透明な層の下を青い光が流れている。天井からは細い機械腕が折り畳まれて下がり、ところどころに警備兵らしき人間が立っていた。彼らは俺を見ると、いっせいに姿勢を正す。


「博士」


「おはようございます、博士」


「本日もご指導をお願いいたします」


 やめろ。


 そんなに敬うな。


 中身は昨日まで学食の唐揚げ定食に喜んでいた男子高校生やぞ。


 俺は表情を崩さず、軽くうなずいた。


「ああ」


 声が渋いせいで、それだけで偉そうに聞こえる。


 便利やな、この身体。


 いや、便利とか言うてる場合ちゃう。


 職員たちの目には、尊敬と恐怖が混じっていた。全員が俺を見ているのに、誰も長く目を合わせようとしない。博士がどういう存在だったのか、廊下を歩くだけで分かる。


 この男は慕われているのではない。


 逆らえない存在として認識されている。


 俺はリゼットの少し後ろを歩きながら、案内板を読もうとした。文字は見たことがない。けれど、なぜか意味が分かる。脳が勝手に翻訳しているような感覚がある。帝国標準語、というやつかもしれない。


 生命培養区画。


 霊子実験区画。


 第一覚醒室。


 被験体管理棟。


 単語が進むほど、足取りが重くなる。


 途中、透明な壁の向こうに巨大な培養槽が見えた。中には何かの臓器らしきものが浮いている。別の部屋では、腕だけ、眼球だけ、脊髄のようなものだけが、液体の中で保存されていた。


「……うわ」


「どうされましたか」


「いや、なんでもない。保存状態が……その、綺麗やな」


「ありがとうございます。第四培養室は博士の設計です」


「俺、褒めたつもりちゃうねんけどな……」


 リゼットは聞こえなかったふりをした。


 廊下の奥で、重厚な扉が開いた。


 中から冷たい空気が流れてきた。薬品の匂い。金属の匂い。消毒液に似ているが、どこか甘い匂いも混じっている。病院の匂いに、花屋と水族館を足して、倫理だけ引き算したような匂いやった。


「生命培養区画、第一覚醒室です」


 扉の向こうは、広大なホールだった。


 天井はさっきの部屋よりさらに高く、中央には円形の通路が何層にも巡らされている。その通路の内側と外側に、縦長の培養カプセルがずらりと並んでいた。


 数えきれない。


 十や二十ではない。


 百、いやもっとある。


 カプセルの中には、少女たちが眠っていた。


 透き通った淡い緑色の液体の中で、長い髪がゆっくり揺れている。白い肌。細い腕。閉じられた瞼。口元には呼吸補助具のような透明な器具。身体には細い管が繋がれていて、胸元がわずかに上下している個体もある。


 作り物の人形には見えなかった。


 ちゃんと生きているように見えた。


 眠っているだけのように見えた。


 だから余計にきつかった。


 俺は息を呑んだ。


 頭の中で何かが一瞬白くなる。


 この子らが、番号で呼ばれている。


 この子らが、媒体とか素体とか言われている。


 この子らが、起こされて、測られて、使われる。


 俺の中の理屈が、感情を抑えようとする。まだ判断するな。情報を見ろ。彼女たちが何者か確認しろ。ここで暴れるな。博士のふりを続けろ。助ける方法を考えるなら、まず権限を失うな。


 分かっている。


 分かっているけど。


「……なんや、これ」


 声が漏れた。


 リゼットが俺を見た。


「覚醒対象群です。No.071からNo.105まで、全三十五体。魂媒体定着前段階を終え、本日より自己認識形成と魔導兵適性評価に移行します」


「三十五人やろ」


「記録上は三十五体です」


「人の形して、呼吸して、痛み感じる可能性あって、それでも体なんか」


「帝国法上、覚醒前の人工生体媒体に人格権は認められていません」


 法律。


 便利な言葉や。


 人を人やないことにする時、だいたい法律か分類か効率が出てくる。


 俺はカプセルの一つに近づいた。


 中の少女は、白銀に近い髪をしていた。年齢は十五歳くらいに見える。瞼は閉じていて、指先が小さく丸まっている。首元に刻まれた識別印には、No.071と表示されていた。


 俺はその表示を見て、腹の奥が熱くなるのを感じた。


 番号。


 名前ではない。


「博士、承認台へ」


 リゼットの声が響いた。


 ホール中央には、黒い円卓のような装置がある。そこに手を置けば、覚醒プロトコルが始まるのだろう。たぶん、このカプセルの少女たちが目を覚ます。あるいは、もっとひどいことが始まる。


 俺は円卓を見た。


 周囲には研究員たちが集まっている。全員が俺の指示を待っている。白衣の者、軍服の者、記録係らしき者、医療班らしき者。誰もこの光景を異常やとは思っていない顔をしている。


 ここで俺が叫べば、終わる。


 ここで俺が拒否すれば、理由を問われる。


 ここで俺が適当に承認すれば、この子らの運命は研究所の予定通り動く。


 俺は深く息を吸った。


 才賀叕一。


 十五歳。


 数学だけが得意な関西人。


 科学の「か」の字もまともに学んでいない。


 そんな俺が、帝国最悪級の研究所で、極悪非道の博士として、三十五人の少女型人造人間の覚醒を前にしている。


 ありえへん。


 意味が分からへん。


 責任が重すぎる。


 荷物検査で弁当箱だけ持っていくはずが、核ミサイルの発射ボタン渡されたくらい理不尽や。


 それでも、俺の口は勝手に動いた。


「全指標を出せ」


 研究員たちが一瞬ざわついた。


 リゼットが空中に巨大な一覧を表示する。細かい数値。波形。個体差。定着率。拒絶反応予測。霊子循環。脳波安定度。俺には分からない単語も多い。それでも、数値の並びには規則がある。異常値は目立つ。平均から外れたものは見える。分布が偏っているところもある。


 俺は必死に目で追った。


 理屈で踏みとどまる。


 ツッコミで恐怖を散らす。


 感情で道を間違えないようにする。


「No.083、霊子循環の変動幅が他より大きい。No.091は脳波安定度が低すぎる。No.104は定着率が高いのに拒絶反応予測も高い。これ、要約値だけ見たら見落とすやろ」


 研究員の一人が息を呑んだ。


「博士……昨夜の調整後データは、まだ統計処理が——」


「処理前の生データを見せろ。平均で丸めるな。三十五体同時起動なら、個体異常が連鎖する可能性を先に潰すべきや」


 言いながら、俺は内心で震えていた。


 合っているかは分からない。


 けれど、相手が反論できない程度には筋を通す。


 研究所の倫理が死んでいるなら、実験精度で止めるしかない。


 リゼットが俺を見た。


「博士、覚醒プロトコルを延期されますか」


 来た。


 選択肢。


 俺は円卓に手を置かなかった。


 ゆっくり、ホール全体を見渡した。培養カプセルの中で眠る少女たち。無表情の研究員。記録装置。青白い光。俺の身体になった男が作り上げた悪夢みたいな場所。


 俺は言った。


「承認せえへん」


 ホールが静まり返った。


「理由は安全性と再現性の欠如や。No.083、091、104を中心に再評価。全個体の生データを再解析して、覚醒環境も見直す。三十五体同時起動は中止。個別起動に切り替える可能性も含めて再設計する」


 俺は一拍置いて、できるだけ博士らしく、冷たく聞こえるように続けた。


「こんな雑な条件で起こして、貴重なデータを壊す気か」


 その言葉は、俺自身にとっては最低の言い訳やった。


 人を助けたいから止める、とは言えなかった。


 倫理的におかしい、と叫べなかった。


 データを壊すな。


 その言葉でしか止められなかった。


 けれど、今はそれでええ。


 止まった。


 少なくとも、この瞬間は。


 リゼットは静かに頭を下げた。


「承知しました。覚醒プロトコルを一時凍結します」


 研究員たちが慌ただしく動き出す。端末に命令が流れ、培養カプセルの表示が青から白へ変わっていく。ホールの空気が少しだけ緩んだように感じた。


 俺はNo.071のカプセルを見た。


 眠る少女の指先が、液体の中でほんのわずかに動いた気がした。


 見間違いかもしれない。


 ただの反射かもしれない。


 それでも、俺にはその小さな動きが、助けを求める声みたいに見えた。


 俺は心の中で呟いた。


 待っとけ。


 俺は博士ちゃう。


 科学者でもない。


 帝国の偉い人でもない。


 ただの関西弁の数学オタクや。


 せやけど、計算だけは得意や。


 この研究所の仕組みも、帝国の理屈も、博士の過去も、全部分解して、条件を洗い出して、証明みたいに道筋を作る。


 逃げ道がないなら、作る。


 式が解けへんなら、補助線を引く。


 相手が悪の研究所なら、こっちは関西人のしぶとさで対抗したる。


 俺は円卓から手を離し、リゼットへ向き直った。


「まず、研究記録を全部持ってきてくれ」


「全記録ですか」


「全部や。魂媒体保存、人工生体媒体、特別個体、廃棄判定、過去の失敗例、博士本人の研究履歴も含めてや」


「閲覧には博士権限が必要です」


「俺が博士なんやろ」


「はい」


「ほな問題ないやん」


 リゼットは数秒、俺を見つめた。


 その無機質な瞳の奥に、ほんのわずかな揺れがあったように見えた。


「承知しました、博士」


 俺はその呼び名に、まだ慣れなかった。


 慣れたら終わりや、とも思った。


 こうして、俺の異世界生活は始まった。


 勇者として剣を抜くわけでもなく、魔王を倒す旅に出るわけでもなく、美少女に囲まれてウハウハする余裕もなく、目の前には倫理観が粉砕された帝国研究所と、培養カプセルに眠る無数の少女たちと、俺を博士と信じて疑わない職員たちがいる。


 神様がいるなら、一言だけ言いたい。


 転生先の配属ミス、いくらなんでもクセ強すぎるやろ。


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